2011年1月18日火曜日

超新撰21竟宴シンポジウム「定型 親和と破壊」 ダイジェスト ・・・宮崎斗士

超新撰21竟宴シンポジウム「定型 親和と破壊」 ダイジェスト
・・・宮崎斗士



2010年12月23日(木・祝)、千代田区・アルカディア市ヶ谷にて、超新撰21竟宴シンポジウム「定型 親和と破壊」が開催された。
第一部は「『新撰21』『超新撰21』に見る俳句定型への信・不信」と題し、パネリストに高野ムツオ氏、小川軽舟氏、鴇田智哉氏、対馬康子氏。そして進行役として筑紫磐井氏。
第一部冒頭、まず筑紫磐井氏が俳壇における戦後新人の歴史をレクチャーした。「私は、俳句の歴史は新人の歴史であったと思う。戦後六五年の新人の歴史をたどれば俳句の未来も見えてくる気がする」(筑紫磐井/「俳句四季」2011年1月号より)。
そのコンテンツは、
(1)「戦後新人五〇人集」(「俳句」昭和31年4月号・特集「戦後新人五〇人集」より)
飯田龍太・能村登四郎・金子兜太・波多野爽波・藤田湘子・高柳重信etc.
(2)「第四世代」新人((「俳句」昭和37年1月号・特集「第四世代」より)
上田五千石・阿部完市・有馬朗人・鷹羽狩行・原裕・大串章etc.
(3)牧羊社「処女句集シリーズ」「精鋭句集シリーズ」新人 
長谷川櫂・小澤實・岸本尚毅・片山由美子・高野ムツオ・対馬康子etc.
(4)『新撰21』『超新撰21』新人
というラインナップであった。
「私が言いたいのは、時代は常に新人を待望している、そして、新人が次代の大作家となるべく精進しているということなのだ。この鎖が断ち切れたら、俳句の伝統、俳句の進歩は行われなくなる」と筑紫氏。
続いてパネリスト諸氏が、「超新撰21」の感想、また「新撰21」「超新撰21」の意義についてスピーチした。

高野:今度のアンソロジー「新撰21」「超新撰21」、新しい時代の一つのエポックを我々は体験できるかなと思っております。ただ、ここに載ったからといって、いい作家であるということではない。当然個々の作家でいえば、こんな作品は駄目だという作家もいれば、これは凄いという作家もいる。そういう意味では、これは「俎板に乗った」というだけだと思うんですね。そこを参加者は勘違いしてはいけない。アンソロジーに載ったからといって「私はある程度作家として認められた」というふうには私は勘違いしない方がいいと思います。そしてこのシリーズに入らなくても、もっと優れた作家はたくさんいるかもしれない。実際いるんだと思います。入れなくて悔しがってハングリー精神を燃やした人の方で、もしかしたら凄い作家が出てくるということを実は私は期待している。そういう意味でもこのアンソロジーはよかったなというふうに思っています。

鴇田:「新撰21」は本が出来た時、僕は非常に面白いなと思ったんですよ。僕はもともと人の俳句あんまり読まなかったんですけど、「新撰21」は自分が読者となって読むようになって、あっ面白いな面白いなと。で、「超新撰21」はけっこう違うなと思ったんですよ「新撰21」と。「新撰21」というのは割に僕の中で、まあ想定内と言ったらアレですけど、「俳句」という今までのイメージの中にあった句集だと思うんですね、自分も含めて。で「超新撰21」を読んでみたら、もっと幅が振れているというか、まだ僕も読み切れてなくて‥‥俳句ってこんなにいろいろあるんだと。その作者がどんな人だなんてことを考え出すと結局疲れちゃって。まあそういう意味では「超新撰」の方が問題がある本じゃないか、と。
僕の中で「俳句って何だろう」と考えた時に、それは「五七五」であろうと思ってまして、例えば今回、種田(スガル)さんの作品、短い自由律ってけっこう読むことあったんですけど、長い自由律って最近ちょっと珍しいのかなと思って読んでいたんですが、文体としてはその書きなぐっている感じがあって、それをもちろん作品として提出してるんですけど、推敲というものがあるわけで、それをどこで止めるかという時に、その止まりようがない。そのどこで止めるかという部分、自由律はそこに命をかけていると思うんですけど、結局その五七五でやってると五七五で止められるんですよね。だから僕はそこの五七五に寄りかかるしかないかなと今思ってて、だから自由律には行けないんですよね。まあそういう繋がりで考えてます。

小川:私も確かに「新撰21」に比べて「超新撰21」はある種の読みにくさがあったと思います。たぶんその最大の原因は「新撰21」が大変当たったもんですから、おそらく出版元にも編集の皆さんにも肩に力が入って、気負いが生じたのではないかと、いうふうに思います。「新撰21」はやや前衛系に人選が偏っているのは致し方ないとしても、だいたい今の若手の俳句を展望できる、非常にバランスのとれたアンソロジーでした。それぞれの21人の作者と21人の小論の執筆者そのものが前に出てきている感じがしたんですけれど、「超新撰21」の方はかなり編集者の意図がギラギラしているなという感じがしました。今回のシンポジウムのタイトルに「定型親和と破壊」と書いてありますけど、まさにそういうテーマ性を狙ってるなと強く感じられましたね。

対馬:この企画(「新撰21」「超新撰21」)も今は「まだまだ」という声もあるでしょうし、いろんなご意見、刺激を受けたという意見も私のほうにも届いてますけど、30年経てば「この時代があった」と必ず言われるんではないかなという思いを強くしています。
小川さんは「編集者のギラギラした意図」を感じるとおっしゃいましたが(笑)、当初は決してそんなことはなくて、まず四十代以下のアンソロジーを作ろうとした時に、有名な俳人の方たちがいる、岸本(尚毅)さんにしろ仙田(洋子)さんにしろ、まあ小川(軽舟)さんもそうだったんですけど、そういう方たちを抜きにしてアンソロジーを作る時にどうやって作るのかというのがまず一番に議論したところだったんです。
で、公募で最後、何かジェットコースターの上から下までおりてしまったような選になってしまったので、この「定型 親和と破壊」というのは当初からあった目的ではなく、結果この本の目指したところが「実はそうだったのか、私たちは、これだったのか」というところで私もあとで変に納得しました。
それから鴇田さんのお話を伺っていて、この「新撰21」「超新撰21」、決して私たちが世に出したとか世に問うということではなくて、何かもう一つ大きな意味があったなと思ったんです。それは横との繋がり、若い人たちのかたまりとしての横との連携とか、その作品を読んだり批評したり、その活発な土壌を作る意味が今回すごくあったのかなと思いました。

第一部のラスト、高野氏が総まとめ的にコメントした。

高野:新人の発掘というのはだいたい結社単位でした。結社で育って、結社の主宰が認めて、そして総合誌にデビューする。句集を出す。そんな流れが主流になっていて、その中でこの「新撰21」「超新撰21」というアンソロジーが出たということが、おそらく皆さんにとっては新鮮で刺激になったんじゃないかと思います。つまり結社の主宰者の評価とはまた別の観点から評価された人たちの集まり。そういうふうな捉え方をしていくと、この両シリーズの魅力というのがまた違ってくるんだろうと思います。
まあ(「新撰21」と「超新撰21」の)どちらが読みやすいかという話もあったんですけどね‥‥私はどっちも読みにくかったです(会場笑)。それでも比べてみるとやっぱり「超新撰21」の方が読みにくいかな。これはたぶん種田スガルが最初にあるせいじゃないかなと(笑)。でも「超新撰21」一通り読んでいって、あ、これは今までになかった見方をはっきり展開しているとまでは思いませんけど、そういう萌芽があるだろうと思われる箇所がたくさん散見される。まあ面白かったというふうには思っています。
で、さきほどから磐井さんなんかがずいぶん控え目に言ってるんですけどね。私はもっと威張って言った方がいいと思う。「私たちが二十代三十代の俳人を動かして、これから新しい俳壇を作ってゆく!」(会場笑)。かつての高柳重信なんかがそうですよね。一度二十代の時、代々木上原の高柳さんのお宅に遊びに行ったことがあって、何で行ったかというと「富沢赤黄男全集」が欲しかったから。で行って「ないですか」と聞いたら「もう品切れで、ない」と言うんですね。「いつ出るんですか」と聞いたら「そんなに欲しいのか」と。「はい」。「だったら自分で出せばいいじゃないか」(会場笑)。ああそうなんだ、自分で出版すればいいんだ。俳壇で評価されなかったら自分が俳壇を作ればいい!(会場笑)。何このアンソロジーに入れなかったって、そんなに僻み根性で小さくなって丸まっていることない。だったら私がアンソロジーを作って、これよりも素晴らしい作家を集めてやる。やっぱりそういうふうな視点が大事だと思うんですね。そういうエネルギーがおそらく昭和三十年代の高柳重信とか金子兜太とかの頭の中にあったのだろうと思います。
そういう意味ではこれからの三十代四十代、そして五十代の人たちがそれぞれの立場で俳壇というものを作り上げてゆく。それくらいの気持ちでやっていくと、俳句というものはもっと活性化し、さまざまな多様な世界が広がってくる。俳句は私は、自由、多様、これでいいんだと思います。
こんな間もなく消え去ろうとしている俳句形式ですが(笑)、もしかするともう一回凄い大きな炎を燃やすかもしれない。その一つのきっかけになるかなあと思って、この「超新撰21」を楽しませてもらいました。


続いての第二部、「君は定型にプロポーズされたか」というタイトルで、パネリストは清水かおり氏、柴田千晶氏、上田信治氏、ドゥ-グル・J・リンズィー氏、高山れおな氏。司会進行は関悦史氏が担当した。

関:パネリスト個々人、自己紹介的にお話を伺いたいと思うんですが、どういうふうに俳句を始めてこられたかということ、またどういう方向を目指し作品を作っていくかという部分、ぜひよろしくお願いいたします。

印象に残った発言を。

上田:(高野)素十もね、「何にも言ってなーい!」って全部どけちゃったあとに、うっすら感情が出るみたいなのがあって、その薄さが最近気に入っているところなんですけど。

リンズィー:海洋生物の研究をやるに当たって、本当に事実しか言っちゃいけないんですよね。論文を書く時に、この生物は絶対100%こうである、というようなことしか言っちゃいけない。それじゃ物足りなくて、俳句だと「事実」じゃなくて「真実」が詠めるわけだから、100%はこうだ!とは言い切れないけど、何か自分の心の中では絶対にこうである、こういうことに違いない!というようなものも言えてしまう。

清水:川柳も、俳句もそうだと思うんですけど、読み捨てられる作品がすごい多かったと思うんですよ。それを考えると、私の作品が俳句であろうが川柳であろうが、しっかり読んでもらえるってことが一番かなと。

柴田:たぶん私、創作の根源にあるのが、「この時代に自分はなぜ創作の道を選んだのか」というようなところを常に問い掛けて書いているという、その答えを見つけたいという気持ちがあったんですね。だからこの現代の空気とか、それを避けては何も書けないというふうに私自身は思っています。

高山:私はもう本当に芭蕉と蕪村をお手本にして俳句を作り始めて、今日に至っています。(中略)一応「豈」に入ってますけど、あれは団塊の世代のおじさんたちの雑誌で、私はそこにいてコツコツ作品を作っているけど、まあお友達ってわけにはなかなかいかないですね(会場笑)。で、「豈」の評論とかでは「発句的だ」ってのは悪口なわけですよ。私は何しろ芭蕉と蕪村ですから、自分の作っているのは発句だと思っているので「なにくそこのオヤジ」というふうにずっと思ってきましたね。

関:私も一応「豈」に所属させていただいてるんですが、「発句的」というのが悪口だとは全然知らなかったですね(会場爆笑)。

第二部の関悦史氏の司会進行、終盤まとまりがつかなくなったりして、賛否両論あったみたいだが、別に学校の講義じゃないし、もともと僕は俳句の場における(いい意味での)カオスに触れたかったので、とても興味深かった。面白かった。関氏の「もろもろ細かく分析しながらの」あの早口トークは凄い。

あと、当日配布されたパンフレット掲載の【近未来予測・2020年の俳句界】も納得したり、考えさせられたり、爆笑させられたりでとても楽しめた。例えば、

小川軽舟:団塊の世代が円熟して俄然おもしろくなっている予感があります。昭和三十年世代は少し飽きられながらもそれぞれの次の道を切り拓くでしょう。新撰21、超新撰21の作者たちのうち十年後に第一線で活躍しているのは十人と予測します。
そのかわり、そこにいない逸材が五人は出てくるでしょう。

鴇田智哉:カリスマ自由律俳人が登場。それをきっかけに、自由律お笑い芸人や、自由律占い師、自由律料理人などが登場。イケメン自由律作家、自由律アイドルユニットも次々にデビュー。ヒットを飛ばし、空前の一大「自由律」ブームが巻き起こる。
(中略)定型俳句の人口は減り、細々と句会などをやっている。私もそこにいる。しかし、現代詩の人たちが、定型への興味を急速に高め、その人たちの斬新な五七五に定型俳句界は乗っ取られてしまう。私も押し潰され、瓦解。

筑紫磐井:会長同士(金子兜太、稲畑汀子)仲のよかった現代俳句協会と日本伝統俳句協会が2012年、抜き打ちで統合、有季・無季・花鳥諷詠までを広く含んだ現代~伝統俳句協会が発足し、会員数も俳人協会会員数を凌ぐに至る。

高山れおな:金子兜太百歳の賀が俳壇をあげて盛大に祝われる。政府もその盛り上がりを無視できず、高濱虚子以来、六十六年ぶりに俳人に文化勲章が授与される。ちなみに、首相はヤワラちゃんである。
古稀を迎えた筑紫磐井は、三千頁に及ぶ『超定型詩学の原理』を刊行。新時代の定型として「超定型」を主張するが、それがどのようなものであるか、ここに記すわけにはいかない。

関悦史:流派や結社・師系単位で歴史をたどることはあまり意味をなさなくなり、ユニットが組まれても作風や思想による結束ではなく、個人の時代という性格が強くなる。一方、俳句表現における、魂とか霊性と呼ばれる宗教的次元への関心が高まり、それらを従来の研究方法とは別のやり方で組織する必要から「俳句人類学」という研究領域ができる。

そしてこれも当日のパンフ掲載の、上田信治氏の『「新撰」「超新撰」世代 ほぼ150人150句』。
(「週刊俳句」第192号所収)

上田:ひとつアイデアを思いついたのは、皆さんが何となく思ってる俳句のベクトルというものを外してしまおうということ。ベクトルをぱっと消しちゃうと、個々の作家の指向というかトライアルが見えてくる、という感触があったんです。
あとは、その人の一番いいと思った句を、作者別に並べていくと、コロニーというか傾向が見えてくる。で、見えてくると同じ傾向の句がどんどん集まってくる感じです。

明晰な分析センスと大変な労力、根気が要求される作業だったことだろう。感服の一言です。


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