2011年1月18日火曜日

第8号

第8号
2011年1月18日発行
特集『超新撰21』

回想の『新撰21』
――――いかにしてアンソロジーは生まれるか
・・・筑紫磐井   →読む

プロブレマティックな一冊
~『超新撰21』をめぐって
・・・小野裕三   →読む

『超新撰21』シンポジウムの最中に考えていたこと。
・・・小川楓子   →読む

超新撰21竟宴シンポジウム「定型 親和と破壊」 ダイジェスト
・・・宮崎斗士   →読む

海程ディープ/兜太インパクト -7-
金子兜太 徒然なるままに
・・・川崎益太郎    →読む 

豊里友行の「沖縄便り」(8)
「初心に帰る」
・・・豊里友行   →読む

編集後記     →読む

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海程ディープ/兜太インパクト -7- 金子兜太 徒然なるままに ・・・川崎益太郎

海程ディープ/兜太インパクト -7-
金子兜太 徒然なるままに
・・・川崎益太郎




私と「海程」の出会いは、平成11年11月に当時海程集に投句していた妻(千鶴子)の勧めによるものであった。
そもそも私が俳句に手を染めたのは、平成9年に転勤で山口市に赴任したとき、それまでは転勤のときは単身赴任をしていたが、妻が自営の学習塾をたたんで一緒についてくることになり夫婦だけの生活が始まったことにある。しばらくして妻から悪魔の誘いが来た。一緒に俳句をやらないか、才能がありそうだし、お金もかからないしという甘い言葉に誘われ、句会に顔を出したのが運の尽きであった。俳句の魅力に少しずつ深みにはまり、海程にも入会することになった。海程集に投句を始めて少し経った頃、次の句が好作三十句に採られた。これですっかり気を良くしてますます抜けられなくなってしまった。

空を飛ぶ鯨一刺し秋の蜂  益太郎

兜太師と初めてお会いしたのが、平成14年の海程創刊40周年記念大会(東京)に参加したときである。千鶴子が私を兜太師に紹介してくれた。「おう、千鶴子さんの旦那か」と言われて握手した。お会いできた感激からか、分厚い手の温み、それ以外のことはあまり覚えていないが、兜太師の俳句に対する力強い思いが、講演、選評に表れていたことだけは覚えている。1時間以上立ったままで話される言葉一つ一つに俳句に対する情熱がほとばしり、講評においても、、入選句だけでなく、問題句、採りたかったけれど採れなかった句に時間を割く、兜太師の作者に対する温かいまなざしに心を惹かれていった。その合間に入る「へい、そうですか」という評が妙に心に残った。私の句もその部類に入っていたが、言われても腹の立たない、兜太師に言われたら仕方がないというマゾ的な心持ちになるから不思議である。あるカルチャーで兜太師から「この句は帰りに後ろのごみ箱に入れて帰りなさい」と言われた女性も腹が立たなかったそうである。兜太師の人間味のほかに、小泉元首相ばりのワンフレーズの上手さ、それがあると思う。
以来、全国大会・比叡山勉強会と夫婦での追っかけが始まった。成績は相変わらずだが兜太師とより近づきになった?親会で、どうすればいい句ができるのか、海程向きの句が作れるかと聞いたところ、即座に「海程向きの句はない。自分の句を作ればいい」という言葉が返ってきた。連戦連敗で兜太師に採ってもらえる句ということが先走って、自分の感動に忠実であることを忘れていた。まさに目から鱗なのであった。
兜太師は、どこをどう直せば入選という言い方はされない。それは自分で考えろということだと思う。講演、講評等を通じて自分の句の至らなさを理解させようとするのが兜太師の姿勢である。兜太師の次のような考えにも心が洗われた。一つは、季語はなくてもいいという兜太師が、実は季語を一番大切に考えているということである。
「季語が駄目、季語が効いていない、季語が泣いている」等の評の裏に、季語に対する畏敬の念、深い思いを感じるのである。二つ目は、実感を大切にということである。
「できた句であるが、実感がない、作り物である」という評をよく聞く。高点句にそれが多いのも不思議な気がする。このような兜太師の言葉を胸に作句しているが、言うは易し、でいい句はなかなかできないので、苦吟の毎日である。
全国大会、比叡山勉強会への広島からの参加者が夫婦2人だけだったが、現在では7,8人参加できる態勢になってきた。そんな中、平成23年の海程全国大会は、広島が担当することになった。これまで中国地方では開催されたことはなかったが、広島の会員も増え、参加者も増えたことから、白羽の矢が立ったようである。広島といえば原爆、原爆といえば兜太師の次の名句がある。

彎曲し火傷し爆心地のマラソン  兜太  

広島のことかと思っていたが、長崎での作品だそうである。いずれにしても原爆、平和ということに強い関心をお持ちの兜太師にとって、広島に対する思いは強いものがあるのではと推察申し上げる次第である。5月の広島でどんな作品が生まれるか楽しみである。私とすれば作品より、いかに無事に大会を終えることができるか、その方が問題ではあるが、海程創設50周年の来年に、滞りなく橋渡しができる大会にしたいと思っている。

広島や卵食ふ時口ひらく   三鬼

これに匹敵する句が出てくることを期待したい。
以上、徒然なるままに書き連ねた。

『超新撰21』シンポジウムの最中に考えていたこと。 ・・・小川楓子

『超新撰21』シンポジウムの最中に考えていたこと。
・・・小川楓子



『超新撰21』でわたしは、大谷弘至さんとお隣同士に掲載されている。その事をとても光栄に、また恐縮に思う。昨年、刊行された『大旦』を読んで「うーむ…浄土だ。」と大谷ワールドにすっかり魅了されてしまったからである。言うならば、真冬、広々とした道に差し掛かり、思いがけず春風にぶわーっと吹かれたような心地がしたのだ。このまだお目にかかったことのないお隣さんの作品は、読者を満ち足りたあたたかな世界に誘う。俳諧連歌の歴史がわからないわたしにも、彼方から吹いてくるその風は心地よかった。

菜の花や生まれかはりてこの星に
囀りは大きな金の輪となりぬ
一本の桜となりて待ちゐたり
われら住む家を映して水澄めり
くるくるとまはる地球に冬ごもり    大谷弘至

このゆったりした作り、連作で読みごたえの増す作風、そんな作品世界にすっと入り込むことができたのは、もしかしたら普段接する機会の多い海程の作家にも通じるところがあるのではないだろうか。わたしは、ふとそんなことを思った。

『超新撰21』シンポジウムの第二部で、上田信治さんによる「「新撰」「超新撰」世代 ほぼ150人150句」―五分類に150人の150句を区分したものーが配布された。そこで、大谷さんは「1過去志向=擬古典 ロマン主義 反時代性 「季語」が価値」に分類される一方、「海程」に所属する人の大半が「2超越志向=強度重視 精神世界「前衛」的」に振り分けられていた。1と2に分類された作家には共通点があるとシンポジウムでもふれられており、わたしはあらためて「海程」と「古志」の若手を中心に作品を思い返してみた。

春燈のようにホルンの音ひとつ
水はらうように指揮棒五月来る
半身が深海となる風邪ごこち    月野ぽぽな 

「海程」の月野さんの作品はゆったりとした調べで、深淵な世界を引き寄せようとする点で大谷作品との親和性を感じる。これら三句を含む角川俳句賞候補作の一連は「古志」主宰(2010年現在)長谷川櫂さんの◎がついていたことも記憶に新しい。

本日のきっぱりとあり蕗の薹
鮟鱇のようにもう一軒行こう
ねこやなぎ僕らとりあえずの翌朝    宮崎斗士

「海程」の宮崎作品も、ゆったりと大づかみな把握で、そこはかとない空気感を表すという点で大谷作品と共通するところがあるように思う。しかし、現代志向の宮崎作品は、どちらかといえば同じ「古志」の作家でも、市川きつねさんの作品世界に通じているように思う。以下は、石田波郷新人賞準賞の作品から。

ふらここを降りてまつさらなわたし
大根を持つておどけてみたくなる
時雨るるやクレープさつとくるまれて    市川きつね

「古志」の先輩である大谷さんと同じく、てらいのないゆったりとした調子の作品であるが、大谷作品よりも身近なものを対象とし現在の「わたし」の姿が鮮明である。屈託のない「わたし」の生活が見え、日常の空気感が心地よいという点で宮崎作品に通じるところがあるのではないだろうか。

永遠の田園をゆく冬の蝶
桔梗のつぼみは星を吐きさうな
とびつきり静かな朝や小鳥来る    西村麒麟 

石田波郷新人賞を受賞した「古志」の西村さんの作品は、先の上田さんの分類では「4私性=ノーバディーな私による「私」語り」に振り分けてあったが、わたしは「1過去志向=擬古典 ロマン主義 反時代性 「季語」が価値」=(「古志」的?)と「2超越志向=強度重視 精神世界「前衛」的」=(「海程」的?)の混在する傾向にあるようにも思える。一句目には1を、二句目には1+2を、三句目には4をと当てはめてみたくなり、多彩である。

このように、「海程」「古志」の若手作品にはいくつかの共通点を見出す事ができるが、深淵な世界を引き寄せたり、彼方を志向するほど、一方では背後に生身の人間の業のようなものが見えてくる気がしてならない。いわば作品世界が浄土に近ければ近いほど、わたしは、句の向こうにある生身の人間の業を鮮やかに見てしまう。

菜の花や生まれかはりてこの星に    大谷弘至

この句のやわらかさや甘美な雰囲気の奥には、それに対する修羅場のようなものがあるような気がしてならない。その修羅場は個人のものにとどまらない。遡及する時の流れもまた、連綿と続く無数の修羅場を感じさせ、人間の業とは何かと思わせる。それが大谷作品の怖さであり、かえがたい魅力につながっているのではないだろうか。

白骨の反りと冬虹と揺らげよ
鬼食いも寂びたる天の縄梯子
日やゆくえ知れずの時のさくらばな    九堂夜想

様々な「海程」「古志」の作家を辿ってきたが、本質的に、大谷作品に近いのは、実は対極とも思える九堂さんの世界感なのかもしれない、と言えば早急になるだろうか。しかし、もしも大谷作品の向こうに阿修羅が立っているとするならば、と考えるとこれらからの作品がますます楽しみになってくるではないか。そんなことをぼんやり考えている内に、時はシンポジウムから賑やかなパーティーへと移っていた。

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回想の『新撰21』 ――――いかにしてアンソロジーは生まれるか ・・・筑紫磐井

回想の『新撰21』
――――いかにしてアンソロジーは生まれるか
・・・筑紫磐井




『超新撰21』が刊行されたばかりであるが、『新撰21』の刊行の経緯を簡単に述べておこう。『超新撰21』に公募選考の詳細な経緯が記述されているので、それと併せて『新撰21』の刊行の経緯もつまびらかにしておいた方がよいと思うからである。今後こうした企画の参考になるかもしれない。

前史・・・・長岡裕一郎

『新撰21』の刊行に当たっては一つの前史を語っておく必要がある。それは、「―俳句空間―豈weekly」というブログが立ち上がったことである(2008年8月17日~2010年7月18日の間毎週日曜日刊行)。すでに「週刊俳句」という週刊ウエブマガジン(2007年9月~)が発信されており、これに対して「俳句など誰も読んではいない」という刺激的な巻頭言を掲げて、高山れおなと中村安伸が管理したブログである。
2008年7月29日 新宿から、高山、中村氏が電話をよこし(アルコールが入っていたようだ)、「ブログを立ち上げますから」と宣言した。もちろん否応もなく、翌月からは硬派な記事を載せてブログが更新された。決してアクセス数は多くはなかった(最盛期でも「週刊俳句」の10分の1程度)が、特色はよく理解されたようで、冨田拓也、関悦史氏などが毎号名物記事を載せ、私も時々協力させてもらった。
このブログにとりわけ熱心なファンが入り、とうとうこのブログの関係者が企画する出版のパトロンになってもいいと言い出されたのだった。詳細は、私はあまり良く分からないが、関係者たちはいつか本気になっていった。
そんなことで構想がかなり煮詰まって来て、私と高山れおなが初の打ち合わせを行ったのは12月20日の原宿の喫茶店であった。何かめぐり合わせのような気もするが、豈の同人でその年の4月になくなった長岡裕一郎の追悼個展の後、流れるままに喫茶店へ入っての打ち合わせであった。
わき道にそれるが、長岡裕一郎は昭和47年、大学受験中に三一書房の『現代短歌大系』の新人50首詠に応募し受賞次席を受けている。選者中井英夫に「あまり達者で舌巻くほかはない」と言わしめた作品が、

青空にマグリットの月冴え冴えと『諧謔』は歩く恋愛海岸
ギリシャ悲劇の野外劇場雨となり美男美女美女美女美男たち

の一連だ。後、俳句に転じ「豈」に作品を発表したが、過度の飲酒が肝臓をむしばみ、53歳でなくなった。こんな長岡の個展の後で新人アンソロジーの打ち合わせをするのも何か引き合わせたような気がする。実際、『超新撰21』の公募枠は長岡が挑戦した『現代短歌大系』の新人詠にヒントを得たものであった。

『新撰21』出版まで・・・上から目線

その後私は、資金と企画があるのだからいい出版社を探してほしいという要請を受け、旧知の邑書林の島田牙城氏に、年も押し詰まった12月31日メールを出した。その後やり取りがどれくらいあったのか忘れたが、翌年2月19日、島田氏より明細まで提出されて一挙に話が進捗することとなった。
今はもう時効だから言うが、当時、子供のサッカーの監督で忙しかった島田氏からの返事が途切れていたので、私は督促をしてみた。それもどういうわけか、メールではなくその時はファックスを送ったのだ。ご丁寧にも、邑書林がだめなら別のA出版に依頼しようと思うと書いてあった。そのファックスが島田氏の前に、社長の目にとまり、向こうでどういうやり取りがあったか知らないがあっという間に返事が返ってきたのだ。島田氏の名誉のために言えば、それ以降は獅子奮迅の働きをしてもらっており感謝している。
後は迅速であった。2月28日、早稲田のリーガロイヤルホテルで、高山、島田、筑紫の3者会談が行われ(残念ながらこの時、出資者は都合悪く来ることができなかった)、新人アンソロジーの骨格が決まる。本のイメージは、邑書林の「セレクション俳人」シリーズである。

○企画:高山れおな、対馬康子、筑紫磐井
○出版時期:21年12月
○収録候補者:40歳以下21名
○企画内容:21作家100句、各作家論、座談会(編者とゲストによる)とする。

今見直してみるとほとんどこの通り進んだのだから奇跡的だ。21人という人数は、21世紀と語呂を踏んだものであり高山れおなが固執した。40歳以下は、選者のれおなをはずすための上限でもあった。100句は、芝不器男俳句新人賞の例を見るまでもなく作家の力量を知るためにこの程度は必要な句数であった(その意味で俳句甲子園の活躍者は、それだけでは対象にしづらかった)。収録作家の人選は少し進んでいたが、冨田拓也、関悦史氏などの芝不器男俳句新人賞の入選者がイメージにあったから、人選企画には同賞への関与の深い対馬康子氏にはぜひとも参画してもらわねばならなかった。また、新人の発見に熱心な小澤實氏の「澤」が特集で、<二、三〇代特集>を組んでおり、このメンバーも参考にさせてもらったので、いずれ小澤氏には何かの形で協力を頼みたいと考えていた(後日、2回の座談会のゲストになっていただいた)。
私の主張は、21作家論は結社の場合主宰者を外すこと、特に人選企画に我々世代が参加するのはしょうがないとしても、作家論は40歳以下の執筆にすべきだということだった(結果的にいい執筆者が見つからず、5歳下駄をはいた45歳以下としたが)。40歳以下の作家が発表し、批判し合う構図こそ大事だと思ったからだ。後日我々の間でミニ流行した言葉が「上から目線」であり、新人を発掘することに熱心な人々でさえ、それを議論するときの姿勢が、指導者が弟子たちを見るまなざしで批評することがうかがわれたのである。我々が、「上から目線」を脱し得たかどうかは不明だが、「上から目線」はこの種の企画にあってはよくないと自覚していたことだけは一応誇れるかと思う。
あと個人的には、豈の同人が2人も企画編集に入るのであるなら、身を律して、「豈」からはどんないい作家がいても1人しか入れまいと思っていた。50%近く豈の寄与でできる本については是非そうあるべきだ。後日変なブログが、「人選を高山れおなが中心となり、編集委員に高山れおな、筑紫磐井という3人中2人が「豈」のメンバー。選ばれた21人や小論執筆者に「豈」のメンバーがずいぶん含まれているので、もうちょっと懐の深いところを見せてもらいたかった」と非難しているのは予想通りの見当違いの非難であった。結果的には、「海程」作家が最多の3人となっているがそれは何ら問題ない。ただ困ったのは枠組みが決まってから、従来から自由に「豈」で執筆してもらっていた関悦史氏が、義理に感じてか「豈」への入会希望を出してくれたことで、「豈」から1人のプリンシプルが一見崩れていることだ。『超新撰21』ではこの原則を守ったが、こんどは島田牙城氏が主宰する「里」が途中入会者を含めて2名となってしまった。
以後、高山れおな、対馬康子、筑紫磐井の3名(もちろん島田牙城氏も加わったが)でメールにより人選絞り込みが行われた。「21世紀に活躍した」を表すコンセプトが複雑で、結局「2009年元旦現在40歳未満で2000年以前には個人句集の出版及び主要俳句賞の受賞のない俳人」となったがよくわからないかもしれない。しかしこの基準で行くから、高柳克弘、鴇田智哉氏ら新人賞受賞作家も『新撰21』に入っている。この作業後、最初は参加者、その次は小論執筆者に依頼が進み、9月には原稿を踏まえた座談会が行われることとなった。名称は、「新星」などもあったが高山れおなの提案した「新撰」におちついた。刊行後の「新撰21」竟宴はもっぱら島田牙城氏の提案だが、王朝時代の勅撰和歌集撰定後の「竟宴」に似ていると編者には評判がよろしかった。200名に上る若い人々が集まったのはご承知のとおりである。

『超新撰21』出版まで・・・ぎらぎら

『超新撰21』についてはさすがにまだ回顧するには早すぎるようだ。『新撰21』の座談会で小澤實氏が「40歳以上、50歳のアンソロジーも読んでみたい」と述べてくれたのをきっかけに、かなり早い時期に邑書林が自費で刊行する決心をしてくれたことだけを述べておく。今回はパトロンはいないから、まったく邑書林の英断であり、深く感謝する。
ただ一つだけ、『超新撰21』シンポジウムで指摘された「版元・編者のぎらぎらとした姿勢」について触れておきたい。
当初、編者たちの『超新撰21』人選案は、30歳の大谷弘至氏から始まり50歳の伝統派俳人で終る予定であった。『新撰21』も『超新撰21』も、牧羊社と違い透明性を示すために、人選を含めた当初の企画案をそのまま参加呼び掛けで配ったから、今回の参加者は、20人の候補者がいて(ほか1名が公募。途中辞退者が出たので枠を2に増やした)、そのうちの1人が辞退したことを知っている。この顔触れで見た時、ちっともぎらぎらしていなかったのである。
名前を隠したまま行われた公募審査の結果、20代をとろうなどという意識はなかっただけに、大谷氏よりはるかに若い二人が決まった時は編者一同絶句したものである。高山れおななどは、「ザ・ヘイヴン」の作者を少女の仮面をかぶった中年おじさんではないかと疑っていたほどである。こうして、大谷氏の前に20代が2名入ることになる。特に最年少は種田山頭火の遠縁に当たる自由律の俳句作家であった。一方これと並行して伝統派の最年長者が辞退した。その結果、結びが川柳作家清水かおり氏で終ることとなった。自由律作家で始まり川柳作家で終わる一見ぎらぎらした構成となったのは編者がぎらぎらしていたのではなく、『超新撰21』の偶然の女神がぎらぎらしていたのである。ただ、神慮に忠実でありたいと誰しも思ったことはまちがいない。
私が一番、版元、他の編者がぎらぎらしていると感じたのは、いかに形式的要件

・2010年1月1日現在50歳未満(U―50すなわち1960(昭和35)年1月1日以降生まれの方)
・2000年12月31日までに主要俳句賞受賞歴がなく、
・同じく2000年12月31日までに個人句集上梓のない俳人

に合致しているとはいえ、大結社「鷹」の主宰小川軽舟氏に参加依頼を出すと聞いたときだった。小川氏には、今回『超新撰21』に参加し、さらに『超新撰21』饗宴シンポジウムに参加して頂き深く感謝しているが、それとは別に、小川氏へ依頼状を出すと聞いた時は、わが編者も版元もぎらぎらしていると感じないわけにはいかなかった。

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豊里友行の「沖縄便り」(8) 「初心に帰る」 ・・・豊里友行

豊里友行の「沖縄便り」(8)
「初心に帰る」
・・・豊里友行



ある総合俳誌のインタビューの前質問で何故俳句を選ばれましたかという質問を受けた。
宮沢賢治の文学への姿勢「おれはひとりの修羅なのだ 」(宮沢賢治『春と修羅』より)に羨望し、文学の道(当時私は小説家を志していた。芥川賞作家の目取真俊氏が高校教師をされているとき俳句文学を究めるのも勉強になると示唆を受ける)を志す。
高校三年生のとき「とんぼ舞うちぎり絵の中の通学路 友行」でジュニア部門最高賞の「ろうたす賞(「五色」俳句会代表で選者=新馬立風)を受賞。
以後俳句道に精進する。
その時の賞金で私はオリンパス一眼レフカメラのOM-10を購入した。
当時の私はなにかしら沖縄のためになりたいと考え、文学と写真という表現分野を学ぼうと試みる。
野ざらし延男氏の代表される「天荒」俳句会に入り、俳句を本格的に始めた。
その頃は多作していた。
若かったあの頃の私には、遠慮の2文字などなく多作症とでも言いたいくらい多作していてひと月の投句数が百句を越えることもあった。
俳句会の事務局のファックスが夜通し鳴いていたという(投句制限を作ったのも遠慮を知らない私の多作が原因だった)。
俳句を創ることに純粋に専念していた。
それらの多くの俳句を野ざらし延男氏は俳句会の場で選句していただき俳句鑑賞をして頂いた。
野ざらし延男氏の俳句鑑賞を土台に私は伸び伸びと大量の俳句を試行錯誤した。
その良き師匠との出会いが今日の豊里友行という俳人を形成してきたことを深く感謝している。
星空を眺めながらこの美しい星の唄をどう表現したものかと思いながらつくった俳句がある。
夜のパンに鮫のかなしみをぬる  友行」
この句の意味性は難解かもしれない。
まるで赤ん坊が何かを要求するために泣く行為みたいだ。
言葉にならない何かを表現しようと私は果敢に自己の心の趣くままに俳句を創る。
自分の俳句を鑑賞するのは、俳句鑑賞を狭める恐れがある。
俳句は優れた俳句鑑賞の創作がなくては成り立たない文学だと思う。
野ざらし延男氏の俳句会を抜けて、それをしみじみ実感する。
俳句と写真という表現を探求する旅は、永遠の孤独を抱え込む行為だ。
日常に居るからといって決して何が旅だと笑えない。
これまで優秀な師を得ていた私は、もう戻ることのない俳句の旅を無自覚にも選ぶことになった。
これまで散々お世話になった「天荒」俳句会へもう二度と戻ることは出来ない。
十年以上在籍した俳句会の人たちに別れの言葉もなく大変無礼なやめ方をする。
恩を仇で返すとはこのことをだ。
私は若くて何も考えが及ばない人間だった。
私は「月と太陽(ティダ)」俳句会を立ち上げる。
もう野ざらし延男氏の教えからどれだけ離れられただろうか。
まだまだ野ざらし延男氏の教えをぜんぜん乗り越えられないでいる。
私は修羅になることなどできないほど弱い人間だ。
いつの間にか死ぬために俳句という文学を探求していた。
闘病に闘病を乗り越えて来た私の最初の師匠は、生きるための俳句文学を説いている。
私の歪んだ美意識は、死の棘を生きる姿態とする薔薇のように咲かそうとする。
それを私が否定することが出来たのも最初の師匠の教えに振り返ったからだ。
社会に合わそうと必死で生きていく私は仕事をこなしながら寝る間を惜しんで俳句に写真に没頭して行く。
ある種のナルシズムの陶酔のような感覚を味わっていた。
沖縄のためなら死んでもいいと思うように成って行く。
俳句という文学に、写真という愛に私は酔いしれる。
手も足も削いだ丸太ん棒の寝床  友行」
私の夢は星の軌跡を描く夜空にだけ刻んでいた。
私にとって俳句も写真も遺書のようなものだった。
師の生きるための文学を私は、歪んだ美意識の武器にしようとしていた。
個性という自己の開花を歪んだ美意識で捉えて放そうとしなかった私の手をぎりぎりで解いてくれたのも確かに師であった。
何度も何度も俳句の原点に螺旋階段を上るようにゆっくりと歩を進める。
ふりかえるたびに過ちを悔いながらも人生の階段を上っていく。
沖縄のためではなく自分のための表現だと気づく。
私は修羅になる必要などなかった。
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の松尾芭蕉の覚悟を私は沖縄の地で覚悟する。
沖縄に生まれ育ち、そして死に逝くときもこの終の棲家を文学と写真に求めていようと想う。
ちなみに野ざらし延男氏の俳句教育は、学生俳句の沖縄の俳句隆盛の歴史を築き上げた。
私は切にその生きる文学の後継者が育ってほしいと願う。
私もまた私なりの人生感で俳句を創造して行きたい。  
今年の目標は初心に帰り多作していきたい。


撮始め双葉は月と太陽(ティダ)のワルツ    友行

米軍基地キャンプ・シュワブと名護市辺野古の浜の境界線の有刺鉄線(バラセン)が渦を巻く。
そのバラセンに平和を祈るように基地移設反対の思いを書き込んだ布が結ばれている。

プロブレマティックな一冊 ~『超新撰21』をめぐって ・・・小野裕三

プロブレマティックな一冊
~『超新撰21』をめぐって
・・・小野裕三



『新撰21』は、若手が対象とは言いつつも「手堅い人選」という印象があったのだけれど、今回の『超新撰21』の人選はやや冒険的とも言えるだろうか。冒険的とは、例えば川柳作家を入れていたり、あるいは公募枠を設置したり、とそんなところに端的に現れている。それは野心的な試みとも言えるし、賛否両論あるとは思うが、意図自体には大きく共感する。
ただし、俳句の未来のために、(とりあえず僕自身のことは置いておくとしても)その将来を担うべき人材に光を当てるという意図なのであれば、もっと紹介したい俳人はいたのではないか、という悔いは残る。僕の同世代でそういった名前であればいくらでも挙げることができるし、実際、上田信治氏の作った「百五十句」のリストにはそういった名前がいくらも入っているので、きっと候補には挙がったのに違いない。勿論、限られた21人(もしくは42人)という制限の中、断腸の思いで人選を進めたのだろうし、やむをえない部分もあったはずだ。しかしそれにしても、明らかに俳句史の未来に名前を刻むはずの名前が欠けているのは少し淋しくもある。ぜひそういう人たちを再度まとめた続編を!と思ったりしたのだけれど、残念ながら版元のほうでは続編の予定はないようだ。
そんな意味で、今回の本で特に賛否が分かれそうに思うのは川柳作家の清水かおり氏と、俳人と言うにはあまりにも俳人的でない「俳歴三ヶ月」の新人・種田スガル氏だろう。それでも僕が見る限り、清水氏の作品は結構面白くて、なまじっかな俳人の作品よりは面白いと感じるところがある。そう考えれば今回の冒険的編集意図はひとつの目に見える形となったと評価したい。
一方で種田氏の作品だが、これは率直に言えば俳句というより、百行からなる現代詩、と捉えたほうがぴったり来る。もとより、そこに連ねられた言葉の優れたセンスを疑うつもりはないし、「俳歴三ヶ月」という経歴をネガティブに捉えるつもりもない。だがそれでも、彼女の作品は俳句よりも現代詩と捉えたほうがよく読める。そのことを現代詩的な俳句、と評価することもできるのかも知れないが、逆に言えば「では、なぜそれは俳句でなくてはならないのか?」という根本的な疑問も湧いてくる。それは現代詩そのものであって充分ではないか、という気もする。
この点は、実は高山れおな氏が書いている「二十一世紀女子自由律」の問題とも密接に連動している。氏が、佐藤文香氏なども含めて、近年のひとつの流れとしてこれを総括して的確に整理したのは慧眼と言っていい。ただし問題は、それが本当に俳句に向いているのかどうか、ということだ。以前に『傘』の評で、佐藤文香氏の短歌が異常に面白い、ということを僕は書いた。もとより「自由律」であるならそもそも俳句や短歌という枠組みに囚われる必要はないとも言えるが、それでも漠然とした字数のイメージなどが短歌と俳句を分ける。率直に言ってしまえば、「二十一世紀女子自由律」は、俳句ではなく、短歌や現代詩に(まさに種田スガル氏がそうであるように)こそ向いているし、さらに言えばJ-POPなどの方が向いている。向いてないからそれを俳句はやってはいけないということではないが、残念ながらその純粋な成果としては向いている方にやはり分がある。佐藤文香氏の短歌が面白いように、「二十世紀女子自由律」的なものを受け止めるには、俳句よりも短歌・現代詩の方が成果が出やすい。
越境、とは魅力的な誘惑だ。自由律へ、そしてさらには川柳や現代詩へ、そういった方向に俳句が越境の衝動を抱えることを決して否定はしない。実際、僕自身もそのような句を作ってきていることもあるし、俳句自体もそのような葛藤的衝動を抱えながら発達してきた部分もある。しかし、そのような越境は、「では、そこまでしてなぜ俳句であり続けなくてはならないのか」という疑問を必ず突きつける。繰り返すが、『超新撰21』の編纂は冒険的であり野心的だった。そのことの評価は、これからの俳壇に委ねられるべきだろう。だが、その野心とは、「それでは、なぜ俳句は俳句でなくてはならないのか」という問いも同時に突きつけたのだと思う。
その観点から興味深い事実として、蛇足かも知れないけれどもあえて触れておくが、今回の種田スガル氏の作品の一部にJ-POPの歌詞と酷似したものがあったとの告知が版元から発表された。発表された以上の事の詳細は知らないので軽率な論評は差し控えるが、この顛末については基本的にこう考えるべきだと思っている。つまり、その顛末の主語は種田氏を始め関与した個々人ではなく、ただ「俳句」なのだ。貪欲にJ-POPという外部へ言葉を求めたことの主語は「俳句」であり、俳歴三ヶ月の新人という外部に才能の光を求めたことの主語は「俳句」である。「俳句」が内に孕む衝動のようなものが、動いた結果でしかないのだ。この顛末を見ていると、何か「性急さ」のようなものを感じる。「なぜもっと俳句の中で練り上げられた言葉や俳句の中で練り上げられた才能をこの本で取り上げようとしなかったのだろう」と、これは単純な疑問として湧いてくる。しかし繰り返すが、それをしなかった「性急さ」の主語は「俳句」である。
あるいはこんな風にも考えてみよう。我々が越境と言い、もしくは交流と言う時、概ねそこには現代詩・短歌・川柳はあってもJ-POPはない。しかし、大衆性・愛唱性・韻律性といった観点から見れば俳句よりJ-POPに分があるのは自明のことのようにも思える(勿論、それ以外にも評価軸はあるので、一概に総合点で俳句が劣っているということではない)。あるいは、最近俳人たちの間で流行っているという「ユニット」も、それは元々はJ-POP系の言葉であると言える。そう思えば、俳句はJ-POPの植民地化しつつある、ということだって、ありえないことではない。いやもっと言えば、俳句はJ-POPの植民地としてこそ二十一世紀を生き延びて行く、という未来図だってありえない夢想と否定することはできない。
やや極論めいたこともあえて書いてみたが、僕が言いたいのは今回のこの本はそういったさまざまなことを含めて、正しい意味で「プロブレマティックな一冊」になっている、ということだ。根底にあるのは正しい意味で冒険的で野心的な意図であり、結果として起きたことは編者の意図したのとは違った部分もあったのだろうが、そのことも含めて的確に「俳句」の抱える諸々の問題、もしくは諸々のフロンティアを浮き彫りにした。
とにかく、よくも悪くも我々の時代の「俳句」のスタート地点はここである。そのことを網羅的な見取り図にしてみせた、「プロブレマティックな一冊」だと思う。

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超新撰21竟宴シンポジウム「定型 親和と破壊」 ダイジェスト ・・・宮崎斗士

超新撰21竟宴シンポジウム「定型 親和と破壊」 ダイジェスト
・・・宮崎斗士



2010年12月23日(木・祝)、千代田区・アルカディア市ヶ谷にて、超新撰21竟宴シンポジウム「定型 親和と破壊」が開催された。
第一部は「『新撰21』『超新撰21』に見る俳句定型への信・不信」と題し、パネリストに高野ムツオ氏、小川軽舟氏、鴇田智哉氏、対馬康子氏。そして進行役として筑紫磐井氏。
第一部冒頭、まず筑紫磐井氏が俳壇における戦後新人の歴史をレクチャーした。「私は、俳句の歴史は新人の歴史であったと思う。戦後六五年の新人の歴史をたどれば俳句の未来も見えてくる気がする」(筑紫磐井/「俳句四季」2011年1月号より)。
そのコンテンツは、
(1)「戦後新人五〇人集」(「俳句」昭和31年4月号・特集「戦後新人五〇人集」より)
飯田龍太・能村登四郎・金子兜太・波多野爽波・藤田湘子・高柳重信etc.
(2)「第四世代」新人((「俳句」昭和37年1月号・特集「第四世代」より)
上田五千石・阿部完市・有馬朗人・鷹羽狩行・原裕・大串章etc.
(3)牧羊社「処女句集シリーズ」「精鋭句集シリーズ」新人 
長谷川櫂・小澤實・岸本尚毅・片山由美子・高野ムツオ・対馬康子etc.
(4)『新撰21』『超新撰21』新人
というラインナップであった。
「私が言いたいのは、時代は常に新人を待望している、そして、新人が次代の大作家となるべく精進しているということなのだ。この鎖が断ち切れたら、俳句の伝統、俳句の進歩は行われなくなる」と筑紫氏。
続いてパネリスト諸氏が、「超新撰21」の感想、また「新撰21」「超新撰21」の意義についてスピーチした。

高野:今度のアンソロジー「新撰21」「超新撰21」、新しい時代の一つのエポックを我々は体験できるかなと思っております。ただ、ここに載ったからといって、いい作家であるということではない。当然個々の作家でいえば、こんな作品は駄目だという作家もいれば、これは凄いという作家もいる。そういう意味では、これは「俎板に乗った」というだけだと思うんですね。そこを参加者は勘違いしてはいけない。アンソロジーに載ったからといって「私はある程度作家として認められた」というふうには私は勘違いしない方がいいと思います。そしてこのシリーズに入らなくても、もっと優れた作家はたくさんいるかもしれない。実際いるんだと思います。入れなくて悔しがってハングリー精神を燃やした人の方で、もしかしたら凄い作家が出てくるということを実は私は期待している。そういう意味でもこのアンソロジーはよかったなというふうに思っています。

鴇田:「新撰21」は本が出来た時、僕は非常に面白いなと思ったんですよ。僕はもともと人の俳句あんまり読まなかったんですけど、「新撰21」は自分が読者となって読むようになって、あっ面白いな面白いなと。で、「超新撰21」はけっこう違うなと思ったんですよ「新撰21」と。「新撰21」というのは割に僕の中で、まあ想定内と言ったらアレですけど、「俳句」という今までのイメージの中にあった句集だと思うんですね、自分も含めて。で「超新撰21」を読んでみたら、もっと幅が振れているというか、まだ僕も読み切れてなくて‥‥俳句ってこんなにいろいろあるんだと。その作者がどんな人だなんてことを考え出すと結局疲れちゃって。まあそういう意味では「超新撰」の方が問題がある本じゃないか、と。
僕の中で「俳句って何だろう」と考えた時に、それは「五七五」であろうと思ってまして、例えば今回、種田(スガル)さんの作品、短い自由律ってけっこう読むことあったんですけど、長い自由律って最近ちょっと珍しいのかなと思って読んでいたんですが、文体としてはその書きなぐっている感じがあって、それをもちろん作品として提出してるんですけど、推敲というものがあるわけで、それをどこで止めるかという時に、その止まりようがない。そのどこで止めるかという部分、自由律はそこに命をかけていると思うんですけど、結局その五七五でやってると五七五で止められるんですよね。だから僕はそこの五七五に寄りかかるしかないかなと今思ってて、だから自由律には行けないんですよね。まあそういう繋がりで考えてます。

小川:私も確かに「新撰21」に比べて「超新撰21」はある種の読みにくさがあったと思います。たぶんその最大の原因は「新撰21」が大変当たったもんですから、おそらく出版元にも編集の皆さんにも肩に力が入って、気負いが生じたのではないかと、いうふうに思います。「新撰21」はやや前衛系に人選が偏っているのは致し方ないとしても、だいたい今の若手の俳句を展望できる、非常にバランスのとれたアンソロジーでした。それぞれの21人の作者と21人の小論の執筆者そのものが前に出てきている感じがしたんですけれど、「超新撰21」の方はかなり編集者の意図がギラギラしているなという感じがしました。今回のシンポジウムのタイトルに「定型親和と破壊」と書いてありますけど、まさにそういうテーマ性を狙ってるなと強く感じられましたね。

対馬:この企画(「新撰21」「超新撰21」)も今は「まだまだ」という声もあるでしょうし、いろんなご意見、刺激を受けたという意見も私のほうにも届いてますけど、30年経てば「この時代があった」と必ず言われるんではないかなという思いを強くしています。
小川さんは「編集者のギラギラした意図」を感じるとおっしゃいましたが(笑)、当初は決してそんなことはなくて、まず四十代以下のアンソロジーを作ろうとした時に、有名な俳人の方たちがいる、岸本(尚毅)さんにしろ仙田(洋子)さんにしろ、まあ小川(軽舟)さんもそうだったんですけど、そういう方たちを抜きにしてアンソロジーを作る時にどうやって作るのかというのがまず一番に議論したところだったんです。
で、公募で最後、何かジェットコースターの上から下までおりてしまったような選になってしまったので、この「定型 親和と破壊」というのは当初からあった目的ではなく、結果この本の目指したところが「実はそうだったのか、私たちは、これだったのか」というところで私もあとで変に納得しました。
それから鴇田さんのお話を伺っていて、この「新撰21」「超新撰21」、決して私たちが世に出したとか世に問うということではなくて、何かもう一つ大きな意味があったなと思ったんです。それは横との繋がり、若い人たちのかたまりとしての横との連携とか、その作品を読んだり批評したり、その活発な土壌を作る意味が今回すごくあったのかなと思いました。

第一部のラスト、高野氏が総まとめ的にコメントした。

高野:新人の発掘というのはだいたい結社単位でした。結社で育って、結社の主宰が認めて、そして総合誌にデビューする。句集を出す。そんな流れが主流になっていて、その中でこの「新撰21」「超新撰21」というアンソロジーが出たということが、おそらく皆さんにとっては新鮮で刺激になったんじゃないかと思います。つまり結社の主宰者の評価とはまた別の観点から評価された人たちの集まり。そういうふうな捉え方をしていくと、この両シリーズの魅力というのがまた違ってくるんだろうと思います。
まあ(「新撰21」と「超新撰21」の)どちらが読みやすいかという話もあったんですけどね‥‥私はどっちも読みにくかったです(会場笑)。それでも比べてみるとやっぱり「超新撰21」の方が読みにくいかな。これはたぶん種田スガルが最初にあるせいじゃないかなと(笑)。でも「超新撰21」一通り読んでいって、あ、これは今までになかった見方をはっきり展開しているとまでは思いませんけど、そういう萌芽があるだろうと思われる箇所がたくさん散見される。まあ面白かったというふうには思っています。
で、さきほどから磐井さんなんかがずいぶん控え目に言ってるんですけどね。私はもっと威張って言った方がいいと思う。「私たちが二十代三十代の俳人を動かして、これから新しい俳壇を作ってゆく!」(会場笑)。かつての高柳重信なんかがそうですよね。一度二十代の時、代々木上原の高柳さんのお宅に遊びに行ったことがあって、何で行ったかというと「富沢赤黄男全集」が欲しかったから。で行って「ないですか」と聞いたら「もう品切れで、ない」と言うんですね。「いつ出るんですか」と聞いたら「そんなに欲しいのか」と。「はい」。「だったら自分で出せばいいじゃないか」(会場笑)。ああそうなんだ、自分で出版すればいいんだ。俳壇で評価されなかったら自分が俳壇を作ればいい!(会場笑)。何このアンソロジーに入れなかったって、そんなに僻み根性で小さくなって丸まっていることない。だったら私がアンソロジーを作って、これよりも素晴らしい作家を集めてやる。やっぱりそういうふうな視点が大事だと思うんですね。そういうエネルギーがおそらく昭和三十年代の高柳重信とか金子兜太とかの頭の中にあったのだろうと思います。
そういう意味ではこれからの三十代四十代、そして五十代の人たちがそれぞれの立場で俳壇というものを作り上げてゆく。それくらいの気持ちでやっていくと、俳句というものはもっと活性化し、さまざまな多様な世界が広がってくる。俳句は私は、自由、多様、これでいいんだと思います。
こんな間もなく消え去ろうとしている俳句形式ですが(笑)、もしかするともう一回凄い大きな炎を燃やすかもしれない。その一つのきっかけになるかなあと思って、この「超新撰21」を楽しませてもらいました。


続いての第二部、「君は定型にプロポーズされたか」というタイトルで、パネリストは清水かおり氏、柴田千晶氏、上田信治氏、ドゥ-グル・J・リンズィー氏、高山れおな氏。司会進行は関悦史氏が担当した。

関:パネリスト個々人、自己紹介的にお話を伺いたいと思うんですが、どういうふうに俳句を始めてこられたかということ、またどういう方向を目指し作品を作っていくかという部分、ぜひよろしくお願いいたします。

印象に残った発言を。

上田:(高野)素十もね、「何にも言ってなーい!」って全部どけちゃったあとに、うっすら感情が出るみたいなのがあって、その薄さが最近気に入っているところなんですけど。

リンズィー:海洋生物の研究をやるに当たって、本当に事実しか言っちゃいけないんですよね。論文を書く時に、この生物は絶対100%こうである、というようなことしか言っちゃいけない。それじゃ物足りなくて、俳句だと「事実」じゃなくて「真実」が詠めるわけだから、100%はこうだ!とは言い切れないけど、何か自分の心の中では絶対にこうである、こういうことに違いない!というようなものも言えてしまう。

清水:川柳も、俳句もそうだと思うんですけど、読み捨てられる作品がすごい多かったと思うんですよ。それを考えると、私の作品が俳句であろうが川柳であろうが、しっかり読んでもらえるってことが一番かなと。

柴田:たぶん私、創作の根源にあるのが、「この時代に自分はなぜ創作の道を選んだのか」というようなところを常に問い掛けて書いているという、その答えを見つけたいという気持ちがあったんですね。だからこの現代の空気とか、それを避けては何も書けないというふうに私自身は思っています。

高山:私はもう本当に芭蕉と蕪村をお手本にして俳句を作り始めて、今日に至っています。(中略)一応「豈」に入ってますけど、あれは団塊の世代のおじさんたちの雑誌で、私はそこにいてコツコツ作品を作っているけど、まあお友達ってわけにはなかなかいかないですね(会場笑)。で、「豈」の評論とかでは「発句的だ」ってのは悪口なわけですよ。私は何しろ芭蕉と蕪村ですから、自分の作っているのは発句だと思っているので「なにくそこのオヤジ」というふうにずっと思ってきましたね。

関:私も一応「豈」に所属させていただいてるんですが、「発句的」というのが悪口だとは全然知らなかったですね(会場爆笑)。

第二部の関悦史氏の司会進行、終盤まとまりがつかなくなったりして、賛否両論あったみたいだが、別に学校の講義じゃないし、もともと僕は俳句の場における(いい意味での)カオスに触れたかったので、とても興味深かった。面白かった。関氏の「もろもろ細かく分析しながらの」あの早口トークは凄い。

あと、当日配布されたパンフレット掲載の【近未来予測・2020年の俳句界】も納得したり、考えさせられたり、爆笑させられたりでとても楽しめた。例えば、

小川軽舟:団塊の世代が円熟して俄然おもしろくなっている予感があります。昭和三十年世代は少し飽きられながらもそれぞれの次の道を切り拓くでしょう。新撰21、超新撰21の作者たちのうち十年後に第一線で活躍しているのは十人と予測します。
そのかわり、そこにいない逸材が五人は出てくるでしょう。

鴇田智哉:カリスマ自由律俳人が登場。それをきっかけに、自由律お笑い芸人や、自由律占い師、自由律料理人などが登場。イケメン自由律作家、自由律アイドルユニットも次々にデビュー。ヒットを飛ばし、空前の一大「自由律」ブームが巻き起こる。
(中略)定型俳句の人口は減り、細々と句会などをやっている。私もそこにいる。しかし、現代詩の人たちが、定型への興味を急速に高め、その人たちの斬新な五七五に定型俳句界は乗っ取られてしまう。私も押し潰され、瓦解。

筑紫磐井:会長同士(金子兜太、稲畑汀子)仲のよかった現代俳句協会と日本伝統俳句協会が2012年、抜き打ちで統合、有季・無季・花鳥諷詠までを広く含んだ現代~伝統俳句協会が発足し、会員数も俳人協会会員数を凌ぐに至る。

高山れおな:金子兜太百歳の賀が俳壇をあげて盛大に祝われる。政府もその盛り上がりを無視できず、高濱虚子以来、六十六年ぶりに俳人に文化勲章が授与される。ちなみに、首相はヤワラちゃんである。
古稀を迎えた筑紫磐井は、三千頁に及ぶ『超定型詩学の原理』を刊行。新時代の定型として「超定型」を主張するが、それがどのようなものであるか、ここに記すわけにはいかない。

関悦史:流派や結社・師系単位で歴史をたどることはあまり意味をなさなくなり、ユニットが組まれても作風や思想による結束ではなく、個人の時代という性格が強くなる。一方、俳句表現における、魂とか霊性と呼ばれる宗教的次元への関心が高まり、それらを従来の研究方法とは別のやり方で組織する必要から「俳句人類学」という研究領域ができる。

そしてこれも当日のパンフ掲載の、上田信治氏の『「新撰」「超新撰」世代 ほぼ150人150句』。
(「週刊俳句」第192号所収)

上田:ひとつアイデアを思いついたのは、皆さんが何となく思ってる俳句のベクトルというものを外してしまおうということ。ベクトルをぱっと消しちゃうと、個々の作家の指向というかトライアルが見えてくる、という感触があったんです。
あとは、その人の一番いいと思った句を、作者別に並べていくと、コロニーというか傾向が見えてくる。で、見えてくると同じ傾向の句がどんどん集まってくる感じです。

明晰な分析センスと大変な労力、根気が要求される作業だったことだろう。感服の一言です。


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編集後記(第8号)

編集後記(第8号)

■中村安伸

本年もどうぞよろしくお願い致します。
第8号の発行が大幅に遅れてしまい、申し訳ございません。
今年に入ってから生活が激変し、なかなか編集作業のための時間をとることができません。

第9号以降は不定期の刊行とさせていただきます。


■宮崎斗士


2011年・初の『俳句樹』をお届けいたします。
今回は「超新撰21」特集ということで、
「超新撰21」編者の筑紫さん、
そして入集俳人の小野裕三さん、小川楓子さんにご執筆をお願いしました。
「超新撰21」への様々な思い、ご味読いただけましたら幸甚です。

『俳句樹』次号「船焼き捨てし/船長は/(´・ω・`) ショボーン/泳ぐかな」。乞
う御期待!

2010年12月25日土曜日

第7号

第7号
2010年12月25日発行

鷗へ―山中葛子の作品世界
・・・田中亜美   →読む

海程ディープ/兜太インパクト -6-
金子兜太 本能の戦略
・・・大髙宏允    →読む 

豊里友行の「沖縄便り」(7)
「私らしい俳句と写真の旅」
・・・豊里友行   →読む

編集後記     →読む

執筆者プロフィール     →読む


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編集後記(第7号)

編集後記(第7号)

■中村安伸

「超新撰21竟宴」関係者の皆様にはお世話になりました。よいお年をお迎えください。

なお、次号は1月10日発行予定ですが遅れる可能性があります。ご了承ください。


■宮崎斗士

2010年最後の『俳句樹』をお届けいたします。
本年中は(といっても四ヶ月間ですが)ご愛読どうもありがとうございました。
『俳句樹』来年も頑張ります。よろしくどうぞ。

23日、邑書林主催「超新撰21竟宴」に参加しました。
楽しく実り多き一日でした。ご参加の皆様、大変お世話になりました。
次号でそのレポを含む「超新撰21」小特集を組めればと思います。 

1/10up『俳句樹』次号「漫才コンビ、大晦日よいお・としお」。乞う御期待!

豊里友行の「沖縄便り」(7) 「私らしい俳句と写真の旅」 ・・・豊里友行

豊里友行の「沖縄便り」(7)
「私らしい俳句と写真の旅」
・・・豊里友行



私は俳句の世界を旅する。
私は18歳から30歳まで「天荒」俳句会で日々俳句を研鑽(けんさん)してきた。
そこでは野ざらし延男氏による優れた俳句教育のもと俳句を学ぶ(これまでに野ざらし延男氏の行く先々の教育現場から優れた学生俳句が誕生している!)
「いつか」と言っているといつになるか分からないので、「月と太陽(ティダ)」俳句会を二〇〇六年二月二十五日に旗揚(豊里友行 代表)げした。
私は自分らしい俳句と写真の世界をめざし、創造していくため、十数年在籍した天荒俳句会を退会する。
その日から私は俳句人生の武者修行の旅に出た。
「月と太陽(ティダ)」俳句会は小さな俳句の座で、主に小中高生への俳句指導を行っている。
あとは少数の有志や豊里一族による生涯学習としての俳句創作だ。
小さな俳句の場だが俳句を楽しんでもらい俳句によって生き甲斐をもってもらえたらと願う。
「月と太陽(ティダ)」俳句会として俳句指導するには私は日々勉強しなくてはならない。
「月と太陽(ティダ)」俳句会以外では私自身も俳句を暗中模索している。
その暗中模索振りを記してみたい。

俳句の武者修行の旅をしていると他の俳人先輩から佐藤鬼房先生のお言葉を引用しながら励ましのお手紙を頂く。
「一握りの人たちが先端の岩盤を少し穿つ、その犠牲の上に俳壇全体がズルリと少し前進する」
私は生きた証として俳句を時代に残せるようになりたい。
そのために自分らしい俳句を探求し続ける。
俳句も写真も出会いが財産になっている。

俳句界へ出てくる方法としては何か悩んだ時期がある。
俳句大会では上位入選するしかない(これはかなり大変なことだ)。
もしくは俳句集を出す(お金と作品の質がいる。そろそろ私は第2句集を出したい)。
新聞俳壇に投句するのもいい。
他の俳句会にも参加してみる。
以前「天荒」俳句会に所属している時、金子兜太先生を招いて俳句会が持たれた。
その時、金子兜太先生の天地人の地賞を私は戴いた(「梅が咲くそこに銀河の圧縮音  友行」)。
その時の的確な講評が印象的で金子兜太先生の「海程」俳句会に投句参加する。
この「海程」では、私の句が毎月俳誌に3句載る。
「海程」俳句会へも都合がいい時に参加したい。
「海程」は、いろいろな俳人たちが切磋琢磨しお互いに日々俳句を研鑽する俳句の場がある俳句同人誌だ。
特に俳誌の活字になることは記録性においても大変重要なことだ。
(盗作問題などに巻き込まれた時は、印刷媒体に先に載っているか周知の俳句に敬意を表するのが慣わしなであるから自己の俳句を常に印刷媒体に記録するよう心がけたほうがいいと私は思う。)

インターネットのブログで継続して俳句を発表して俳句の場を持つのもいい。
人の目にもさらされ批評の目に耐える。
気軽に自分の俳句を発表する場をもてるのがいい。
「週刊俳句」や現代俳句協会のインターネット俳句会、『俳句界』の「め~る一行詩」なども活気があって刺激をもらえて良いと思う。
この「俳句樹」も多くの俳人の俳句創作の現場を活気付ける場になることを望む。
もしかしたら多くの批評の目にさらされるインターネットのブログ俳句が、これから大きな俳句界の主軸になるかもしれない。
価値ある俳句はどこからでも出てきていいのだ。
私は自己の俳句の世界をブログ「とよチャンネル」から切り開いている。
いろんな意味で俳句はメモ帳と鉛筆ぐらいのお金でできるものだということをこれからも実践していきたい。
もっとも大事なのはしっかりよい俳句を作るための努力を惜しまないことだ。
昔の俳人が小さな俳句の場から俳句問答を通して良い俳句を創ったのを私は軽視できない。
だから「月と太陽(ティダ)」俳句会でもそれぞれの自分らしさを追求する小さな俳句の場を持つよう心がけている。

俳人で写真家の豊里友行は、人生の武者修行の旅のまっただ中であります。
もちろん特に沖縄を飛び出して旅に出るわけでもない。
写真は沖縄をテーマに撮り続ける。
俳句も写真もどちらも沖縄の日常を旅している。
生まれ育ったこの島を撮り続け、これからもずっと撮り続けるだろう。
この沖縄をどう詠い、どう撮るか胸踊る。
私は世界中を旅する冒険家にはなれないが沖縄から世界へ発信する旅をしていく。
私はそんな旅をする覚悟をしている。
生まれ育った沖縄に私は誇りを持ちたい。
だから時に厳しい沖縄への批判にもなる。
それでも理想郷・ニライカナイを求めた祖先の琉球人たちのように海の向こうに希望の灯火を燈したい。
私は「ニライカナイの地図」を追い求めていくうちに自己の立ち居地である沖縄に、それぞれの安住の地にこそ、理想郷のニライカナイが散りばめられているように思えてならない。
それは利潤追求主義とはちがうし、資本主義社会などとも違う何か。
私は写真を撮る行為をニライカナイの地図を見るように拾い集めている。
何が見えてくるかこれからが楽しみだ。
これからも俳句も写真も私なりの武者修行の旅が続く。

インターネットの地球を回す水澄まし    友行

まばゆい太陽に花びらのサングラスをかけるシーサー


鷗へ―山中葛子の作品世界 ・・・田中亜美

鷗へ―山中葛子の作品世界
・・・田中亜美



鳥はほとんど完全な球形である。(ジュール・ミシュレ)
世界は広大だ。だがそれはわれわれのなかでは海のように深い。(リルケ) 





晴れ渡った或る日、かもめを見に千葉の海へ出かけた。
テトラポッドの先には穏やかな海がひろがる。その上を、かもめが数羽旋回している。
まるく、すんぐりと。
かもめは白っぽい陽のひかりと一体化したと思うと、あっという間に波へと着地する。
飛翔と落下のその循環を見ているうちに、私は山中葛子さんのことを思い出していた。
山中さんの句には、かもめがしばしば登場する。

鷗伏す骨まであおくむせ来る潮
つぶやき寄る鷗異郷に手足もぎれ
白壁の街に売らんと鷗鳴かす
脚閉じるいちばん保護的なかもめ

かもめは、海と陸のあいだを芒洋とさすらう鳥である。孤心の象徴のような、そのくせ、愛嬌があって人なつこい鳥である。―山中葛子さんには、かもめの印象がある。

*   *   *

いま私の前には、昭和三十七年四月に刊行された「海程」の創刊号がある。海面を思わせる濃紺の表紙には、白抜きのゴシック文字でその題辞が記されている。創刊同人は三十人。そこに山中さんも名をつらねている。
創刊号の「二十代特集」に山中さんは「嫁ぐ」というタイトルで作品を寄せている。
そのうちの一句。

母が降るこの紺碧を嫁ぎゆく 

山中さんはこの時期に結婚しており、句はその経緯を反映している。「紺碧」は抽象化されたものいいであるが、海、おそらくはそれも彼女が生まれ育った千葉の海と思われる。千葉の海は、関東平野の南に湾入した東京湾から太平洋へといたるやわらかな海湾で、母性を感じさせるものである。その紺碧の上へ、太陽の光がカーテンのように降りそそぐのだ。
白っぽいその光は、まるで花嫁を覆うヴェールのようであり、娘を送り出す母性の慈愛と一体化する。
昭和三十七年。このとき彼女は、生活者として夫のあたらしい姓に切り替わりつつ、表現者としては旧姓を手放すことなく、「海程」に参加を決めている。しかもそこには、「嫁ぐ」というタイトルの一連の作品を発表して。旧姓使用にはもちろん、それまでにも創作活動をしていたという事情があるだろう。だが、彼女の選択にはどこか象徴的な意味がこめられているようだ。すなわち、ここで敢えて「嫁ぐ」ということがらを前景化させた作品群を提出したことは、これから表現者と生活者の二重性を止揚しながら、生きてゆくことの覚悟も意味しているのではないだろうか。
当時の「海程」はというと、現代俳句協会の分裂、金子兜太と中村草田男の論争という劇的な背景のなかに生まれ、「俳壇波荒きときの出航」(金子兜太)であり、「火山の噴出のやうに新しいものが生まれでる奔騰」(加藤楸邨)のなかにあった。「前衛俳句の梁山伯」などと形容するといかにもものものしいが、そこには未知の表現領域を開拓しようという息吹が満ち溢れていたことだろう。―<まだ見ぬ一句>へ向けて。
翻って、こんにち「前衛俳句」ということをめぐる評価には否定的見解も多い。しかし、俳句形式に数多の素材や表現が盛り込めるのか否かということのみきわめも含めて、前衛俳句がさまざまな文学的手法の実験をおこない、俳句の表現領域を拡大させたことの意義は、もっと問われるべきだ。しかも、それは「前衛俳句とは何か」という固定した定義を急ぐ巨視的なまなざしではなく、その流動的なプロセスのひとつひとつに、精緻に目を向ける必要がある。「前衛」(アバンギャルド)の醍醐味は、つねに自らのその先をめざし続ける運動性、その奔騰のプロセスにこそ、求められるべきなのである。
山中葛子さんの俳句を読むことの面白さは、その作風の流動的な変化を辿ることにある。彼女は決して論争を好むタイプではないが、それだけに作品そのものにこのプロセスへの問いかけやこだわりがつよく滲んでいる。また彼女は、「海程」創刊当時の数少ない女性同人のひとりである。まもなく参加を表明した北原志満子氏や八木三日女氏、あるいは金子皆子氏らとともに、当時は圧倒的に少数派だった「前衛」の意識を共有する女性俳人(創刊当時の女性俳人は三十人中二人)が、そのあと俳句を通して、どのように表現をおこなってきたのかという問題には、非常に興味深いものがある。
以下では主として、時間の流れに沿った通時的アプローチをおこなうことで、山中さんの作品を読み解きたい。





山中さんは昭和十二年生まれ。十代の終わりより句作をはじめて、ほぼ十年間隔で句集を刊行している。このため、本論ではだいたい十代から二十代、三十代、四十・五十代、六十代に区分して、それぞれの作品の特徴を論じてゆく。
第一句集『魚の流れ』(昭和四十一年)は、少女時代から、結婚して妻となり、子の母となるまでの作品を集めたもの。青春の息吹と清冽な叙情にあふれた句集である。

野に伏せば風の樹液がこぼれ出す
野に白し十字架指に覚めつづく

ともに「野」を題材にした作品である。初期の山中さんの作品の多くがそうであるように季語は使われていない。だがここには、初夏や初秋といった季節のあけそめ、そのエッセンスが、ぎゅっと詰まっている。風へ光へ。少女は息切らせながら駆けてゆき、一気に倒れこむ。野という場処。それは世界の重力というものを、いまだ知らぬ少女の象徴なのではないだろうか。
また、「画家の卵」を夢見ていた少女らしく、美術の素養を感じさせる、シュルレアリスティックな句も多い。

髪をわたそう北斗へねむっている階段
花売りの港は白い歯でねむる

第一句に表現されているのは、引きずり込まれるような深い眠り。今まさに梳っているのだろう黒髪が、そのまま北斗七星のかがやく暗やみに溶融してゆく、その幻視が描かれている。これに対し第二句は白昼夢ともいうべき浅い眠りの空間である。花売りの売る花であふれる波止場の光景は、どこか非日常、異次元の時空の様相を呈しているようでもある。それゆえ、白い歯の感触には、ある種の不安や危機感も籠もる。
幻覚ないし幻惑。
さてその山中さんの作風は、二十代半ばから少しずつ変化をくわえるようになる。変化は、感性の流れの表現から、自意識による客体化・抽象化の傾向が、じょじょに見られることと言い換えてもよい。
このことは端的には、婚約・結婚を経て、出産へといたる生身の彼女のあゆみと対応しているだろう。少女時代には、やわらかな感受と感傷がそのまま<私>の輪郭線であるようだった。しかしながら、その少女がやがて「妻」となり「母」となる過程においては、<私>はたんに自分自身というだけでは済まされないようになるのであるから。
<私>は相手との二者関係のなかに置かれた存在であることを、よりつよく意識させられるようになる。

私の憂いなぞ青年ちらばり葉を挘る
あなたの街絵筆すばやい叫びとなる

私と青年、あなた(と私)ということは、おそらく男女の微妙な情愛をしめしているのだろう。第一句。憂愁にしずむ私のことなど、男は意にも介さず、無邪気に葉を挘っている。「青年」という言い方からは、石膏のような肌をした、端整なマスクの若者が想像できるようだ。それだけに「挘る」という行為が何となく獣性を帯びて、あらあらしい。「青年」と私のあいだのその心理的距離が、いっそう「憂い」を深めるのである。
第二句では、<私>は「あなたの街」にいて、絵筆を握っている。「あなた」は現実に特定できる何者でもなく、「街」も固有の地名を持つものではない。というより、「あなたの街」とは、<私>の絵筆から、<私>の切羽つまるようなその筆触から、描き出されることで、はじめて生まれる架空の場なのだ。だとしたら、他者であるはずの「あなた」も結局は、この<私>の自意識のなかに収斂されてしまうものだろう。
いささか突飛かもしれないが、この句からは失踪した恋人/婚約者を求めてひたすらさまようという、倉橋由美子の抽象的な小説『暗い旅』が連想されるようだ。それは、<あなた>と呼びかける<私>へと、最終的には回帰する<旅>の物語であった。
倉橋由美子は、当時の山中さんの愛読書であったらしい。しかし、ここには倉橋由美子と山中葛子という二人の小説家/俳人のあいだの影響関係というよりは、当時のある種の女性が、リアルタイムで共有していた感性の土壌のようなものが、感じられるのである。





山中さんの第一句集『魚の流れ』は、青春の息吹に満ちあふれた清新な作風が特徴だったが、つぎの『縄の叙景』(昭和五十三年)は、この青春をいかに克服して成熟してゆくのかということを、問いかける句集である。
山中さんの「青春」。それは風のような、水のような、澄んだ透明な感性の発露ということに尽きると思う。だが、感性というものを、ふかく潜らせてゆくいとなみは、やがて、その先に必然的に、心理の翳りや自意識の屈折というものに、つきあたらざるをえなくなる。ましてや、妻として、母として、生活と格闘する現実のなかでは。
感性は、世界の重力に無関心ではいられなくなるのだ。
そうした意味で『縄の叙景』には、重々しく、観念的な印象がある。感性のほとんど酷使といってもよい鋭敏さが、観念的な作風を生んでいるのである。
感性と観念の奇妙な融合は、次のような句でより明確なイメージをともなっている。

低い夜のリラ木質のくねる再会
ロープ巻きあげ陰植物の朝よふたたび
児の驚き海は烏と鉛の太鼓
その槍はいつか私を弾のように

これらの句にいずれも共通するのは、メランコリックな重力というものだ。第一句と第二句には、「くねる」「巻きあげ」といった、まとわり絡みつくような動詞がもちいられているが、そこには自意識にとらわれ、おのれの内面に沈潜してゆくときの鬱勃とした力動感が、表現されているようである。「夜」、「朝」の違いはあるものの、いずれも雲が低く垂れ込め、どこか息苦しいような時空であることにはちがいない。
リラに淡いメランコリーを感じることはわりとあるものの、この句は「木質」に焦点をあてていることといい、かなり独特な感受である。まるで、ねっとりとした油彩絵の具をパレットナイフで塗りこめたかのような印象だ。「陰植物」の句にはそれに、グレイの重々しさも加わる。
第三句と第四句に共通するのは、にぶい光沢を帯びた鉱物の質感だろう。第三句の母と児が見ているのは、悪天候の日の、灰白色の海である。浪が高く荒れた様子が、「太鼓」で表現されている。ここでは「驚き」の主体は、「児」ではあるが、「児」というファクターを通しているからこそ、母親本人の微妙な心理も、垣間見えてくる。
これに対して第四句の方は、自分のやや危機的な心理意識を、直截なレトリックで表現している。内へ内へと遡行してゆく、ふかくひきずり込むような自意識の力動性。
それはいったんベクトルを転じるならば、鋭利な槍の先端にも、弾丸の疾駆にも変容するのだろう。
ところで縄という漢字は会意文字であり、爬虫類のとかげのような長いなわを意味するという。作品にはとかげこそ登場しないものの、「蛇」のモチーフが何度となく繰り返される。そもそも地面に置かれた一條の縄は、蛇に見えなくもない。
「縄」という道具が、自意識をより合わせていく重力の作用面を強調しているとするならば、「蛇」が象徴するのは、自意識をひきつけて離さぬ引力、とりわけその身体的感受である。

白蛇の部屋なめらかにストロー挿し
白藤の蛇だいたんに留守の家

同じ時期の作品には、「妻」「嫁」などの語もしばしば見受けられる。二児の母であり、会社勤めも家事もこなしていたという生活の多忙さがこうした措辞に繋がっているのだろうが、私はむしろ、これらの「蛇」のモチーフの句の方に、のがれることのできない、女性にとっての生活というものの重さを思う。大きな蛇がその家の守護神であるという民話や言い伝えはよく耳にするものだが、山中さんの作品に登場する蛇もまた、家に居ることが多い。それはしかし、言い伝えの蛇と同じように、けっしてその場を離れられないというある種の哀しみも背負っているようだ。
蛇の映像の暗示力。もちろん、それは女性をしばりつける父性的な家(イエ)やその桎梏の象徴とするのはただしいのだろうし、そこから女性を解放すべきであるという社会的・フェミニズム的な議論をひきだすことはたやすいだろう。だが、同時に、そうした引力に抗いがたく支配されるということには、どこかやすらぎにも似た甘美な感触がのこされているようだ。そもそも家族というもの、家庭というもの、それは、女たちが産みつづけはぐくみつづけてきたその循環に淵源を持つものであるから。それが「なめらかにストローを挿す」という措辞と通じるような柔らかな日常の感受へと繋がってゆく。「白藤の蛇」からは、そうした家を「だいたん」にも留守にすることのかるい興奮、どことなく華やいだ気持ちまで、感じられるようだ。
「縄」であり、「蛇」であるようなメランコリー。それは、『縄の叙景』に付した山中さん自身のあとがきのなかに、よくしめされている。『縄の叙景』という題名は、自意識のこの自縄自縛の感触に由来するのである。
「流れ、流されることが一つの意志であるとすれば、こうした意志とか意識の中で、私はいつも0(ゼロ)の風景を想いつづけて来たようである。0の意味は、私の中では「無」と同じで、「無」にはプラスへの発光とマイナスの下降をじんじん溜めている源の姿があり、0の字面には婉婉と自己を味いつづける、おのれの尾に咬みついた蛇状の自縛がゆれ、0の感触には割れやすい卵のすべすべした不安のたかまりがあり、出発への想いがある」(「あとがき」より)。
このあと、0の地点は、どのような変容を、遂げるのだろうか。





『縄の叙景』を経て山中さんの作風には、変化が兆してくる。鬱滞するメランコリー(それはしばしば晦渋さにつながる)はじょじょにほぐされ、やわらかい自己表現につながっていくようだ。むろんそこには、疾風怒濤の時代からおちつきをとりもどしていく生活上の事情も反映されているにちがいない。だが、そこにはそれ以上に、ことばの「表現」をどのように結実させるかという精神のはたらきがつよく認められるだろう。金子兜太がいうところの「自己と対象とのあいだの直接的結合を切り離し、そのあいだに結合者として定置する」、「創る自分」という意識が感じられるのである。
「創る自分」。それは一方で潔癖なまでに自己に執着しながらも、他方ではそうした自分を突き放してみせるイロニーの精神の作用といってよい。

山羊の背ナぽおんと抜けて昼の妻
雲噛みおり母情ぽんぽん蒸気船
ぼうぼうのへいへいぼうなる青葉木菟
はぐれ鴨けえけえと照りしゃがむかな

「ぽおん」「ぽんぽん」には懐かしい叙情のひびきが、「ぼうぼうのへいへいぼう」「けえけえ」には読み手をくすぐるような滑稽の味わいがある。なかでも「けえけえ」には、からっとした気風のよさがあり、それが続く「しゃがむ」という動作のナイーブさとふしぎな対照をなしている。
オノマトペ(ここでは擬音語だけでなく、擬態語もふくんだものと考える)を用いた作品をあげたのはほかでもない。オノマトペはそれ自身が何の意味を持たないからこそ、作り手から読み手の知覚、身体感覚に直にはたらきかけることができるからである。それは自己表出にこだわるあまりに、意味のみが先鋭化して自己閉鎖的にならざるをえない、いわゆる「難解俳句」の隘路に対する、強力な突破口となるだろう。
オノマトペを得意とする作家はそう珍しくはない。だが、以前はほとんどこうした技法を使わなかった山中さんが、ある時期からその卓越した使い手となるのは、前衛俳句が問い続けてきた「造型」という問題を考える上で、注目に価することだと思う。
オノマトペをはじめとする、言葉にともなう音楽的要素の自覚。それはまた、作品を構成する質料(マチエール)としての言葉のもつ可能性へと意識を転じてゆくことである。

魚の網やぶれだす光線状ともだち
ピアノの少年だんだんつよくピラニア

第一句は、水中にある魚網の網目を、光が通過してゆくさまを描いている。実際には魚の網目は破れているわけではない。大気中では透明な陽光のプリズムが、水のなかへ射し込むやいなや、可視の「光線」となり網目を通り過ぎる、その運動が「やぶれだす」かのような錯覚を与えるのだ。ここで表現のかなめは「光線状ともだち」にある。そこには、水と光が織りなす一瞬のゆらめきを、魚のように、体全体で受けとめている作者の感応があり、弾むような共鳴がある。その共鳴を客観的に詩語に定着させようとするとき、「ともだち」の語は、動かない。
第二句では、似て非なる「ピアノ」「ピラニア」の語をぶつける。ばかばかしい言葉あそびのようだが、いっしんに鍵盤を叩きつづける少年の姿を想像すると、ピラニアという形容以外に無いような気もしてくる。ほっそりとして残虐な、淡水に棲む魚は、いかにもピアノを弾く少年にふさわしい。
ところで、質料としてのことば、そのひとつひとつの手ざわりをたしかめることは、ことばから構成されてゆく、仮構/虚構の世界を生み出すことにも繋がろう。俳句に限らず、芸術は虚構の世界に遊ぶはよく言われることではある。だが、ともすればそれは、際限なくつづけられる空想上の遊戯というだけで終息しかねない。この堂々巡りに、ひとつの「開け」(ハイデガー)をもたらすものがあるとすれば、それは「実」の、すなわち、実存の世界にほかならないだろう。「開け」はまた、一句のなかの「虚」と「実」を架橋する「切れ」でもある。私見では、「虚実皮膜」とは、このことの消息をあらわしているように、思われる。
それでは、「虚」というだけでもなく、「実」だけでもない、両者が背中合わせの「皮膜」を、ことばに定着するためには、具体的にはどのような「造型」が可能であるのだろうか。山中さんは、「虚」と「実」を同時にその構成要素にする、オリジナルの「造語」によって、問いに対するひとつの答えをしめしている。

青葉天井ふるえて鳩の傷声よ
抱擁樹海しずかに灯る芽のランプ

ここで言う「造語」とは、「青葉天井」と「抱擁樹海」を指す。空高くそびえる梢はおおきく弧をえがいており、その球面を初夏の青葉が覆うさまが、「青葉天井」と呼ばれている。
「抱擁樹海」はうっすら霧がかった樹海の様子をあらわしているのだろう。やわらかく視界がさえぎられることで、作者はいっそう樹海のふかさを感じている。そこに春の芽吹きのうすみどり色が、ぼんやり灯るのである。
これらは、いってみれば不自然な組み立ての四文字熟語であるにもかかわらず、読み手に不思議な実感をのこす。その理由のひとつは「天井」、「抱擁」というやや抽象化されたものいいが、「青葉」「樹海」という具象的なものと組み合わされているということにある。だが、それ以上に成功の決めてとなっているのは、これらの句がともに七・七・五音と俳句定型の韻律をふまえつつ、ややずらされて書かれていることではないか。七音ではじまるおもったるい歌い出しは、この作品のやや観念的な作風とひびきあい、観念に不思議な肉感をあたえている。
つまり、ここで「実」をもたらしているのは、「具象」(そこにはむろん「青葉」「芽」の語が有する季感も含まれよう)であり、さらには音数や韻律といった伝統的な俳句の効果でもあるのだ。しかし、その「実」も、観念的な「虚」の操作、異化の作用があるからこそ、きわだたされる。ここには、いわゆる「前衛俳句」と伝統的な俳句のエッセンスの融合、それらが持つ新しい可能性がぶつかりあったときの一期一会の妙が見出されるようだ。
山中さんは、句集『球』(平成六年)のあとがきのなかで、「無限という憧憬は、実はまだ見ぬ私の一句に向かうことを願いのプロセスへの拘りということになるかもしれない」と述べている。そして『球』は、その一呼吸に過ぎない、とも。「そしてこの時間はそのまま肉体と結びつくものであり、まぬがれようもなく一回性のものである」と書いている。
この「一回性」こそ、俳人・山中葛子の到達した、ひとつの自在の地点なのである。





句集『水時計』(平成十五年)は、山中さんの最近の句集である。山中さんは、今なお「まだ見たことのない私自身の俳句の途上」にあるという。その境地は、はればれとしているようだ。
晴れやかさは、口語調のやわらかい言葉遣いにもみとめられる。

春の雲鯰を自由にしてあげよう
十六夜の月こんがりと赤ちゃん
さようなら眉より細い春の月
神島やしずかなお月さま飛ばす 
すかんぽ発の自意識過剰を抱きこんだ

ここには「自由」になった鯰といっしょに、ふうっと深呼吸をしたり、「あらあら」と赤ちゃんに呼びかける姿がある。自意識過剰は「すかんぽ」のせいなのよ、とおどける山中さんがいる。この諧謔味は、「すかんぽ」という植物名の、どこか人を食ったような脱力した語感からしか生じないものだ。
同じように植物名を生かした作品。

突然日暮れ家じゅうツルウメモドキ
黄花しょうぶしずかな正義感透る

季語/季題というものが、一般によくある「赤い実」「名も無い花」式の表現に終わらせず、仔細に植物名を挙げること、「ツルウメモドキ」といい、「黄花しょうぶ」ときちんと分類すること。そこには、太古に初めて、その花の名を「蔓梅擬き」、「黄花菖蒲」と名づけた人の感受や感動をきめこまかく追体験することの重要性が、籠められているだろう。
ひとがひとの命名を行うように、どんな草花の名前であれ、そこには必ず、その草花に出会い、名前を付けずには居られなかった、ひとの思いが潜んでいるからである。
ことばの語感を生かすとは、「命名」という出会いの瞬間への畏敬がなければ、成立しないだろう。
多くの草木が枯れはてる晩秋にあって、ひときわ赤く輝く実を持つ植物に出会い「ツルウメモドキ」と命名した古人の思いのなかには、「突然日暮れ」のように、ぱっと視界が変わることへの驚異がふくまれていたはずである。あるいは、梅雨どきの水べりにあって、花茎をまっすぐ直立させながら咲く花のすがたには、ひとがその胸に秘める純な思いに通じる時空が感じられることだろう。
「黄花」と限定し、平仮名書きにした「しょうぶ」のS音ではじまる静謐な韻律をひびかせることには、ことばそのものが持つ、出会いの瞬間の神秘を、逆照射してみせるふしぎな力がある。いっけん知的な言葉の操作に思われるこれらの句はしかし、きわめて注意ぶかい、鋭敏な感性の賜物なのである。
山中さんはもともと、感性のひとであり、いまも一貫して感性のひとである。それは、息を切らせながら野を駆け抜けた<野に伏せば風の樹液がこぼれ出す>のときから、ずっと続いており、さまざまなヴァリアントを見せながらも、いまなお、<旅>の途上にあるのだ。
<まだ見ぬ一句>へ。

ちどりちどり利根川ふっと海に入る

千葉の風土にはぐくまれ、今なおこの地にすむ、山中さんそのもののような句。三百キロメートル余りにわたって関東平野を流れるこの川は、最後に太平洋にそそぐ。川をわたる風は、いつのまにか潮風に変わる。川はいよいよゆったりその幅を増し、いつのまにか海に合流する。あくまで自然体で、「ふっと」。
水面を旋回するのは、きっと、無数のかもめだ。
かもめは、ふたたび、海のみちのりを飛んでゆく。

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2010年12月24日金曜日

海程ディープ/兜太インパクト -6- 金子兜太 本能の戦略 ・・・大髙宏允

海程ディープ/兜太インパクト -6-
金子兜太 本能の戦略
・・・大髙宏允



ある日孫娘が「サッカー選手の○○○○が今日保育園に来たんだよ」と言った。10年前の私が現代俳句について知っていることは、五歳の孫のサッカー程度のものであった。
ひょんなことから、私が現代俳句の世界に足を踏み入れることになったのは、テレビのリモコン操作を間違ったからである。放送大学の画面が出て、そこに兜太が現われた。ほんの数十秒で画面に引き込まれた。話は妙にして真、人柄豪にして柔、波動すこぶる快。すぐさま録画を開始した。日本にまだこんな日本人がいてくれたのか、とまずその存在感に心打たれた。むかし、小沢征爾を初めて聞いたとき、彼自身の体から音楽が湧き出していたが、まさしく兜太の体から俳句が溢れ出していた。
俳句について無知な自分は、とくに定形・季語に縛られないという自由な発想に共鳴した。「自由です」と言う兜太の声は、なんと魅力的であったことか。今まで私が思っていた「俳句」や「美意識」をあっさり飛び越えていた。
それから一年位した頃であろうか。悪性リンパ腫がみつかり、入院が決まった時、自分でもよくわからないが、「ああそうだ、あの先生のところで俳句をやろう」と思いついた。冥土の土産のつもりだったかもしれぬ。無謀であった。
最初の「海程」が届いたのは、01年11月号で、病室のベッドの上で開いた。ばらばらと目を通すと、ぜんぶ訳のわからない作品ばかりである。「これじゃあ俺には無理だ」と思った。
だが会費を六ヶ月分払っている。
あれからもう九年だ。みえない力と師の教えに導かれて俳句の日々を楽しんでいる。
はじめの頃に読んだ「金子兜太集」と、安西篤の「金子兜太」は、右も左もわからない自分にはたいへん勉強になった。

つぎに先生の作品で特に好きなものをあげてみたい。

銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく

粉屋が哭く山を駆けおりてきた俺に

二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり

長寿の母うんこのようにわれを産みぬ

今日までのジュゴン明日は虎ふぐのわれか

飛翔する想像力と自由でピュアーな精神性、そして独特の韻律のすばらしさ。カフカ、カスタネダ、ワイエス、エルグレコ、道元などの作品に接した時と同じような感動を覚えた。俳句について無知無縁だった自分に、このような感動が訪れてくれたことをありがたいと思う。そして俳句を学ぶことの奥深さは、停年と病気をほとんど同時に体験した自分にとって、何かの啓示のようにも感じている。

さて、先生の選句眼のすごさは、誰しもが認めるところであるが、句会という場で直接体験すると、一撃を食らったようなショックと不思議な感動の波を感じないではいられない。自分の句が全く駄目でも、「今日は来てよかった」と真実思うことしばしばである。ここでは、そんな中から三句だけ紹介する。

ロボットになれず満月になれず 小野裕三

(かげ)のコマンドよ青啄木鳥は撃つな 高橋たねを

似顔絵のマスクのほかの暗きこと 佐藤美紀絵

師に採られると、その一句はいっぺんに輝き出す。埋没していた石が、宝石であることがわかる。まるでマジックを見るようだ。「選句の時は、恋人の手紙を見るような気持です」 これはある年の最初の句会での、先生のことばである。ひとつひとつ、そんなに深くあたたかい気持で見ているのである。

一方、私は海程のご高齢な人たちの活躍にいつも注目してきた。高齢化ということもあるが、その人たちの句が師に採られることが多く、その感覚の新鮮さに驚かされる。

夜がそこへきて生きもののように月 清水喜美子

飛花に牛流域太古のように澄み 市原光子

春は曙昨日と今日を切り離す 白川温子

穴惑い耳掻きの届かざる点 酒井郁郎

これはほんの一例だが、師の眼はこうした作品を決して見逃さない。よその畑で取れない作物が取れるのは、他に類をみない師の選句眼があるからである。これらの作品は、師の眼力という土壌で育てられたのだ。この師と弟子の作り上げてきた関係で、特徴的なものを、「ていねい感覚」と呼びたい。自然の中でていねいに自然を見つめ、自己を見つめ、社会を見つめる。一事が万事、「ていねい」というありようで貫かれている。その感覚を俳句という表現形式に投影する。この一連のシンクロナイズから生まれるものが、「ていねいな生活実感の句」である。
「ていねい感覚」は、日本の風土が日本人の心に、何千年にもわたって植え付けてきたものだろうが、戦後の日本はその美質をほとんど失うような歩みを続けてきた。その美質が、師と高齢同人にはある。衰えるどころか、勢いよく燃えている。師の言う「生々しい句」は、この「ていねい感覚」から生まれる。今この九年を振り返ると、「ていねい感覚」は、俳句の上でも、生き方の上でも師から学んだ一番の財産だと思う。それがこの頃、やっと分かった。

病院に入院されあと、初めて出て来られた十月の句会で、「まあ見ていてください」と師は我々に語った。不屈の精神である。心身への周到な知恵と情熱。それが目指しているものは何か。かって原初の人間がふつうに享受していたアニミズム的祝祭。俳句という場には、おなじ位相がある。生きもの同士が争わない世界。大いなる生を楽しみ、全とうする世界。それは金子兜太という人の本能の戦略だと思う。

酒止めようかどの本能と遊ぼうか 兜太

2010年12月10日金曜日

第6号

第6号
2010年12月10日発行

豊里友行の「沖縄便り」(6)
「沖縄へのウムイ(想い)広がれ!」
・・・豊里友行   →読む

「俳句的身体」をめぐって(下)
・・・柳生正名   →読む

「海程」meets髙柳克弘/「秩父音頭」編
・・・宮崎斗士   →読む

編集後記     →読む

執筆者プロフィール     →読む

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豊里友行の「沖縄便り」(6) 「沖縄へのウムイ(想い)広がれ!」 ・・・豊里友行

豊里友行の「沖縄便り」(6)
「沖縄へのウムイ(想い)広がれ!」
・・・豊里友行



1995年、米軍用地の強制使用手続きの代理署名拒否を決め、日米政府に立ち向かう当時の大田昌秀知事に僕はある種のヒーローのような思いを抱いていた。
繰り返される米兵犯罪に沖縄の民衆の怒りが臨界点に達し、8万5千人の県民総決起大会が行われ、まさに基地の島・沖縄から「日本の主権」を問うことになった。
1996年9月、県民投票で基地反対、縮小に賛成が過半数に達する。この県民の声をバックに大田知事はより強力に基地問題を問い詰めるはずであった。
だが、代理署名訴訟で闘い続けていた大田知事は、50億円の特別調整費と引き換えに代行応諾を表明した。
僕の中で一人のヒーロー像が崩れた。
同時に自らは傍観者になっている事にその時やっと気がつく。
時代に翻弄され、日米の国家に翻弄され続ける沖縄にあって僕は何ができるのか模索していた。
本当に基地の島・沖縄を変えるには日本国民一人一人が立ち上がるしかない。
私自身も沖縄から声を上げたい。
そう決意し私は本格的に写真を勉強し始めた。
鳩山由紀夫総理は2009年7月(選挙)で米軍普天間飛行場の移設は「国外・最低でも県外」と表明した。
そのため連日、「普天間」報道の嵐が吹き荒れた。
またしても私は基地の島・沖縄の現状を変革してくれるヒーローの誕生を期待してしまった。
ヒーローを奉り己自身は胡坐をかくのはもうよそう・・・・。

崩れても積上げて行く師走闇   友行

大手マスコミの流す膨大な情報の渦の前に私は、大きな幻影を見ているようだった。 
どっぷりと沖縄に浸かりながらも私は、沖縄から沖縄自体を問い続ける報道写真を発信しようと試みた。
私は5月決着に合わせて私の代表を務める出版社沖縄書房から『沖縄1999-2010 戦世・普天間・辺野古』豊里友行写真集( 840円)を千部緊急出版する。
写真展も開催した( http://naha.keizai.biz/headline/871/ )。
そして年内に『沖縄1999-2010 戦世・普天間・辺野古』豊里友行写真集(1050円)改定増版を増刷するために私は遁走している。
どうしても私は、沖縄に生まれ育った写真家で俳人としてこの普天間迷走に対して声を上げたかった。

今、ウチナーンチュ(沖縄の人)自身が自らの手でそして自らの言葉で沖縄を語り始めている。
私はそれらのウチナーンチュを写し取る鏡のような存在になろうと努め写真家として沖縄の声をこれからも発信し続ける。

沖縄中に張り巡らされたフェンスという国境が存在する。
その国境はとてつもない沖縄の米軍基地の過重な負担の象徴だ。
私は虐げている人間も虐げられる人間も同じ人間なのだから交流の中で理解し合えると信じる。
だがなかなか本土や世界に沖縄の人々の現状が見えてこない。
それは日本国民における沖縄の現状を無視するという沖縄差別でもあった。
私たちはアメリカの世界戦略における米軍基地とこの日本の合理的な傲慢な防衛力の不必要性を紐解いていかなくてはならない。

大きく重たい岩に例えられる米軍基地。
それも次第に私たち沖縄に連帯する日本人や世界の人々の沖縄への理解が増していく中で動き始めようとしている。
もう人を殺すことを仕事にしてきた軍隊を非武の島・琉球であった沖縄において必要としていないことを認めなければならない。
そのことから長い間目を背けてきたのが日本という国家であり、多くの日本国民でもある。
もう沖縄がこれまでに米軍基地によって虐げられた基地の歴史を世界中のどこの国においても行われてはならない。
日本国憲法違反の米軍基地を撤去・縮小していこう!
そのためにも今、日本国民一人一人が傍観者にならずに平和のために声を上げるべき転換期にある。
日本国憲法の平和主義を世界と連帯し、守り育てて行こう。
この沖縄から平和のウェーブを広げて行きたい。
それは国境を超え人種を超え地球上の同じ人間たちの愛の力によって証明できると私は信じて夢見続ける。



轟音の鼠となり空齧るフェンス   友行

宜野湾市に居座る普天間飛行場。民間の住宅に隣接した世界一危険な飛行場と言われている。



「海程」meets髙柳克弘/「秩父音頭」編 ・・・宮崎斗士

「海程」meets髙柳克弘/「秩父音頭」編
・・・宮崎斗士



宮崎:それではここらへんでぜひ会場の皆様にもトークにご参加願いたいのですが‥‥。お手元のレジュメ(二枚綴り。一枚目に髙柳さんプロフィール、二枚目に髙柳さんの代表50句を掲載)もご参照の上、ご感想、ご意見、髙柳さんへのご質問、髙柳さんの作品についてなど、何でもご自由にどうぞ。


髙柳克弘・代表50句(髙柳さんご本人による抄出)
ことごとく未踏なりけり冬の星        
雨よりも人しづかなるさくらかな   
名曲に名作に夏痩せにけり      
百人横断一人転倒油照        
羽蟻の夜パントマイムの男泣く    
霧深く別の星めく渚かな       
木犀や同棲二年目の畳        
如月や鳥籠昏きところなし      
蝶ふれしところよりわれくづるるか  
桜貝たくさん落ちてゐて要らず    
つまみたる夏蝶トランプの厚さ    
わが部屋のきれいな四角夏痩す    
光速の素質ありけり黒揚羽      
揚羽追ふこころ揚羽と行つたきり   
うみどりのみなましろなる帰省かな  
秋の暮歯車無数にてしづか      
どの樹にも告げずきさらぎ婚約す   
少女寝て人形起きてゐる朧      
ストローの向き変はりたる春の風   
キューピーの翼小さしみなみかぜ                   
充電のあひだ寒潮見てゐたり      
諸鳥を落さぬ空や大旦        
何もみてをらぬ眼や手毬つく     
枯原の蛇口ひねれば生きてをり     
読みきれぬ古人のうたや雪解川    
魚を見るごとく人みて桜守
盛り場のにほひが髪に花ざくろ
くろあげは時計は時の意のまゝに
ゆふかぜのあとかたもなき白地かな
秋蝶やアリスはふつとゐなくなる
文旦が家族のだれからも見ゆる
五月雨や籠鳥は餌をないがしろ
薫風や晩年のランボオに髭
まつしろに花のごとくに蛆湧ける
牽かれつつ打たれつつ馬肥ゆるなり
秋草や厨子王にぐる徒跣
うなそこは波音知らず天の川
缶詰の蓋に油や冬の滝
紙の上のことばのさびしみやこどり
祖の骨出るわでるわと野老掘
白靴や鷗にかろさおよばねど
亡びゆくあかるさを蟹走りけり
入れかはり立ちかはり蠅たかりけり
あをぎりや灯は夜をゆたかにす
洋梨とタイプライター日が昇る
heureka(ヘウレーカ)木の実に頭打たれけり 
死ねとすぐいふ子に秋の金魚かな
ダウンジャケット金網の跡すぐ消ゆる 
『未踏』以後
霧の来ること知つてゐる睫かな 
眠れざるこどもの数よ春の星  


−芭蕉の研究を続けてこられたとのことですが、髙柳さんの「芭蕉への思い」をぜひお聞かせ願えればと‥‥。
髙柳:芭蕉の句の中で「菰を着て誰人います花の春」というのがあるんですけど、何かこの句に私すごく衝撃を受けまして、おそらく捨聖(世俗の全てを捨てて遊行する聖)のことを詠んでいるんだと思うんですけど、この世に馴染まない人、世の中の価値観の外で生きている存在というものを掬いとってゆくというのが俳句なんだな、というふうに思って、それに比べて今自分が作っているものとか、現代の俳句で作られているものとかというのは、どうも綺麗なものとか、あらかじめ美しいと決まっているものっていう、そういうところを詠むことにどうも偏っているんではないかと思うんですね。だからその意味で、芭蕉のそういう、京都を中心とした文化に対する反骨精神みたいなもの、そこに非常に共感するところがあります。


−御作を拝見して、現代を見つめていこうという意志が感じられるところに私は興味を持ちました。
死ねとすぐいふ子に秋の金魚かな
眠れざるこどもの数よ春の星 
この二句には、今を生きる子供たちの姿が描かれています。
髙柳:ありがとうございます。 


−今年角川から出た『金子兜太の世界』の中で、髙柳さんが金子主宰の破調の句を選んでおられるんですけど、一応立場的には俳人協会系の伝統的な師系におられるわけで、そういう破調についてはどうお考えなのか。あと金子兜太の中でどういう作品がお好きでしょうか。
髙柳:私の場合、何もこだわりなく面白い句は面白いと言っているものですから、自分自身もあんまりこう前衛っぽい句とか伝統っぽく作ろうというような意識はないんですね。
あの、兜太先生の句では『金子兜太の世界』でも取り上げたんですけど、「きょお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の中」。あの句、好きなんですね。すごい句ですね、勢いがあって‥‥。兜太先生は「土」というものを大事にされてますけど、やはりどうしても私なんかは暮らしぶりからやはり土が遠いものですから、こういう土の匂いのする、土の温みっていうんですかね‥‥温かさがあるような句っていうのは兜太先生の中でも特に好きで、「きょお!」というのも汽車のことを詠んでいるんですけど、一匹の獣みたいにも見えてきて、そこが面白いですね。


−さっき結社のお話が出ていたので、結社についてお聞きしたいと思うんですけど、「海程」の句会は開かれていて、誰でも出入り自由なのですが、伺ったところによると、「鷹」の句会というのは会員や所属者のみで行われている、けっこう閉じた句会であるとのこと。そういう開かれた句会と閉じた句会との違いというのが明確にあるような気がしたんですけれども、その点に関してはどうお考えですか。
髙柳:そうですね‥‥。でもそんなに私自身は開かれているか閉じているかによって大きく句会の意味が変わってくるかと言ったら、そうでもないのかなと思うんですけどね。結局、まあ確かに結社は横の繋がりというもの、一緒に句会をするメンバーとの繋がりがありますけど、やっぱり自分が師匠に対してどう向き合うかということ、そこが軸になってくると思いますから、そこさえしっかりしていけば、閉じていても広い視野を持つことができるでしょうし、逆に開かれた句会においても価値観の相対化に悩まされなくてもすむんじゃないか、と思います。


−『新撰21』を拝見したところ、髙柳さんの100句の中で「鳥籠」関連の句が4句あったのですが、「鳥籠」に対して何か思い入れがおありでしょうか。
髙柳:私の100句の中で、4句もあるんですか?(笑)
宮崎:(『新撰21』をチェック)あ、ありますね。
如月や鳥籠昏きところなし
籠抜けて花喰ふ鳥となりにけり
はばたきに鳥籠揺るる秋思かな
五月雨や籠鳥は餌をないがしろ
ご自身では、なかなかお気づきにならない(笑)。
髙柳:全然意識なかったんですけど‥‥何でしょうね。私自身の記憶の中で鳥籠が出てくるのは、小さい時におばあちゃんに「目白が飼いたい」とねだったことがあったんですね。すごくねだって、わがまま言って、買ってもらったんですけど、その鳥籠を吊しておいたら、次の日猫が飛びついて殺しちゃったんですよ。それですごい悲しくてわんわん泣いたという。
宮崎:次の日ですか!?
髙柳:はい。で、鳥籠だけぽつんと‥‥。
宮崎:それ何か残ってますよ、絶対。
髙柳:トラウマが(笑)。


−作品、本当に端正な、と言いますか‥‥非常にいいですよね。題材がほとんどこう日常のものって言うんですかね。やっぱり季語が非常に重要な役割を果たしているような気がするんですよね。髙柳さんの発想力、発想する時って、どういった感じでしょう。季語の斡旋とかも。
髙柳:東京に出てきてから、あんまり季語の体験ってできてないような感じがして。でも俳句って季語で作るじゃないですか。だからどうしても過去の、まだ浜松にいた頃の記憶を引っぱり出して、そこのイメージで作っていくことが多いかなと思いますね。
宮崎:浜松では、やはり自然に囲まれた環境で?
髙柳:そうですね。海も山もあって、野生児のような感じでしたので。
宮崎:じゃその時吸収した、いろいろな自然の風物を。
髙柳:揚羽蝶に会った記憶とか、南風を感じた記憶‥‥。
宮崎:やはり東京では‥‥。
髙柳:もちろん東京でもそういったものはあるんでしょうけどね。でも自分の中でそれらがまだ身に沿ってないというか(笑)。東京で見る黒揚羽と、故郷で見た黒揚羽、やっぱり故郷で見た方が何か本物だ、という感じがどうしてもしちゃうんですよね。


−髙柳さんは俳句研究賞に50句応募なさった時、何句ぐらいお作りになりましたか。いろんな賞をとられたから今から大変! 今後どういう方へ向かって俳句を続けていこうと考えておられますか。
髙柳:「一日10句」を三年間続けた湘子の弟子としてはまことに不甲斐無いんですけど、全然私は多作ができないほうなんで、俳句研究賞を出す時も、50句出すところを100句も作らなかったと思うんです。本当はもっとたくさん作って、精選したほうがいいと思うんですけど、まだ世界が狭いもんですから(笑)。そこはこれから少し数も増やしていかなきゃいけないなとは思ってます。
あと、これからどういう句が作りたいか、なかなか言葉にするのが難しいところもあるんですけど、芭蕉の勉強を通して思ったのは、やはり俳句は時代に沿って変わっていかなきゃいけないと思っていて、できれば今生きている時代のことを積極的に詠んでいければと思います。
代表50句の中の、
死ねとすぐいふ子に秋の金魚かな
眠れざるこどもの数よ春の星  
とかは、一応それをやってみたんですけど、あんまり評判がよくなかったので(笑)、さっき挙げていただいて嬉しかったです。


−これからの俳句ということにも関係してくるのかも知れないんですが、私は文語というのが、やはりとても違和感があるんですね。自分は文語世代ではないので、ですから文語表記で俳句を作るということにものすごく違和感が、あの外国語に近いというふうに思ったりして、ただそれをとても楽しんだり、ちょっとやってみたいということはありますけれども、実際に自分が作る時にはもう口語で、現代表記で作るというふうにしているんですけれども、お若い髙柳さんがそういうふうに文語で俳句を作られるという、そこの違和感とか抵抗感とか、それから発想する時にもう何か外国語で発想するような感じとかってないのかなとか。で、これからの俳句ってことを考える時に、文語と口語の関係とかって、どんなふうにお考えになっていらっしゃいますか。
髙柳:そうですね。あの非常に痛いところをつかれたという感じなんですけど(笑)。確かに、現代的な素材とかテーマを詠うときに、文語とかはすごく足枷になると思うんですけど、私はたぶんその足枷がないと一歩も動けないタイプだと思うんですよ。「自由に歩いていいよ」と言われても「じゃあ止まってる」と止まっちゃうタイプだと思うんで(笑)。逆に何かそういう古い足枷みたいなものを付けられると「じゃあ歩いてやるよ!」みたいなところがあって。だから、限界があるんでしょうけれど、あくまで現代性とは相反するそういう文語とか季語とかを引きずりながらできるだけ遠くに行きたいなというところがありますね。何か、言葉は悪いかも知れないですけど、邪魔なもの、妨げになるものとして、却ってそれを大切なものとして身のそばに置きたいなという感じがあります。そこらへんは作家それぞれのタイプの違いじゃないかなと思うんですね。


−昨日、句会でお話を伺っていて、僕個人として印象的だったのは、「虚子の流れを汲む」というところで俳句をやられているというお話で、僕は高野素十という作家がとても好きなので、僕の中では虚子というのは非常に多面的な要素を持っていることは十分に承知しつつ、やっぱり高野素十を重視した虚子というイメージがかなり強くて、あと秋桜子にしても「虚子に反旗を翻した秋桜子」というイメージがかなりあるんですよね。我々の目から見てしまうとなんでしょうけども、髙柳さんの御作、作られる句が我々から見て、必ずしも虚子の流れの中にある句という感じではないような気がしたもので、その点で昨日仰った「虚子の流れを汲む」という意味合いについて、たとえば岸本尚毅さんが「自分は虚子の流れを汲んでいる」と自負しておられるのとはたぶん意味合いが違うのかなという気もしますので、そのあたり伺えればと。
髙柳:正直なところ、私自身がまだ虚子の凄さ、奥深さをわかってはいないんだと思います。ただ、私が師事した晩年の湘子はすごく虚子という存在を意識していたところがありますので、その湘子を通して、こう虚子を突き付けられているような感じがするんですよね。それを自分がどう受け止めていくのか、そのことを含めて「虚子の流れを汲む」というような言い方をしてたんですけれど。だからすぐに「虚子みたいな句を作りたい」とか、そういった欲求が湧いてくるかというと、そうではないんですけれど、いずれそうなるのか、それともまた全く別の方向に行くのか、それはそれでどちらにせよ、虚子というものに対して自分が出した答えなんじゃないかなと思います。まだ答えが出てない状況だとは思うんですけれど。


−私が思うに、髙柳さんの作品って「デジタル的」な面白さがあるんじゃないかと。世界のコントロール感というか‥‥。そのあたりは意識して作られているんですか?
髙柳:そうですね、「デジタル的」と言われたのは初めてなんですけど‥‥(会場笑)。でも、あの何か「神の視点」みたいなことは自覚しているところもあって、一句を作る時に不確定な要素が入ってくるのは、たぶん自分では許せないんじゃないかなと思います。「全能感」という言葉を私よく使うんですけれども、全部を統括したいというのか、一句を仕立てる時に、やはりすみずみまで手が行き届いていてほしいなというところがあるんですね。で、逆にそれがたぶん私の今の作品を狭めている原因にもなっている(笑)というふうに自覚もしているものですから、その全能感をどういうふうに突き抜けていくのかっていうところ、それが今後の課題になっていくのかな、と思います。


宮崎:髙柳さん、長時間に渡り、どうもありがとうございました!(会場大拍手)。


金子兜太HP 秩父俳句道場2010/11
http://kanekotohta.jp/201011titibu.html

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「俳句的身体」をめぐって(下) ・・・柳生正名

「俳句的身体」をめぐって(下)
・・・柳生正名



Ⅲ 同調する身体と俳句


1 拡張された身体

市川氏は「精神」(p78〜83)で、「はたらきとしての身体のひろがりというべきもの」が、解剖学的な体表を超え、広がると説きます。「熟練した外科医にとって、ゾンデは外的な道具であるのにとどまらず、肉体化された二次的な指先となる」。メスや内視鏡を自身の指先同様に操作する“ゴッドハンド”の持ち主が、TV番組などでよく紹介されます。
ピサの斜塔も例に挙げます。斜塔を遠望して、人は不思議な感銘を受ける。その時、「はらたきとしての身体は、見るとき、むこうの斜塔までのびている。(中略)われわれは身体のうちに斜塔とともに傾く力と、それに応答して復元しようとする力との緊張を感じる。意識下でおこなわれるわれわれの身体への斜塔の呼びかけと、われわれの身体の応答が産み出す緊張が、身体を魔術にかけ、われわれを魅するのである」(「精神」p81)。斜塔と自己の身体が同調・共振することが、光景に圧倒的なリアリティと不思議な魅力を醸し出すというのです。
冒頭、「自分の肉体で承知した自然しか信用しなくなる」という金子兜太の言葉を紹介しました。ここで言う「肉体」は、拡張され、自然と同調・共振する身体のことではないかと思います。
拡張される身体があるからこそ、直接触れえない事物についても、人はリアルな実在感を持つことができます。見える物は、経験から学習することにより、どの程度の重さで、どんな手触りで、などと推測できますが、ヴァーチャルな像とは異なる実在感を得るためには、拡張した身体を駆使して、同調・共振の感覚を得ることが必要だ、と言うのです。
実際、ある種の精神疾患(統合失調症)では、こうした外部世界のリアリティが失われることがある、とされます。その場合、「世界は深さを持たない単なる延長、よそよそしく冷たい芝居の書割のような単なる表面となり、私は世界のいかなる存在とも共感することができなくなる」(「精神」183頁)。
一方、市川氏は「身体のひろがり」を主に空間的な次元で考えています。ただ、記憶という問題を介在させたとき、身体は時間軸に沿ってもまた拡張・延長されうる、と考えたくなります。俳句に季語が登場する場合、それは、第一義的には今、作者の前に現存するものとして表現されます。しかし、先に述べたように、季語には歴史的に沈殿したあまたの日本人の季節をめぐる思いと記憶がこめられている。そうした集団的かつ歴史的な記憶をたどり、共有することで、過去との同調・共振を果たしたとき、身体は時間軸に沿って拡張・延長しているのではないでしょうか。

鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな 蕪村

洛南・鳥羽離宮跡、野分の吹き荒れるさまを眼前にした蕪村。その瞬間、彼の俳句的身体は時間を遡り、同じ地を北面の武士が闊歩した西行の時代まで延長される—そんな体験を詠んだ句と言うべきではないでしょうか。過去想望の句であることは間違いありませんが、描かれた景は、「よそよそしく冷たい芝居の書割のような単なる表面」ではなく、身体的生々しさをたたえていると思います。


2 身体的同調の起源

身体的な同調・共振の起源を考える際、市川氏は、1匹、1羽の動きにつられて、いっせいに方向転換する魚群や、飛び立つ鳥たち、1人が泣くと一斉にもらい泣きする産院の赤ん坊を例に「他者理解のもっとも低次の相に、こうした『共生』ともいうべき原始的な過程がはたらいている」と考えています。
二匹の子羊はともに走り、飛び跳ね、お互いの行動を相互模擬しあう。霊長類チンパンジーでは、箱を積み重ねて天井から吊るされたえさをとる実験で、未経験なチンパンジーが不器用に箱を積み重ねているのを見た経験豊かなチンパンジーが、自分が積み重ねているわけではないのに、箱が崩れそうになると、思わず手を差しのべたり、手足をうごめかす。人間もボクシングや相撲を見ていると、自分が戦ってでもいるように、筋肉に力が入り、熱中してくると選手の動作をなぞったり、先取りして見せたりする(「精神」275頁)。
もともと魚や鳥が他の個体の動きと同調する性質を持つのは、危機的状況から生き延びるため。人類も、進化の過程で狩猟などの際、他に同調した行動を取ることは生き延びるために必須だったはずです。
脳医学の世界では現在、「ミラーニューロン」の存在が唱えられています。霊長類など高等動物の脳内で、自ら行動する状態と他の個体が行動する様子を見ている状態の、両方で活動電位を発生させる神経細胞であり、他者の行動を見たとき、まるで自分が同じ行動を取っているかの感覚を産み出します。これによって、高等生物における身体的な同調作用の高度な発達が科学的に証拠付けられるとすれば、注目に値します。


3 同調による理解

市川氏は言います—「感応的同調は、幼児にみられるように、初歩的には他者の行動をほとんどそのままなぞるところまでゆくが、やがて素描的な身ぶりや表情による感応、さらには外にはあらわれない筋肉的な次元での下書きに集約され、もっと進んだ段階では、単なるイメージあるいは観念によって、可能的行動を先取りし、下書きする観念的感応へと内面化される」(「精神」277頁)。人間も赤ん坊の場合、目の前の人が笑うと笑うなど同調的行動を取りますが、成長するに従い、同調を直接、行為で示すことは少なくなる。ただ、その場合でも、外面からはうかがえない筋肉の微細な緊張や、さらには脳内でのイメージ上のシミュレーションなど、より抽象化した方法で、他者と同調し、共振する身体を実感するというのです。
「われわれはこうした感応動作や、その筋肉的な素描、さらには単なるイメージによる観念的下書きによって、他者の行動や表現の意味を、また他者の感覚や情動や精神状態さえも、いわば身体的に感得し、内面化する」。
宮崎アニメ初期の代表作に「ルパン三世 カリオストロの城」という作品があります。
その中で、ルパンは高い塔の内に囚われたクラリス姫を救おうと奮闘します。観客は、彼が屋根の端にかろうじてぶら下がり、懸垂して這い上がるシーンを見るとき、自分自身の肩や腕に無意識に力が入る感覚を容易に実感できます。二次元の、デフォルメされ、記号化された絵でしかないものに、私たちは身体的な同調・共振を起こし、感移入し、自分があたかもルパンであるような、感覚さえ持ちます。宮崎駿監督はそのような事態が生じるように、計算し尽くした演出を施している、と言っても良い。
現実の光景→実写映画→アニメ→漫画と進むに従い、こうした同調を産み出す原因となる情報は、より抽象的で記号化されたものとなります。漢字が象形文字であることを考えると、媒体が言語にまで抽象化されても、同様のことが起こりえる。言葉によるコミュニケーションが、人間という種に可能である根底には、身体的な同調・共振の能力を高めていった結果と理解できるでしょう。
身体の「他の構造への〈同調〉ないし〈共鳴〉が、他者あるいは物の内面的理解を可能にし、世界をその表面にそってでなく、その深さにそって理解させる」(183頁)。近代西洋哲学では、デカルトの唱えた「われ思う、ゆえに我あり」という命題を土台に、唯一の確かな実在である「コギト考えるわれ」=主観が、どのようにして「外部の世界」や「自分以外のわれ(他者)の内面」=客観的存在をリアルに認識し、理解できるのかを常に議論してきました。その回答として、市川氏は(そして、おそらくは金子兜太も)拡張された身体の同調・共振という作用によって、それが可能になる、と考えるのです。
それは、「頭で分かる」ことと、身体的な同調・共振を伴って「体で分かる」ことの間には本質的な違いがあるということを意味します。単に頭だけで理解された世界は、おそらく「深さを持たない単なる延長、よそよそしく冷たい芝居の書割」にとどまるでしょう。世界を深さというリアリティを持った存在とするには、体で分かることが必要なのです。
仏教で言う「悟り」が、単なる知識の獲得によってでなく、身体的な「行」を通じ、達成されるのは、そのためです。そして、その悟りには「山川草木悉皆成仏」、すなわち、存在するものすべては仏、というアニミズム的な考え方が含まれます。このように、ありとあらゆる存在に分け隔てない生命の息づき、そして自己との一体性を実感するアニミスティックな感覚は、自己と他との身体的同調・共振によって裏付けられるものでしょう。


4 身体的同調と文学

俳人という立場から、市川氏の言説を巡っていく時、もっとも印象的なのは、身体の同調・共振によって、文芸の持つ本質的な力を説明している点です。「文学は、言語がイメージを喚起する力とわれわれの(身体に基底を持つ)感応的同調の能力を最大限に刺激して、(読者に)一つの架空の人生を(自分自身のものとして)生きさせようとする試み」(「精神」278頁)。先に述べた宮崎アニメが、娯楽作としてだけでなく、今や芸術作品としての評価も得ていることと考え合わせれば、理解しやすいでしょう。
文学のうちでも、小説は必要に応じて叙述の解像度を上げる(記述を詳細にしていく)ことが可能です。それによって、読者の感応的同調をコントロールし、自らと性格が異なり、現実なら嫌悪感を抱くだろう人物像や、荒唐無稽な空想世界にさえ、やすやすと感情移入させることができる。
一方、俳句は、叙述に費やせる情報量は最小限で、小説のような戦略は採用できません。にもかかわらず、読者に世界に対するアニミスティックとも言える感応的な同調を引き起こすことができるのはなぜか。


5 俳句的身体

ひとつは、「定型」と「切れ」の織り成すリズム感や音韻性、また「季語」の持つ体感に根ざした文化的な共通基盤としての性格が、詠み手と読み手の間、または俳句そのもののと読者の間に、身体的な同調・共振をもたらす大きな力となっているでしょう。

獅子舞の歯のかつかつとせり上がる 藺草慶子

読者は、8ビートに裏付けられた五七五のリズムが持つ躍動感に支えられ、身体的に活性化した状態で「かつかつ」と発語する。もしくは、黙読する場合でもヴァーチャル仮想的に発声に伴う筋肉の動きをシミュレート模倣して、舞獅子の口の動きをそのままなぞり、獅子頭と身体の上で同調する。だから、言葉で描かれた獅子舞の生き生きとした姿が眼に見え、歯をかみ合わす音が実際に聞こえるかの感覚に襲われる。獅子頭の中に人間の息遣いをも実感するのです。日本語に多い擬音・擬態語は、そうした効果を持ちます。もし、「かちかち」ならば、発語の際、実際に歯は噛みあわない。
そこに、この句において「かつかつ」でなければならない必然性があります。
次は、情報の絞り込みです。一点突破・全面波及、もしくはクローズアップ効果といったらよいでしょうか。

ひっぱれる糸まっすぐや兜虫 高野素十

描写を一直線に伸びた糸に集中し、瞬間を鋭く切り取ることで、読み手は自分の心身に緊張感を呼び起こされ、同調してしまう。糸で結ばれた重い荷を懸命に引く甲虫と身体を共有し、自らがなりきったアニミスティックな感覚を体感することになります。
三つ目に、俳句の持つ、記憶の内にそのままの形で棲み付く特性にも秘密があります。
たとえ、句を読んだ最初の瞬間には、書かれた内容への同調=理解が不能でも、記憶の中にとどまれば、時を隔て、例えば、それと似た体験をする、または、その句の意味を理解するのに不可欠な知識を偶然得る機会が巡ってきた時に、突如として同調現象が起こる可能性があります。
人生というジグソーパズルを組み上げていく中で、ある経験をした瞬間、その要となるパーツが埋まり、描かれた全体像が一気に見える体験をすることがある。そういう時に、日本人は「目から鱗が落ちる」「腹にすとんと落ちる」などと、身体に言寄せた表現を用いてきました。ことが「本当に分かる」際に感じる身体に根ざした同調・共振の実感がそこには籠められています。
俳句は、そのように記憶にとどまり、身体化されることで、読み手の成長に併せ、より深い同調・共振をその身心に生じさせる性格を持つ文芸なのです。
とすれば、自分の周りに広がる世界や周囲にいる人々に対し、高度な同調・共振能力を備えた身体を持つことが、俳人たる者に求められる資質、ということになるでしょう。その上で、「定型」「季語」「切れ」という独特な言語技術を駆使しつつ、自らの身体が経験した同調・共振の感覚に読者の身体をさらに同調・共振させることができたとき、名句というものが生まれるでしょう。それを可能とする「俳句的身体」を自らのものとした存在のみが、俳人を名乗る本当の資格を持つ、というべきかもしれません。


6 「分からない文芸」としての俳句

詠み手の意図を正確に読者に伝えるという意味では、俳句という形式は極めて不完全です。むしろ、俳句が伝える主なものは、ある意味で曖昧な身体的な同調・共振の感覚だと言って良いかもしれません。
そもそも、散文と同じ意味で解釈しようとした場合、俳句のほとんどは情報量が不足しており、解釈不能です。むしろ「分からない」のが当然の姿、と言うべきでしょう。
それでも、身体的な同調・共振の感覚を通じて、俳句は読み手の記憶にとどまる場合がある。その際には、もはや、句から何を汲み取るかは作者の意図とは切り離され、ある意味、句は読み手自身のものとなってしまう。
この段階まで来ると、句がいったん忘れられてしまっても、季語を持てば、季節のめぐりに応じて、思い出される機会がめぐって来る。そういったプロセスを経て、読み手が人生を重ねるに従い、その句に対する理解も、そこから得られる身体的な同調・共振の質も、より深いものとなっていくに違いありません。
昨今、元気とされる日本映画の世界で「分かりやすい感動」がキーワードとなっているそうです。公式化されたテクニックを駆使し、時系列に沿った筋運びゆえに、一篇の内ですべてが「割り切れ」、後を引かない作品が好まれる。ある意味では、消費の対象として上出来です。消費する側は、すぐ結果が出ることを望みます。流行のダイエット法のように。
俳句についても、句会という制度と結び付いて、目にした瞬間に分かる作こそ伝達性があり、好ましいとされる風潮があることは事実です。ただ、ここまで「俳句的身体」という視点から考察してきた道筋を振り返れば、そうした風潮が俳句の本質をむしろ否定しかねない点に気付くでしょう。何事につけ、本物は飲んで一日ですべて解決、というものではない。数年、数十年たって、あのときに飲んだことが大きな意味を持っていた、と実感させるのが、本物の本物たる所以ではないでしょうか?

地に殉教そら宙に毛深き蝶のかお貌 柳生正名
蘆火ひとつ近江はひかがみ膝裏の瞑さ

本日の話も、これらの句も本物と言うほどの自信は持ち合わせませんが、ご清聴いただいた皆様の記憶に少しでもとどまり、いつか、皆様の内に「ああ、あれはそういうことだったのか」という思いを抱かれる方が、ひとりでも出て下されば、語る者としては望外の喜びです。

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編集後記(第6号)

編集後記(第6号)

■宮崎斗士



二回に渡り、お届けしました『「海程」meets高柳克弘』。
いかがでしたでしょうか。
イベントの他にも、
句会でのご選句ご講評、著書へのご染筆、吟行、懇親会など、
二日間、高柳さんには大変お世話になりました。
どうもありがとうございました。

12/25up『俳句樹』次号「無塩仏」。乞う御期待!



■中村安伸

第7号は12月25日にリリースですね。
まさにクリスマスですが、大丈夫でしょうか?

23日には「超新撰21竟宴」が行われます。
私も出席を予定しておりますので、ご来場の方々には会場にてお目にかかります。

2010年11月27日土曜日

第5号

11/27 「「海程」meets髙柳克弘/「五番街のマリ-へ」編」を追加
第5号
2010年11月25日発行(27日更新)

「俳句的身体」をめぐって(上)
・・・柳生正名   →読む

「海程」meets髙柳克弘/「五番街のマリ-へ」編
・・・宮崎斗士   →読む

海程ディープ/兜太インパクト -5-
私における金子兜太
・・・田中空音   →読む

豊里友行の「沖縄便り」(5)
「季語再考」
・・・豊里友行   →読む

編集後記     →読む

執筆者プロフィール     →読む

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「海程」meets髙柳克弘/「五番街のマリ-へ」編 ・・・宮崎斗士

「海程」meets髙柳克弘/「五番街のマリ-へ」編
・・・宮崎斗士


「海程」では年二回(4月・11月)、埼玉県秩父にて、俳句合宿「秩父俳句道場」を開催している。参加者は毎回五、六十人といったところ。道場では、吟行と数回の句会を行なっている。ここ数年、金子兜太主宰の意向で、「海程」同人・会員以外で広く俳壇で活躍されている方に、道場へのゲスト参加をお願いしている。今月、11月6~8日の道場では「鷹」編集長・髙柳克弘さんにお越しいただいた。そして二日目、11月7日の午後、髙柳さんを囲んでのイベントを開催した。イベントの司会は宮崎斗士が担当。以下はその抄録である。



午後2時、イベントは髙柳克弘さんの講演から始まった。
俳歴、「鷹」のこと、藤田主宰との思い出、藤田・金子両主宰の交わり、結社・師系というものに対する信念、「道場」への思いなど、興味深いお話を数多くご披露いただいた。


★「鳥突きあたる」-兜太と湘子
今、私は「鷹」という結社で編集長のほうを務めております。(藤田)湘子が亡くなったのが2005年。新主宰は小川軽舟ということで、湘子が最後、小川を病床に呼び、「あとは任せる」といったことで「鷹」を譲られ、でその小川に私が指名されて、「鷹」の編集長になったわけです。
まあ、私も俳句を始めて間もなかったものですから、あまりその結社を引き継ぐというか、新しい体制になるってことの重みがまだわかっていなくて。けっして気楽に引き受けたわけじゃないんですけれど(笑)、引き受けた時にはまだその重みが全然わかってなかったなと思うんです。やっぱり結社誌の編集というのも大変な仕事だなとだんだんわかってきた感じで。一番そのことを痛感したのは、その翌年の2006年が「鷹」が発刊されて500号になる年だったものですから、その500号記念号というのを作ったんですね。記念号なものですから、いつもより厚いページで、寄稿者も俳壇に広く募って書いていただこうということで、依頼から始めなきゃいけなかったんですけれど、全然今までおつき合いのなかった俳壇の大先生方に依頼をするという仕事はなかなかに緊張するというか大変で、その中のお一人が金子兜太先生だったんです。たぶんその時電話でお話ししたのが、金子兜太先生と初めて私が言葉を交した時で「今度、湘子が亡くなって初めての記念号なので、藤田湘子特集にします。ぜひお願いします」と言いましたら、「おうっ」ということで(笑)二つ返事で引き受けていただいて、これはよかったと思ったんです。それまでの金子兜太のイメージというのは、すごい「雄牛」のようなイメージと言うか(会場笑)、「鷹」の中でもいろいろ湘子の武勇伝が語られているんですけど、その武勇伝の中にやっぱり湘子と兜太が何かどこかの飲み屋で喧嘩した(笑)みたいな話もあったものですから、これはちょっと「鷹」の名前を出して依頼しても、もしかしたら怒られてしまうぞと思って電話したんですけど、快く了承の返事をいただいたものですから、すごくほっとした思い出があります。
その時にいただいた原稿を「鷹」2006年4月号の記念号に載せることができて、その号はさっきもお話したんですけど、湘子が亡くなって初めての記念号ということで、テーマは「藤田湘子という作家について」。で、いろいろ所縁の俳壇の方々に、湘子にまつわる思い入れというかエッセイをいただいたんですね。金子兜太先生には「鳥突きあたる」というタイトルの短いエッセイをいただいてまして、ちょっとかいつまんで、そのエッセイを読ませていただきたいと思います。「兜太から見た湘子」ということなんですけれど‥‥。

湘子との付き合いは長い。もっとも継続して長いわけではなく、途切れ途切れのつながりで長い。したがって、いつも仲がよいわけではなかった。この野郎とおもうことも多く、クセのあるおもしれえ野郎だ、とおもうことも多かった。並みの俳人との付き合いではなかったこと事実である。初めて顔を合わせたのは、私の第二句集『金子兜太句集』の出版記念会を灘万でやってもらったときだから、

いいですねえ、灘万(会場笑)。

四十年以上は経っている。初夏だったか、季節のよいときで座敷は開け放たれていた。会半ば、そこに長髪で割合小柄で、痩せ気味の気の強そうな感じの男がとび込んできたのである。すると、司会の人が、「『馬酔木』の編集長藤田湘子さんです。御挨拶をいただきます」と、待っていたように、順番を狂わせて、湘子を指名したものだった。

ご存知の方ももちろんいらっしゃるかと思うんですけど、この当時、湘子は石田波郷の後を継いで「馬酔木」の編集長をやっていました。

私は、むろん名前は知り、句も読んではいたが、実物を知らなかった。第一印象は、すいぶん図図しい奴だ、ということ。一目見下している、というか、大所帯「馬酔木」と、それが担ってきた近代俳句の拡がりに較べて、戦後俳句の波はまだまだ小さい、という気負いがありありと現れていたようにおもう。彼はいささか仰向き気味にズケズケと喋ると、そこで酒を忙しげに飲んで、さっさと帰ってしまった。だからお互いに挨拶を交わすことはなかった。

ということで、兜太と湘子という二人の作家の初めての出会いが語られているわけです。

そして、二度目はどこだったか朧ろだが、次に出てくる記憶は、高柳重信と湘子という組合わせである。二人と喋っていると俳壇というものを私は痛感して止まなかった。そして今でも二人は数少ない俳壇人だったとおもっている。その人の俳句を挙げて話が弾むということは稀で、話は直ぐその作者の人物におよび、俳句の、いや俳人の世界(俳壇といおうか)における関係、位置付け、役割、そして裏話に及ぶ。私にはそれがおもしろかった。この連中は「俳句の大人」だとおもった次第で、俳句作品の享受とともに、俳句をつくる人間臭い雰囲気の享受ということだとおもい、いまでも私自身俳壇話が大好きである。

私は弟子といっても結局三年弱ぐらいしか湘子のもとで指導を受けることはできなかったんですけど、その弟子の末端の目から見ると、ちょっとこの下りは意外なところがあって、というのは私が師事した湘子は最晩年の湘子だったものですから、あまり湘子の「俳壇人」としての活動というのを見たことがなかったんですね。やっぱり体がだんだん衰えてきたということもあって、パーティーなんかに出席することも前に比べたら少なくなってたんでしょうし、そこで仕入れてきた噂話なんかを結社の中で披露するということも、そんなに多くなかったように思います。昔のことはよく話してくれたんですね。波郷はどんな人だったとか、秋桜子はどんな人だったとか、そういう昔の俳壇話はいっぱいお酒を飲んだ席で教えてもらった覚えがありますけれど、やっぱり現役として、俳壇人として、今俳壇で起こっている話とか、そういうことを語ったことはなかったと思います。なので、ちょっとこの兜太先生の「俳壇人だった」という部分は私の知らない湘子像、まあそんなのはいっぱいあるんですけど、その一つかなと思います。
湘子が亡くなってもう六年になろうとしています。「どんな存在だったか」ということを考えることもあるんですけど、やっぱり湘子は「結社」というものをすごく意識した俳人で、「俳人は結社でしか育たないんだ」ということをよく言っていた人でした。だからこそ同時にその俳壇人として外部を意識した、と思うんですね。自分の師系というものを強く意識すればするほど、その外にいる人がどういう考えを持っていて、自分たちにどういう目を向けているのかということは、やはり逆に気になっていたんですね。だからそういうふうに俳壇人としての側面を持っていたんじゃないかなと思います。
あと、これは小川軽舟が書いている話なんですけど、大正八、九年生まれの黄金世代といいますか、兜太先生もそうですよね、破竹(八、九)の勢いの俳人だと言われて、飯田龍太、森澄雄、金子兜太などがその世代に当たるんですけれど、湘子はその世代から少し遅れて生まれてきてるんですね。だから湘子はその破竹の勢いの世代から少し遅れたという意識を持っていて、そこの世代に対抗心とかライバル心みたいなものをすごく強く持っていたらしいですね。だから自分という作家が彼らに対抗していくことはもちろん、「鷹」という結社から、その世代に負けないような存在を出さなくてはいけないということで、すごく熱心にやっていました。


★師・湘子、二つのエピソード
先ほど申し上げたとおり、私自身はあまり俳壇、「鷹」の外部を意識する湘子というものを見たことはなかったのですが、まあ数少ないエピソードなんですけど、私、今眼鏡をかけているんですが、時々何か外す癖があるんですね。ずっとかけてると、うるさくなってくるんで、ちょくちょく外して句会なんかでこういるんですけど、ある時湘子と句会をやっていたら、そのことを怒られた覚えがあります(笑)。要するにその、一度眼鏡がない顔を覚えてもらってから、それでまた眼鏡をかけると、お前の印象がブレるじゃないかと(会場笑)。何かすごく細かいようにも見えるんですけど、でもやっぱりその自分のところの作家を売り出すためには、そういう細かいところから配慮しなければいけないのかなと。
あともう一つ、湘子の俳壇に対する意識を、私自身が感じたところでいうと、私が俳句研究賞を受賞した時だったんですけれど、その授賞式の二次会で、湘子がお集まりの皆様に向け挨拶することになりまして、私も湘子は師だという意識がありますし、俳壇の面々に対しては、きっと無理にでもいいことを言ってくれるんじゃないかな、とちょっとどこか期待してたところがあったんですよね。
だけど出てきた湘子は開口一番「この髙柳という奴は本当にもう礼儀も知らない仕方のない奴で」みたいなことを言い出すんです(笑)。それでちょっと冷や汗をかいてしまって。その後も「全然まだまだ俳句もへたくそだし、もう皆さんのお力添えがなければやっていけない奴なので、どうか皆さんよろしくお願いします」ということで、さんざんこきおろしてから、そういうふうに付け加えてくれたんですけど。それでちょっとこう、その時は私もさすがに少しは褒めてもらえると期待してたものですから、がっかりしてたんですが、あとで先輩俳人の方に言われたのは「あなたはショックだっただろうけど、あの場はあれでよかったんだ」と。
その時、私は確か23、4歳ぐらいだったんですけど、その年でそういう賞をとったりすると、どうしてもその批判というのか「何だあの若僧」ということで俳壇の中から必ずそういう非難がくる。そういう時に下手に褒めたりすると「湘子が甘やかして育ててる」ということになって、私にとっても「鷹」にとっても、それは良くないことなんだ。むしろ師匠としてはあそこで徹底的に貶して、皆さんに「支えてください」とお願いした方がいいんだということを言われて、「ああ‥‥」とちょっとショックを受けました。それまでももちろん師弟というところの意識は持ってはいたんですけど、本当に師弟であることの意味っていうのか、そういうことを感じたのは、その時がたぶん初めてだったんじゃないかなと。
本当に乏しいエピソードではあるのですが、その眼鏡の話と授賞式二次会での話が、私の中の湘子にまつわるエピソードとして強く心に残っています。


★結社制度、師弟制度の現在
最近、私と同世代、それから私より若い世代の二十代三十代の作家がすごく表に出て活躍するようになりました。それは去年刊行された邑書林『新撰21』が一つの大きなきっかけになっています。若手にスポットライトが当たっています。そこで『新撰21』に対して言われることは、今、若手の中で結社に対する意識、それから師系に対する意識というのが崩れつつあるんじゃないかとよく言われるんですね。
というのは、今の二十代、特に私より下の世代の俳人というのは、「俳句甲子園」という高校生による俳句のイベントが松山で毎年開かれていて、その大会がきっかけで俳句を始めたという人たちが多いんですね。そうすると最初に誰か先生について俳句を学ぶんではなくて、ショーというかイベントから始めているものですから、あまり自分が師系に連なるとか、結社に入るみたいな意識っていうのは持たずに入ってきている。
私が俳句を始めた当時は、2002年ぐらいだったんですけれど、その頃は「俳句甲子園」もまだまだ序盤の頃で、『新撰21』みたいな企画もなかったものですから、俳句を始めるに当たって、結社以外の道があるってことを知らなかったんですね。だから俳句を本格的にやろうと思ったら、どこか先生について結社に入らなくてはいけないっていう、それが前提だったものですから、それで「鷹」を選んだんですけど。だからその当時は、結社に入るということと、それから師系に繋がるということが一致していたんですね。でもだんだんそういった意識が失効してきたというか、若手にとって絶対的なものではなくなってきた、ということなんじゃないかと思います。
「海程」の皆さんとしてはどうでしょうか。結社である「海程」に入るということと、金子兜太に師事するということ、これはほぼ同じことを意味していたと思うんですけれど、それがだんだんこう乖離しているというか、たとえばその結社に入っていたとしても、特に師系に連なっているという意識がないという方もいますよね。もしくは逆に、師を持つんだけど、その師が結社を持っていないために、結社に入らないというケースも最近出てきたんですね。これは若手の意識の問題だけではなくて、俳句の世界の構造が変化しているということなのかも知れませんけれど、たとえば昨年この道場にいらした池田澄子さんは、非常に存在感のある作家ですけど、結社は持たれていませんよね。でもやっぱりすごく存在感がある作家ですので、若手は池田さんに師事したいと思うわけですね。師事はするんだけど、個人的にそういう約束をするだけで結社には入らないという、そういう流れになっています。だから必ずしも、かつてのように「結社に入る」イコール「師系に連なる」ということではなくなっていて、まあそれが結社制度それから師弟制度の崩壊、崩れていく一つの原因になっているんじゃないかなというふうに思います。
それに対して、じゃ私自身がどう思ってるかというところなんですけど、結社制度、師弟制度を自分にとって必然と思わない、そういう考え方も一つあるかなというふうには思うんです。自分は、結社に入って俳句を学んで、湘子の師としての姿を見て、やっぱり師弟制度というものは俳句にとって大切だなというふうに実感していますが、でも俳句を始める道、俳句を始めてそれを高めていく道っていうのは、それだけではないだろうというふうにも思うんですね。ただやっぱり何と言うのか、今のそういう時代だからこそ、結社が逆に重要な意味を持ってくる時代なのかなとも思うんです。


★結社は「道場」であれ!
今回、この秩父道場に招いていただいた時に、「道場」という響きがすごくいいなと思ったんですね(笑)。やっぱり結社である以上は、結社は道場であってほしいなっていうふうに思うんです。そこの基本は変えたくないなというのがあるんですね。どうしてそういうふうに思うかというと、藤田湘子という作家、たとえば「入門書を書いた人」っていうようなイメージがもしかしておありじゃないかと思うんですね。湘子は入門書を書くことが抜群にうまい人だったと思います。『20週俳句入門』という本なんかは今でもよく売られているロングセラーになっていますし、その本をきっかけに俳句を始められたという話もよく聞くんですね。でもあくまで湘子というのは、入門書を入口として見てた人なんですね。で、その先にはやっぱり道場、結社という道場が待ち受けている、そういうことを考えていた人でした。確かに俳句を教えるのが上手だった人ですし、わかりやすく俳句の魅力を伝えるということにかけて卓越した才能を持った人だったんですけど、それだけではなくてやっぱり「鷹」という結社も「道場」であるべきだと、そういう人だったんだと思います。だから今回「海程」に招いていただいて、「秩父俳句道場」ということを言われた時に、すごく何か近しいものを感じたんですね。「道場」は合理的な指導ばかりするわけではなくて、雑巾がけとか、わかのわからない理不尽な労働もさせられるじゃないですか。それと同じように、結社の中で雑務をしたりすることも大切です。それが、先生による一方的な選や読みを受け入れる下地になっていくんだと思います。
私自身も決してその結社というところで「俳句を教わる」とか「俳句の知識を学ぶ」とかそういうことではなくて、やっぱり「理不尽な力によって鍛えられる道場」として「鷹」にずっと居続けているっていうところがあるんですね。だから若者がたとえ結社離れをしたからといって、その根幹のところを変えるのはきっと間違いなんだろうなと思います。
今、教育がサービス業になってきたということが問題になって、よく言われますよね。生徒が対価を払うことによって、その代償として先生が知識なり教養なりを与えるという、そういう市場原理の働いた学校になってしまっている。結社も、ともすればそういうところに陥りがちなのかも知れないと思うんです。要するに「道場」ではなくて「教室」になってしまっている。だから「俳句を教える」っていうことも‥‥私自身の実感としては、湘子から俳句を教わったという感じはないんですね。確かに添削とか、いろいろ俳句にまつわるテクニックみたいなものの教えはありましたけれども、それによってその結社というものに居るわけではなくて、何かもっと数値化、軽量化できない恩恵、たとえば俳句の優劣の見極め方や、俳句の読み方など、もっと微妙で繊細な配慮が要求されるものを身につける、そのためにというのが大きいと思います。だからその結社が「教室化」していくってことに対しては、そういう意味で非常に危ないことなのかな、と私は思っています。
これから結社というものをどうやって若者に伝えていくのか。頭ごなしに「俳句は結社でしか学べないんだから結社に入りなさい」と言っても、今の若手はたぶんますます殻を閉ざしていくだけだと思うんです。だからそういう意味で、やっぱり合理的な言葉で若者に結社の意義を伝えていかなくてはいけない、そういう責務があるのかなと思います。
何が結社の中で一番面白いかと言った時に、やっぱりいろいろな世代の間で対話ができるということだと思います。若手だけだと、やっぱり若手って集まっちゃうんですよね。で、その中では通じる批評の言葉とか俳句っていうものも確かにあるんですけど、それが外に一歩出た時にその価値観がまるで通じないっていう経験、これはすごく大事なことじゃないかなと。そのことで、自分自身の俳句観が鍛えられていきますから。で、結社の中には若手もいれば、かなりご高齢の方もいらっしゃるわけで、その両方が一つの話題について語り合う経験というのは、やっぱり日常ではできないと思うんですね。まあ俳句という共通の話題があるからこそだと思うんですけれど、老若男女、誰しも抵抗なくダイアローグできる場所としての結社、「道場」としての結社の立場というのをこれからも大事にしていきたいと思います。そういう意味で今回「秩父俳句道場」、この会に招いていただいたことはその実現を見るようですごく嬉しいことでした。本当にありがとうございました(会場拍手)。



講演に続いて、宮崎が髙柳さんへの公開インタビューを試みた。
プロフィールに沿った形のインタビュー、髙柳さんはこちらの突っ込んだ質問、不躾な質問にもひとつひとつ丁寧に答えて下さった。インタビュアーとしては汗顔のいたりであったが、貴重なお話をたくさん聞くことができた。


髙柳克弘さんプロフィール

1980年(昭55)静岡県浜松市生まれ。
2002年(平14)俳句結社「鷹」に入会し、藤田湘子に師事。
2003年(平15)早稲田大学大学院入学、
堀切実ゼミにて芭蕉俳諧の研究を始める。
2004年(平16)第19回俳句研究賞受賞(最年少での受賞)。
2005年(平17)藤田湘子逝去。新主宰小川軽舟の下「鷹」編集長就任。
2007年(平19)『凛然たる青春 若き俳人たちの肖像』(富士見書房)を刊行。
2008年(平20)『凛然たる青春』(富士見書房)により、
第22回俳人協会評論新人賞受賞。
『芭蕉の一句』(ふらんす堂)を刊行。
2009年(平21)第一句集『未踏』(ふらんす堂)を刊行。
アンソロジー『新撰21』(邑書林)に参加。
2010年(平22)第一句集『未踏』(ふらんす堂)にて第1回田中裕明賞受賞。


★「ゆきうさぎ」とトロンボーン
-子供の頃は、けっこう文学少年的な感じだったのでしょうか。
いやでもそんなに‥‥あ、でも本は好きだったんですけど、そんなにこう昔から作家を目指していたとかそういうわけではなかったです。
-当時、何か強烈な文学的体験とかはありましたか。
中学一年のとき、近所のスーパーで童話を応募するというイベントをやったんですよね。それで学校の先生がそれに目をつけて、夏休みの宿題で書かせたんですね。で、私もしょうがないので書いて、それで出したら、それが一番になって本になったことがあったんです。
-え、本に!(会場内ざわめく) 凄いじゃないですか! どんなストーリーですか。
「ゆきうさぎ」というタイトルで、人里離れたところに鬼の親子が住んでいて、鬼は人間の里から物を盗んできて生計立ててるんですけど、ある時、その鬼のお父さんが鬼の子供のために、人間の里からコマを盗んでくるんですね。その子供のほうは渡されたコマを見て、「誰か人間の子供が持っていたコマなんだろう。それを盗んで持ってくるっていうことはやっぱりいけないんじゃないか」と疑問に思って、それでお父さんには内緒で人間の里までそのコマを返しに行く、という話ですね。
-おおー。(会場内が沸く)
-(会場内の一人がぼそっと)何だか涙が出そう‥‥。
-本の出版で、けっこう目覚めたみたいな部分はありましたか、創作に対して。
あ、でもそれ以来書いたことはなかったので(笑)。
-小中学校時代のクラブ活動とかはどういったものを。
音楽が好きだったもので、吹奏楽部とかやっていて、全然文学とは関わりなく。
-けっこう長くやっていらっしゃいました? 
そうですね。中学高校ではずっと。
-ちなみにどういった楽器を?
あの、トロンボーンを(笑)。
-ライブとかステージとかも。
浜松市は「音楽のまち」ということで、駅前パレードとかに、かり出されて演奏を(笑)。でも私はどうしても、もう一つ音感がなくてですね。全然そっちのほうではモノにならなかったんですけど。
-もっと専門的にやろうって感じではなかったですか。音楽学校とか。
そうですね。なかったですねー。湘子もけっこう歌が好きな人で、お酒が入るとよく「五番街のマリーへ」(ペドロ&カプリシャス)を歌っていました。すごく上手でしたよ。
-「五番街のマリーへ」と「秩父音頭」(金子主宰の十八番)じゃ全然違いますね(笑)。


★俳句との出会い、「鷹」との出会い
-それで大学は早稲田大学第一文学部ということで。
文学部に入って、せっかく中学の頃にそういうこともあったんで、そういう文学の勉強をしてみようかなというぐらいのものですけど。
-具体的に俳句を始められたきっかけというのは。聞くところによりますと、寺山修司の作品がきっかけとのことですが。
本当に地味なきっかけで、でも寺山修司がきっかけということは間違いなくて、一緒の高校だった友達が、せっかく寺山の出身大学に入ったんだから、寺山が最初にやった俳句でもやろうみたいな感じで、俳句のサークルに入ったんです。
-「鷹」との出会いは。
きっかけが寺山で、いろいろ俳句のことも広く勉強していたんですけど、中でやっぱり水原秋桜子に一番惹かれたというか、何か合うものを感じたというとおこがましいんですけれども。秋桜子系の雑誌でやりたいなというふうに思って、いろいろ調べて「鷹」に入ったということですね。
-入会時の「鷹」はどういう印象でしたか。
やっぱりすごい「とんがってるな」という感じでしたね。
-それは藤田先生の作品がということですか。
そうですね。湘子の作品もそうでしたし、「鷹」誌に載っている他の作品もかなりチャレンジ精神というか先鋭的なところをいってるなと思ったものですから、ここでやってみたら面白いんじゃないかと。思い切って飛び込んで。
-実際に藤田先生に初めて会われた時の印象はどうでした?
いやー何かやっぱり恐かったですね。顔がやっぱり、こうちょっと鷹に似てるんですよ(会場笑)。猛禽類みたいなところがありまして。
-先生は若い世代に対しても、けっこうガンガンと思うところをおっしゃる感じでしたか。
とにかく若い人の考えていることにすごく興味を持ってくれて、作品とかにも、それはとても有難かったですね。若い世代のメンバーだけだとどうしてもわからないことについて、いろいろアドバイスしてくれたりとか。
-「鷹」での活動と並行して、大学院に進まれて、芭蕉の研究を始められるわけですが、芭蕉に関しては前々から興味が?
古俳諧というとどうしても古臭いものと思っていたんですけど、よく読み込んでいくと、その当時において非常に前衛的なことをやっていたんだな、ということがわかって、やっぱり面白いなと。
-ゼミでは、やはりいろいろ論文を書かれたり、みっちりと探究を。
はい。在学中は積極的にやってましたね。
-それがのちに『芭蕉の一句』という一冊に結実するわけですね。


★俳句研究賞、「鷹」編集長就任
-そして大学院生時代に第19回俳句研究賞受賞。最年少での受賞ということですが、当時23歳か4歳ぐらいで。
24歳かな‥‥。
-受賞のお知らせは、どういった形で?
あの、「俳句研究」の編集長から電話がありまして、その選考会が終わった直後にかけてるんで、選考委員の先生方に電話をかわるんですけど、湘子は「お前、調子に乗るんじゃないよ」というのが第一声でした(会場笑)。「これからなんだからな」という。
-やっぱり受賞が決まった時って、ぱあーっと宙に舞うような感じ‥‥。
いやー、何かそんなにその当時は賞の意味というのもわかってなくて、ただやっぱり湘子にできるだけ作品を見てもらいたかったんで、50句応募できる俳句研究賞に出したんですね。
-この受賞で環境とかもかなり変わりましたか。
そうですね。確かにそれまでは湘子からの評っていうぐらいしかなかったんですけれど、「鷹」以外の方の評なんかもいただくようになって有難いことでした。
-あと、「鷹」外部からの、作品や文章の依頼なんかもだんだん増えてきて。
そうですね、はい。
-でも、その次の年に藤田先生が亡くなられて、この時は青天の霹靂と言いますか‥‥。
湘子は最後胃癌で亡くなったんですけれど、でも「鷹」のほとんどは湘子が胃癌だってことを最後まで知らなかったんですね。胃潰瘍ということになってたのかな。胃に腫瘍が出来たんでそれを取ったんだとずっと言っていて、誰もそれを疑わなかったんですね。とにかく元気な方だったんで、まさかそんな‥‥。
-髙柳さんもご存知なかった?
知らなかったです。
-それは髙柳さんはじめ「鷹」の皆さん、驚かれたでしょうね‥‥。それで髙柳さんの編集長就任というのは、ある程度藤田先生のお考えもあったのでしょうか。
いや、湘子が小川(軽舟)を主宰に指名して、で小川が考えて、編集長を私にしてくれたんだと思います。
-編集長になられた当初、いろいろと諸作業、スムーズに流れていきましたか。
うん、まあ大変なこともありましたけど、今振り返るとスムーズだったんじゃないかなと思います。
-聞くところによりますと、主宰・編集長が変わられても、「鷹」を出ていく方があまりいらっしゃらなかったという。
そうですね。会員の数はそんなに大きくは減らなかったです。
-やはりお二方への信頼感と言いますか‥‥。
や、でも小川が新主宰になって、私が編集長になったあと、岸本尚毅さんが「『鷹』は今、幼帝・幼家老だ」というふうにおっしゃって(笑)。「平家物語」の安徳天皇みたいなものをたぶん連想されたのかなと思うんですが。そういうふうに何かこう上が頼りないと、皆が「こりゃいかん」ということで頑張って支えてくれるということでやっているようなもんだな、と私も実感したんですけど。


★評論集、第一句集『未踏』刊行 
-そして2007年に評論集『凛然たる青春』を刊行。これは「俳句研究」に連載されていた文章を纏めたもので。
そうなんです、はい。
-『凛然たる青春』で俳人協会の評論新人賞を受賞。続けて芭蕉研究の成果である『芭蕉の一句』をお出しになり、今、角川「俳句」でもずっと評論を連載されてますよね。あの連載もいずれ一冊の本になる方向で?
そうですね。一応考えてます。で、来年春ぐらいからかな、「俳句研究」で連載を始める予定です。『凛然たる青春』は俳人の若い頃を取り上げたんですけど、次は俳人の晩年、老境という部分にスポットを当てて評論していくというのを考えております。
-おお真逆ですね(笑)。期待しております。で昨年、第一句集『未踏』が刊行されました。初めての句集をお出しになる時の心境としましてはいかがでしたか。ご自身の中で「波が来た!」みたいな。
いやもう三十歳になる前に何か出そうかなと思いまして、二十代に作ったものを纏めておくのもいいだろうと。
-二十代の俳人として、とても濃密な流れがあったわけですが、やっぱり第一句集とか出されると、あらためてまた違った感じになりますかね。
そうですね‥‥。
-サッパリするとか。
あ、サッパリはしますね。
-その句集『未踏』で今年、第一回田中裕明賞を受賞されました。
田中裕明という作家はすごく好きな作家でしたので、この名前を冠した賞をいただけたというのは大変有難いことだなと思います。
-どうもありがとうございました。
 それではここらへんでぜひ会場の皆様にもトークにご参加願いたいのですが‥‥。


(次号に続く)


金子兜太HP 秩父俳句道場2010/11
http://kanekotohta.jp/201011titibu.html
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