「季語再考」
・・・豊里友行
前回のお話にも関係してくる名古屋で開催されたCBD・COP10(第10回生物多様性条約締約国会議)で俳句イベント「HAIKUで伝える生物多様性」(同実行委員会)があり、地球環境が育んできた季語を含んだ俳句が詠まれている。
まず私の季語についての姿勢を述べておこう。
五七五という俳句の韻律の中でそれぞれの季節の豊かな詩語である「季語」を絶対化しない。
季語を育む生活環境が変容している今、詩語の一つとして季語も俳句の世界に活かす。
無季(季語のない俳句)も詩的広がりのある俳句であれば認める。
つまり私は、詩的広がりを重視しながら季語も言葉の海へ泳がせる。
そういう姿勢でそれぞれの個性を活かした俳句文学の確立を目指す。
日本の多様な自然は、作者の創作現場を踏まえ、詠む必要性があるという立場を今の私は採りたい。
例えば、沖縄の桜は1月下旬から2月上旬ぐらいまで咲いているし、東北なども中央の桜の季節と大分異なる。
私は歳時記だって北は北海道、東北などや南は琉球列島(沖縄)といった具合に歳時記の多様化を促すべきだと思っている。
この場合私は、地域を限定させて詠むということがこれまでの詩語への昇華の障害になってきたことも踏まえて季語を地域の独自性にスポットをあてて俳句を味わってみたいのだ。
その俳句の背景まで読み解いていく読解がなされた方が良い場合もあるのではと問題提起しておきたい。
ここで俳句という言葉を具体的に読み解くか言葉の海に泳がせるかで俳句の詠みの世界は大きく違ってくる。
私の俳句を例にすると「ふりむけば源氏とロミオ葉桜か 友行」の場合は地域を特定しないほうがいい。
なにも作者の住む沖縄の濃いピンクの寒緋桜である必要はない。
俳句の鑑賞者それぞれの桜を楽しんでもらいたい。
俳句の詠み方は具象的か抽象的かでどちらの読み方も楽しめる。
読み手の創作としてはできるだけ多様な読み方があった方がいい。
だが読み解くキーワードを俳句以外からも見てしまうのは間違いだろうか。
この場合季語もまた地域の独自性で編まれる時代において私は前者の限定した詠み方もありだと思うのだ。
俳誌「海程」の俳句鑑賞でもどうしても作者の住む地域を無視できないという意見を聞いたことがある。
(例=「逃げ水がテロも戦も孕んでいる」沖縄 豊里友行)
私は沖縄写真俳句歳時記を編集中だからどうしても詠み手の地域も踏まえて鑑賞することを押している。
そう季語を活かしながらも地域の独自性を多様に読み手に享受してもらうには先に述べた詩語への昇華の弊害にならない程度に読み手の独断が必要になるのだ。
(季語を絶対化すると詩的昇華の妨げになることもあることはここでは問題にしないでおく。)
だが地域の独自性を最短詩型文学においてどう盛り込むかも私にとって大きな課題のひとつになっている。
結論は季語と無季を豊かな詩語にするということ。
季語べったりでも俳句は死ぬし、季語を毛嫌いしても俳句はやせ細ると私は思う。
「諸行無常の季語いかがビニールハウス 友行」と詠むように、利潤を追求するあまりビニールハウスなどによるトマトの栽培や電照菊のように大量生産される植物も誕生する。
そのことによって日本の多様な四季の移ろいも薄れている。
勿論ただそれを揶揄することに止まらない俳人としての姿勢がほしい。
「寝転んだ季語も馬糞も銀河の野 友行」と私は詠むように、地球に育まれている季語をジンブン(生きる知恵)の限り創意工夫して活かしていく姿勢がほしい。
今回のCBD・COP10で高らかに日本の豊かな自然が育んできた季語を讃えた俳句だけが詠まれていた。
それら俳人たちの態度とは裏腹にCBD・COP10の内容は環境破壊をどのように食い止めるかという深刻な問題が議題に上る。
季語という歳時記の博物館では次々と死語が発生している今、俳人たちの姿勢が見えてこないままではいけない。
つまり俳人が地球を救う!
そのくらいの心構えが豊かな季節感のある季語を愛する俳人たちに必要だ。
俳人は環境問題にも感受性豊かな存在であるべきだと思う。
もう今の先進国のような消費社会のありようではあと百年も地球の自然は持たないと言われている。
今回のCBD・COP10の俳句イベントを決起に俳人たちの地球環境への配慮ある行動がとられることを望む。
それには季語の呪縛に囚わていると現実とのズレや矛盾の壁にぶつかる。(注1)
現代に生きる私たちは、豊かな季語の多様化と地球環境への配慮ある俳人として創作活動に取組みたい。
特に世界のHAIKUとして俳句が普及している以上、地球規模の環境を視野にいれていかなくてはならない。
雨季と乾期しかない地域だって世界にはある。
日本の春夏秋冬を中心にするにしろ、もう世界のHAIKUとして世界中で親しまれるようになってきているのだから季語に固執して地球環境にまで視野が行き届かないようでは困るだろう。
私たち一人一人の俳人としての姿勢が問われている。
地球独楽春夏秋冬痩せ細る 友行
沖縄の桜は濃いピンク色をした寒緋桜(カンヒザクラ)。本土で咲く桃の花の色に似ている。沖縄の多くの家々の門にはヒンプンという魔よけの壁がある。日本列島の多様な自然の例として各地域の桜の開花時期の違いなどでもよくわかる。 |
(注1)=①季語が俳句の内容を束縛してはいけない。季節の言葉を織り込むことを条件とした有季俳句は俳句文学の自由を阻害してしまう。
②時間は流動の中で選び取るべき。そのためには季語は一年の時間の流れを春夏秋冬の四つに区分してしまっている。季節の多様な世界を俳句では詠めないことになる。
③現代社会の多様性は今日の社会生活について季語だけでは現代を詠えなくなっている。
④季語が強調している自然のサイクルは、太陰暦(旧暦)でこそ活かされている。現代人の生活サイクルである太陽暦(新暦)とのズレがある。
⑤季語は大和(奈良・京都)または江戸(東京)を中心に決定されていてる「歳時記」から成り中央集権的な立場をとる。それにしたがって鑑賞していくと日本の多様な自然に矛盾が生じる。
⑥季語決定はその時々の歳時記の編集者の世界感による。だがそれが絶対的なものと誰がきめれるか。俳句文学は自由な精神世界で成立していなくてはいけないのではないだろうか。それに俳句に季語を入れないといけないという約束があるというのだが、誰と誰が約束して何故現代に生きる私たちがそれに縛られなければならないのか。
季語も言葉の一つであり、俳句においてもそれを活かすも殺すも詠み手次第だと私は決意する。
季語べったりの伝統俳句とは違いますね。
返信削除凄まじいほどの季語を詩語へ高める決意を感じる論だと思います。
はじめまして。
返信削除注釈の1から6までのお言葉には説得力がありますね。
『バーコードの森』を図書館で閲覧したのですが、季語と無季、多行詩形と文学としう表現の地平を開拓されているといった印象をお受けしました。
有季定型も無季もどちらも認めてくれる俳人といえば金子兜太先生の海程会員ならではでしょうか。
ますますの御研鑽を祈願いたします。
小川軽舟氏の「俳句は今」で「季語をめぐる葛藤」(2010年6月19日琉球新報)と題して季語に触れています。
返信削除「現代詩手帳」の鼎談で高柳克弘氏が「さまざまな題材やテーマが出てきているこの時代に、無理に季語をテーマにしなきゃいけないんだという態度は、俳句を狭く貧しくしていく」と説く。
豊里友行さんのこの小論の季語への姿勢は季語を詩語への進化へ昇華させえる力をもっているようになる。
もっと豊里友行の季語への姿勢に抵抗や賛同の声が聞けるかと期待したが、大部分の無自覚な季語への姿勢のせいか静観に終わってしますのは残念!