2011年1月18日火曜日

プロブレマティックな一冊 ~『超新撰21』をめぐって ・・・小野裕三

プロブレマティックな一冊
~『超新撰21』をめぐって
・・・小野裕三



『新撰21』は、若手が対象とは言いつつも「手堅い人選」という印象があったのだけれど、今回の『超新撰21』の人選はやや冒険的とも言えるだろうか。冒険的とは、例えば川柳作家を入れていたり、あるいは公募枠を設置したり、とそんなところに端的に現れている。それは野心的な試みとも言えるし、賛否両論あるとは思うが、意図自体には大きく共感する。
ただし、俳句の未来のために、(とりあえず僕自身のことは置いておくとしても)その将来を担うべき人材に光を当てるという意図なのであれば、もっと紹介したい俳人はいたのではないか、という悔いは残る。僕の同世代でそういった名前であればいくらでも挙げることができるし、実際、上田信治氏の作った「百五十句」のリストにはそういった名前がいくらも入っているので、きっと候補には挙がったのに違いない。勿論、限られた21人(もしくは42人)という制限の中、断腸の思いで人選を進めたのだろうし、やむをえない部分もあったはずだ。しかしそれにしても、明らかに俳句史の未来に名前を刻むはずの名前が欠けているのは少し淋しくもある。ぜひそういう人たちを再度まとめた続編を!と思ったりしたのだけれど、残念ながら版元のほうでは続編の予定はないようだ。
そんな意味で、今回の本で特に賛否が分かれそうに思うのは川柳作家の清水かおり氏と、俳人と言うにはあまりにも俳人的でない「俳歴三ヶ月」の新人・種田スガル氏だろう。それでも僕が見る限り、清水氏の作品は結構面白くて、なまじっかな俳人の作品よりは面白いと感じるところがある。そう考えれば今回の冒険的編集意図はひとつの目に見える形となったと評価したい。
一方で種田氏の作品だが、これは率直に言えば俳句というより、百行からなる現代詩、と捉えたほうがぴったり来る。もとより、そこに連ねられた言葉の優れたセンスを疑うつもりはないし、「俳歴三ヶ月」という経歴をネガティブに捉えるつもりもない。だがそれでも、彼女の作品は俳句よりも現代詩と捉えたほうがよく読める。そのことを現代詩的な俳句、と評価することもできるのかも知れないが、逆に言えば「では、なぜそれは俳句でなくてはならないのか?」という根本的な疑問も湧いてくる。それは現代詩そのものであって充分ではないか、という気もする。
この点は、実は高山れおな氏が書いている「二十一世紀女子自由律」の問題とも密接に連動している。氏が、佐藤文香氏なども含めて、近年のひとつの流れとしてこれを総括して的確に整理したのは慧眼と言っていい。ただし問題は、それが本当に俳句に向いているのかどうか、ということだ。以前に『傘』の評で、佐藤文香氏の短歌が異常に面白い、ということを僕は書いた。もとより「自由律」であるならそもそも俳句や短歌という枠組みに囚われる必要はないとも言えるが、それでも漠然とした字数のイメージなどが短歌と俳句を分ける。率直に言ってしまえば、「二十一世紀女子自由律」は、俳句ではなく、短歌や現代詩に(まさに種田スガル氏がそうであるように)こそ向いているし、さらに言えばJ-POPなどの方が向いている。向いてないからそれを俳句はやってはいけないということではないが、残念ながらその純粋な成果としては向いている方にやはり分がある。佐藤文香氏の短歌が面白いように、「二十世紀女子自由律」的なものを受け止めるには、俳句よりも短歌・現代詩の方が成果が出やすい。
越境、とは魅力的な誘惑だ。自由律へ、そしてさらには川柳や現代詩へ、そういった方向に俳句が越境の衝動を抱えることを決して否定はしない。実際、僕自身もそのような句を作ってきていることもあるし、俳句自体もそのような葛藤的衝動を抱えながら発達してきた部分もある。しかし、そのような越境は、「では、そこまでしてなぜ俳句であり続けなくてはならないのか」という疑問を必ず突きつける。繰り返すが、『超新撰21』の編纂は冒険的であり野心的だった。そのことの評価は、これからの俳壇に委ねられるべきだろう。だが、その野心とは、「それでは、なぜ俳句は俳句でなくてはならないのか」という問いも同時に突きつけたのだと思う。
その観点から興味深い事実として、蛇足かも知れないけれどもあえて触れておくが、今回の種田スガル氏の作品の一部にJ-POPの歌詞と酷似したものがあったとの告知が版元から発表された。発表された以上の事の詳細は知らないので軽率な論評は差し控えるが、この顛末については基本的にこう考えるべきだと思っている。つまり、その顛末の主語は種田氏を始め関与した個々人ではなく、ただ「俳句」なのだ。貪欲にJ-POPという外部へ言葉を求めたことの主語は「俳句」であり、俳歴三ヶ月の新人という外部に才能の光を求めたことの主語は「俳句」である。「俳句」が内に孕む衝動のようなものが、動いた結果でしかないのだ。この顛末を見ていると、何か「性急さ」のようなものを感じる。「なぜもっと俳句の中で練り上げられた言葉や俳句の中で練り上げられた才能をこの本で取り上げようとしなかったのだろう」と、これは単純な疑問として湧いてくる。しかし繰り返すが、それをしなかった「性急さ」の主語は「俳句」である。
あるいはこんな風にも考えてみよう。我々が越境と言い、もしくは交流と言う時、概ねそこには現代詩・短歌・川柳はあってもJ-POPはない。しかし、大衆性・愛唱性・韻律性といった観点から見れば俳句よりJ-POPに分があるのは自明のことのようにも思える(勿論、それ以外にも評価軸はあるので、一概に総合点で俳句が劣っているということではない)。あるいは、最近俳人たちの間で流行っているという「ユニット」も、それは元々はJ-POP系の言葉であると言える。そう思えば、俳句はJ-POPの植民地化しつつある、ということだって、ありえないことではない。いやもっと言えば、俳句はJ-POPの植民地としてこそ二十一世紀を生き延びて行く、という未来図だってありえない夢想と否定することはできない。
やや極論めいたこともあえて書いてみたが、僕が言いたいのは今回のこの本はそういったさまざまなことを含めて、正しい意味で「プロブレマティックな一冊」になっている、ということだ。根底にあるのは正しい意味で冒険的で野心的な意図であり、結果として起きたことは編者の意図したのとは違った部分もあったのだろうが、そのことも含めて的確に「俳句」の抱える諸々の問題、もしくは諸々のフロンティアを浮き彫りにした。
とにかく、よくも悪くも我々の時代の「俳句」のスタート地点はここである。そのことを網羅的な見取り図にしてみせた、「プロブレマティックな一冊」だと思う。

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