2010年11月27日土曜日

「海程」meets髙柳克弘/「五番街のマリ-へ」編 ・・・宮崎斗士

「海程」meets髙柳克弘/「五番街のマリ-へ」編
・・・宮崎斗士


「海程」では年二回(4月・11月)、埼玉県秩父にて、俳句合宿「秩父俳句道場」を開催している。参加者は毎回五、六十人といったところ。道場では、吟行と数回の句会を行なっている。ここ数年、金子兜太主宰の意向で、「海程」同人・会員以外で広く俳壇で活躍されている方に、道場へのゲスト参加をお願いしている。今月、11月6~8日の道場では「鷹」編集長・髙柳克弘さんにお越しいただいた。そして二日目、11月7日の午後、髙柳さんを囲んでのイベントを開催した。イベントの司会は宮崎斗士が担当。以下はその抄録である。



午後2時、イベントは髙柳克弘さんの講演から始まった。
俳歴、「鷹」のこと、藤田主宰との思い出、藤田・金子両主宰の交わり、結社・師系というものに対する信念、「道場」への思いなど、興味深いお話を数多くご披露いただいた。


★「鳥突きあたる」-兜太と湘子
今、私は「鷹」という結社で編集長のほうを務めております。(藤田)湘子が亡くなったのが2005年。新主宰は小川軽舟ということで、湘子が最後、小川を病床に呼び、「あとは任せる」といったことで「鷹」を譲られ、でその小川に私が指名されて、「鷹」の編集長になったわけです。
まあ、私も俳句を始めて間もなかったものですから、あまりその結社を引き継ぐというか、新しい体制になるってことの重みがまだわかっていなくて。けっして気楽に引き受けたわけじゃないんですけれど(笑)、引き受けた時にはまだその重みが全然わかってなかったなと思うんです。やっぱり結社誌の編集というのも大変な仕事だなとだんだんわかってきた感じで。一番そのことを痛感したのは、その翌年の2006年が「鷹」が発刊されて500号になる年だったものですから、その500号記念号というのを作ったんですね。記念号なものですから、いつもより厚いページで、寄稿者も俳壇に広く募って書いていただこうということで、依頼から始めなきゃいけなかったんですけれど、全然今までおつき合いのなかった俳壇の大先生方に依頼をするという仕事はなかなかに緊張するというか大変で、その中のお一人が金子兜太先生だったんです。たぶんその時電話でお話ししたのが、金子兜太先生と初めて私が言葉を交した時で「今度、湘子が亡くなって初めての記念号なので、藤田湘子特集にします。ぜひお願いします」と言いましたら、「おうっ」ということで(笑)二つ返事で引き受けていただいて、これはよかったと思ったんです。それまでの金子兜太のイメージというのは、すごい「雄牛」のようなイメージと言うか(会場笑)、「鷹」の中でもいろいろ湘子の武勇伝が語られているんですけど、その武勇伝の中にやっぱり湘子と兜太が何かどこかの飲み屋で喧嘩した(笑)みたいな話もあったものですから、これはちょっと「鷹」の名前を出して依頼しても、もしかしたら怒られてしまうぞと思って電話したんですけど、快く了承の返事をいただいたものですから、すごくほっとした思い出があります。
その時にいただいた原稿を「鷹」2006年4月号の記念号に載せることができて、その号はさっきもお話したんですけど、湘子が亡くなって初めての記念号ということで、テーマは「藤田湘子という作家について」。で、いろいろ所縁の俳壇の方々に、湘子にまつわる思い入れというかエッセイをいただいたんですね。金子兜太先生には「鳥突きあたる」というタイトルの短いエッセイをいただいてまして、ちょっとかいつまんで、そのエッセイを読ませていただきたいと思います。「兜太から見た湘子」ということなんですけれど‥‥。

湘子との付き合いは長い。もっとも継続して長いわけではなく、途切れ途切れのつながりで長い。したがって、いつも仲がよいわけではなかった。この野郎とおもうことも多く、クセのあるおもしれえ野郎だ、とおもうことも多かった。並みの俳人との付き合いではなかったこと事実である。初めて顔を合わせたのは、私の第二句集『金子兜太句集』の出版記念会を灘万でやってもらったときだから、

いいですねえ、灘万(会場笑)。

四十年以上は経っている。初夏だったか、季節のよいときで座敷は開け放たれていた。会半ば、そこに長髪で割合小柄で、痩せ気味の気の強そうな感じの男がとび込んできたのである。すると、司会の人が、「『馬酔木』の編集長藤田湘子さんです。御挨拶をいただきます」と、待っていたように、順番を狂わせて、湘子を指名したものだった。

ご存知の方ももちろんいらっしゃるかと思うんですけど、この当時、湘子は石田波郷の後を継いで「馬酔木」の編集長をやっていました。

私は、むろん名前は知り、句も読んではいたが、実物を知らなかった。第一印象は、すいぶん図図しい奴だ、ということ。一目見下している、というか、大所帯「馬酔木」と、それが担ってきた近代俳句の拡がりに較べて、戦後俳句の波はまだまだ小さい、という気負いがありありと現れていたようにおもう。彼はいささか仰向き気味にズケズケと喋ると、そこで酒を忙しげに飲んで、さっさと帰ってしまった。だからお互いに挨拶を交わすことはなかった。

ということで、兜太と湘子という二人の作家の初めての出会いが語られているわけです。

そして、二度目はどこだったか朧ろだが、次に出てくる記憶は、高柳重信と湘子という組合わせである。二人と喋っていると俳壇というものを私は痛感して止まなかった。そして今でも二人は数少ない俳壇人だったとおもっている。その人の俳句を挙げて話が弾むということは稀で、話は直ぐその作者の人物におよび、俳句の、いや俳人の世界(俳壇といおうか)における関係、位置付け、役割、そして裏話に及ぶ。私にはそれがおもしろかった。この連中は「俳句の大人」だとおもった次第で、俳句作品の享受とともに、俳句をつくる人間臭い雰囲気の享受ということだとおもい、いまでも私自身俳壇話が大好きである。

私は弟子といっても結局三年弱ぐらいしか湘子のもとで指導を受けることはできなかったんですけど、その弟子の末端の目から見ると、ちょっとこの下りは意外なところがあって、というのは私が師事した湘子は最晩年の湘子だったものですから、あまり湘子の「俳壇人」としての活動というのを見たことがなかったんですね。やっぱり体がだんだん衰えてきたということもあって、パーティーなんかに出席することも前に比べたら少なくなってたんでしょうし、そこで仕入れてきた噂話なんかを結社の中で披露するということも、そんなに多くなかったように思います。昔のことはよく話してくれたんですね。波郷はどんな人だったとか、秋桜子はどんな人だったとか、そういう昔の俳壇話はいっぱいお酒を飲んだ席で教えてもらった覚えがありますけれど、やっぱり現役として、俳壇人として、今俳壇で起こっている話とか、そういうことを語ったことはなかったと思います。なので、ちょっとこの兜太先生の「俳壇人だった」という部分は私の知らない湘子像、まあそんなのはいっぱいあるんですけど、その一つかなと思います。
湘子が亡くなってもう六年になろうとしています。「どんな存在だったか」ということを考えることもあるんですけど、やっぱり湘子は「結社」というものをすごく意識した俳人で、「俳人は結社でしか育たないんだ」ということをよく言っていた人でした。だからこそ同時にその俳壇人として外部を意識した、と思うんですね。自分の師系というものを強く意識すればするほど、その外にいる人がどういう考えを持っていて、自分たちにどういう目を向けているのかということは、やはり逆に気になっていたんですね。だからそういうふうに俳壇人としての側面を持っていたんじゃないかなと思います。
あと、これは小川軽舟が書いている話なんですけど、大正八、九年生まれの黄金世代といいますか、兜太先生もそうですよね、破竹(八、九)の勢いの俳人だと言われて、飯田龍太、森澄雄、金子兜太などがその世代に当たるんですけれど、湘子はその世代から少し遅れて生まれてきてるんですね。だから湘子はその破竹の勢いの世代から少し遅れたという意識を持っていて、そこの世代に対抗心とかライバル心みたいなものをすごく強く持っていたらしいですね。だから自分という作家が彼らに対抗していくことはもちろん、「鷹」という結社から、その世代に負けないような存在を出さなくてはいけないということで、すごく熱心にやっていました。


★師・湘子、二つのエピソード
先ほど申し上げたとおり、私自身はあまり俳壇、「鷹」の外部を意識する湘子というものを見たことはなかったのですが、まあ数少ないエピソードなんですけど、私、今眼鏡をかけているんですが、時々何か外す癖があるんですね。ずっとかけてると、うるさくなってくるんで、ちょくちょく外して句会なんかでこういるんですけど、ある時湘子と句会をやっていたら、そのことを怒られた覚えがあります(笑)。要するにその、一度眼鏡がない顔を覚えてもらってから、それでまた眼鏡をかけると、お前の印象がブレるじゃないかと(会場笑)。何かすごく細かいようにも見えるんですけど、でもやっぱりその自分のところの作家を売り出すためには、そういう細かいところから配慮しなければいけないのかなと。
あともう一つ、湘子の俳壇に対する意識を、私自身が感じたところでいうと、私が俳句研究賞を受賞した時だったんですけれど、その授賞式の二次会で、湘子がお集まりの皆様に向け挨拶することになりまして、私も湘子は師だという意識がありますし、俳壇の面々に対しては、きっと無理にでもいいことを言ってくれるんじゃないかな、とちょっとどこか期待してたところがあったんですよね。
だけど出てきた湘子は開口一番「この髙柳という奴は本当にもう礼儀も知らない仕方のない奴で」みたいなことを言い出すんです(笑)。それでちょっと冷や汗をかいてしまって。その後も「全然まだまだ俳句もへたくそだし、もう皆さんのお力添えがなければやっていけない奴なので、どうか皆さんよろしくお願いします」ということで、さんざんこきおろしてから、そういうふうに付け加えてくれたんですけど。それでちょっとこう、その時は私もさすがに少しは褒めてもらえると期待してたものですから、がっかりしてたんですが、あとで先輩俳人の方に言われたのは「あなたはショックだっただろうけど、あの場はあれでよかったんだ」と。
その時、私は確か23、4歳ぐらいだったんですけど、その年でそういう賞をとったりすると、どうしてもその批判というのか「何だあの若僧」ということで俳壇の中から必ずそういう非難がくる。そういう時に下手に褒めたりすると「湘子が甘やかして育ててる」ということになって、私にとっても「鷹」にとっても、それは良くないことなんだ。むしろ師匠としてはあそこで徹底的に貶して、皆さんに「支えてください」とお願いした方がいいんだということを言われて、「ああ‥‥」とちょっとショックを受けました。それまでももちろん師弟というところの意識は持ってはいたんですけど、本当に師弟であることの意味っていうのか、そういうことを感じたのは、その時がたぶん初めてだったんじゃないかなと。
本当に乏しいエピソードではあるのですが、その眼鏡の話と授賞式二次会での話が、私の中の湘子にまつわるエピソードとして強く心に残っています。


★結社制度、師弟制度の現在
最近、私と同世代、それから私より若い世代の二十代三十代の作家がすごく表に出て活躍するようになりました。それは去年刊行された邑書林『新撰21』が一つの大きなきっかけになっています。若手にスポットライトが当たっています。そこで『新撰21』に対して言われることは、今、若手の中で結社に対する意識、それから師系に対する意識というのが崩れつつあるんじゃないかとよく言われるんですね。
というのは、今の二十代、特に私より下の世代の俳人というのは、「俳句甲子園」という高校生による俳句のイベントが松山で毎年開かれていて、その大会がきっかけで俳句を始めたという人たちが多いんですね。そうすると最初に誰か先生について俳句を学ぶんではなくて、ショーというかイベントから始めているものですから、あまり自分が師系に連なるとか、結社に入るみたいな意識っていうのは持たずに入ってきている。
私が俳句を始めた当時は、2002年ぐらいだったんですけれど、その頃は「俳句甲子園」もまだまだ序盤の頃で、『新撰21』みたいな企画もなかったものですから、俳句を始めるに当たって、結社以外の道があるってことを知らなかったんですね。だから俳句を本格的にやろうと思ったら、どこか先生について結社に入らなくてはいけないっていう、それが前提だったものですから、それで「鷹」を選んだんですけど。だからその当時は、結社に入るということと、それから師系に繋がるということが一致していたんですね。でもだんだんそういった意識が失効してきたというか、若手にとって絶対的なものではなくなってきた、ということなんじゃないかと思います。
「海程」の皆さんとしてはどうでしょうか。結社である「海程」に入るということと、金子兜太に師事するということ、これはほぼ同じことを意味していたと思うんですけれど、それがだんだんこう乖離しているというか、たとえばその結社に入っていたとしても、特に師系に連なっているという意識がないという方もいますよね。もしくは逆に、師を持つんだけど、その師が結社を持っていないために、結社に入らないというケースも最近出てきたんですね。これは若手の意識の問題だけではなくて、俳句の世界の構造が変化しているということなのかも知れませんけれど、たとえば昨年この道場にいらした池田澄子さんは、非常に存在感のある作家ですけど、結社は持たれていませんよね。でもやっぱりすごく存在感がある作家ですので、若手は池田さんに師事したいと思うわけですね。師事はするんだけど、個人的にそういう約束をするだけで結社には入らないという、そういう流れになっています。だから必ずしも、かつてのように「結社に入る」イコール「師系に連なる」ということではなくなっていて、まあそれが結社制度それから師弟制度の崩壊、崩れていく一つの原因になっているんじゃないかなというふうに思います。
それに対して、じゃ私自身がどう思ってるかというところなんですけど、結社制度、師弟制度を自分にとって必然と思わない、そういう考え方も一つあるかなというふうには思うんです。自分は、結社に入って俳句を学んで、湘子の師としての姿を見て、やっぱり師弟制度というものは俳句にとって大切だなというふうに実感していますが、でも俳句を始める道、俳句を始めてそれを高めていく道っていうのは、それだけではないだろうというふうにも思うんですね。ただやっぱり何と言うのか、今のそういう時代だからこそ、結社が逆に重要な意味を持ってくる時代なのかなとも思うんです。


★結社は「道場」であれ!
今回、この秩父道場に招いていただいた時に、「道場」という響きがすごくいいなと思ったんですね(笑)。やっぱり結社である以上は、結社は道場であってほしいなっていうふうに思うんです。そこの基本は変えたくないなというのがあるんですね。どうしてそういうふうに思うかというと、藤田湘子という作家、たとえば「入門書を書いた人」っていうようなイメージがもしかしておありじゃないかと思うんですね。湘子は入門書を書くことが抜群にうまい人だったと思います。『20週俳句入門』という本なんかは今でもよく売られているロングセラーになっていますし、その本をきっかけに俳句を始められたという話もよく聞くんですね。でもあくまで湘子というのは、入門書を入口として見てた人なんですね。で、その先にはやっぱり道場、結社という道場が待ち受けている、そういうことを考えていた人でした。確かに俳句を教えるのが上手だった人ですし、わかりやすく俳句の魅力を伝えるということにかけて卓越した才能を持った人だったんですけど、それだけではなくてやっぱり「鷹」という結社も「道場」であるべきだと、そういう人だったんだと思います。だから今回「海程」に招いていただいて、「秩父俳句道場」ということを言われた時に、すごく何か近しいものを感じたんですね。「道場」は合理的な指導ばかりするわけではなくて、雑巾がけとか、わかのわからない理不尽な労働もさせられるじゃないですか。それと同じように、結社の中で雑務をしたりすることも大切です。それが、先生による一方的な選や読みを受け入れる下地になっていくんだと思います。
私自身も決してその結社というところで「俳句を教わる」とか「俳句の知識を学ぶ」とかそういうことではなくて、やっぱり「理不尽な力によって鍛えられる道場」として「鷹」にずっと居続けているっていうところがあるんですね。だから若者がたとえ結社離れをしたからといって、その根幹のところを変えるのはきっと間違いなんだろうなと思います。
今、教育がサービス業になってきたということが問題になって、よく言われますよね。生徒が対価を払うことによって、その代償として先生が知識なり教養なりを与えるという、そういう市場原理の働いた学校になってしまっている。結社も、ともすればそういうところに陥りがちなのかも知れないと思うんです。要するに「道場」ではなくて「教室」になってしまっている。だから「俳句を教える」っていうことも‥‥私自身の実感としては、湘子から俳句を教わったという感じはないんですね。確かに添削とか、いろいろ俳句にまつわるテクニックみたいなものの教えはありましたけれども、それによってその結社というものに居るわけではなくて、何かもっと数値化、軽量化できない恩恵、たとえば俳句の優劣の見極め方や、俳句の読み方など、もっと微妙で繊細な配慮が要求されるものを身につける、そのためにというのが大きいと思います。だからその結社が「教室化」していくってことに対しては、そういう意味で非常に危ないことなのかな、と私は思っています。
これから結社というものをどうやって若者に伝えていくのか。頭ごなしに「俳句は結社でしか学べないんだから結社に入りなさい」と言っても、今の若手はたぶんますます殻を閉ざしていくだけだと思うんです。だからそういう意味で、やっぱり合理的な言葉で若者に結社の意義を伝えていかなくてはいけない、そういう責務があるのかなと思います。
何が結社の中で一番面白いかと言った時に、やっぱりいろいろな世代の間で対話ができるということだと思います。若手だけだと、やっぱり若手って集まっちゃうんですよね。で、その中では通じる批評の言葉とか俳句っていうものも確かにあるんですけど、それが外に一歩出た時にその価値観がまるで通じないっていう経験、これはすごく大事なことじゃないかなと。そのことで、自分自身の俳句観が鍛えられていきますから。で、結社の中には若手もいれば、かなりご高齢の方もいらっしゃるわけで、その両方が一つの話題について語り合う経験というのは、やっぱり日常ではできないと思うんですね。まあ俳句という共通の話題があるからこそだと思うんですけれど、老若男女、誰しも抵抗なくダイアローグできる場所としての結社、「道場」としての結社の立場というのをこれからも大事にしていきたいと思います。そういう意味で今回「秩父俳句道場」、この会に招いていただいたことはその実現を見るようですごく嬉しいことでした。本当にありがとうございました(会場拍手)。



講演に続いて、宮崎が髙柳さんへの公開インタビューを試みた。
プロフィールに沿った形のインタビュー、髙柳さんはこちらの突っ込んだ質問、不躾な質問にもひとつひとつ丁寧に答えて下さった。インタビュアーとしては汗顔のいたりであったが、貴重なお話をたくさん聞くことができた。


髙柳克弘さんプロフィール

1980年(昭55)静岡県浜松市生まれ。
2002年(平14)俳句結社「鷹」に入会し、藤田湘子に師事。
2003年(平15)早稲田大学大学院入学、
堀切実ゼミにて芭蕉俳諧の研究を始める。
2004年(平16)第19回俳句研究賞受賞(最年少での受賞)。
2005年(平17)藤田湘子逝去。新主宰小川軽舟の下「鷹」編集長就任。
2007年(平19)『凛然たる青春 若き俳人たちの肖像』(富士見書房)を刊行。
2008年(平20)『凛然たる青春』(富士見書房)により、
第22回俳人協会評論新人賞受賞。
『芭蕉の一句』(ふらんす堂)を刊行。
2009年(平21)第一句集『未踏』(ふらんす堂)を刊行。
アンソロジー『新撰21』(邑書林)に参加。
2010年(平22)第一句集『未踏』(ふらんす堂)にて第1回田中裕明賞受賞。


★「ゆきうさぎ」とトロンボーン
-子供の頃は、けっこう文学少年的な感じだったのでしょうか。
いやでもそんなに‥‥あ、でも本は好きだったんですけど、そんなにこう昔から作家を目指していたとかそういうわけではなかったです。
-当時、何か強烈な文学的体験とかはありましたか。
中学一年のとき、近所のスーパーで童話を応募するというイベントをやったんですよね。それで学校の先生がそれに目をつけて、夏休みの宿題で書かせたんですね。で、私もしょうがないので書いて、それで出したら、それが一番になって本になったことがあったんです。
-え、本に!(会場内ざわめく) 凄いじゃないですか! どんなストーリーですか。
「ゆきうさぎ」というタイトルで、人里離れたところに鬼の親子が住んでいて、鬼は人間の里から物を盗んできて生計立ててるんですけど、ある時、その鬼のお父さんが鬼の子供のために、人間の里からコマを盗んでくるんですね。その子供のほうは渡されたコマを見て、「誰か人間の子供が持っていたコマなんだろう。それを盗んで持ってくるっていうことはやっぱりいけないんじゃないか」と疑問に思って、それでお父さんには内緒で人間の里までそのコマを返しに行く、という話ですね。
-おおー。(会場内が沸く)
-(会場内の一人がぼそっと)何だか涙が出そう‥‥。
-本の出版で、けっこう目覚めたみたいな部分はありましたか、創作に対して。
あ、でもそれ以来書いたことはなかったので(笑)。
-小中学校時代のクラブ活動とかはどういったものを。
音楽が好きだったもので、吹奏楽部とかやっていて、全然文学とは関わりなく。
-けっこう長くやっていらっしゃいました? 
そうですね。中学高校ではずっと。
-ちなみにどういった楽器を?
あの、トロンボーンを(笑)。
-ライブとかステージとかも。
浜松市は「音楽のまち」ということで、駅前パレードとかに、かり出されて演奏を(笑)。でも私はどうしても、もう一つ音感がなくてですね。全然そっちのほうではモノにならなかったんですけど。
-もっと専門的にやろうって感じではなかったですか。音楽学校とか。
そうですね。なかったですねー。湘子もけっこう歌が好きな人で、お酒が入るとよく「五番街のマリーへ」(ペドロ&カプリシャス)を歌っていました。すごく上手でしたよ。
-「五番街のマリーへ」と「秩父音頭」(金子主宰の十八番)じゃ全然違いますね(笑)。


★俳句との出会い、「鷹」との出会い
-それで大学は早稲田大学第一文学部ということで。
文学部に入って、せっかく中学の頃にそういうこともあったんで、そういう文学の勉強をしてみようかなというぐらいのものですけど。
-具体的に俳句を始められたきっかけというのは。聞くところによりますと、寺山修司の作品がきっかけとのことですが。
本当に地味なきっかけで、でも寺山修司がきっかけということは間違いなくて、一緒の高校だった友達が、せっかく寺山の出身大学に入ったんだから、寺山が最初にやった俳句でもやろうみたいな感じで、俳句のサークルに入ったんです。
-「鷹」との出会いは。
きっかけが寺山で、いろいろ俳句のことも広く勉強していたんですけど、中でやっぱり水原秋桜子に一番惹かれたというか、何か合うものを感じたというとおこがましいんですけれども。秋桜子系の雑誌でやりたいなというふうに思って、いろいろ調べて「鷹」に入ったということですね。
-入会時の「鷹」はどういう印象でしたか。
やっぱりすごい「とんがってるな」という感じでしたね。
-それは藤田先生の作品がということですか。
そうですね。湘子の作品もそうでしたし、「鷹」誌に載っている他の作品もかなりチャレンジ精神というか先鋭的なところをいってるなと思ったものですから、ここでやってみたら面白いんじゃないかと。思い切って飛び込んで。
-実際に藤田先生に初めて会われた時の印象はどうでした?
いやー何かやっぱり恐かったですね。顔がやっぱり、こうちょっと鷹に似てるんですよ(会場笑)。猛禽類みたいなところがありまして。
-先生は若い世代に対しても、けっこうガンガンと思うところをおっしゃる感じでしたか。
とにかく若い人の考えていることにすごく興味を持ってくれて、作品とかにも、それはとても有難かったですね。若い世代のメンバーだけだとどうしてもわからないことについて、いろいろアドバイスしてくれたりとか。
-「鷹」での活動と並行して、大学院に進まれて、芭蕉の研究を始められるわけですが、芭蕉に関しては前々から興味が?
古俳諧というとどうしても古臭いものと思っていたんですけど、よく読み込んでいくと、その当時において非常に前衛的なことをやっていたんだな、ということがわかって、やっぱり面白いなと。
-ゼミでは、やはりいろいろ論文を書かれたり、みっちりと探究を。
はい。在学中は積極的にやってましたね。
-それがのちに『芭蕉の一句』という一冊に結実するわけですね。


★俳句研究賞、「鷹」編集長就任
-そして大学院生時代に第19回俳句研究賞受賞。最年少での受賞ということですが、当時23歳か4歳ぐらいで。
24歳かな‥‥。
-受賞のお知らせは、どういった形で?
あの、「俳句研究」の編集長から電話がありまして、その選考会が終わった直後にかけてるんで、選考委員の先生方に電話をかわるんですけど、湘子は「お前、調子に乗るんじゃないよ」というのが第一声でした(会場笑)。「これからなんだからな」という。
-やっぱり受賞が決まった時って、ぱあーっと宙に舞うような感じ‥‥。
いやー、何かそんなにその当時は賞の意味というのもわかってなくて、ただやっぱり湘子にできるだけ作品を見てもらいたかったんで、50句応募できる俳句研究賞に出したんですね。
-この受賞で環境とかもかなり変わりましたか。
そうですね。確かにそれまでは湘子からの評っていうぐらいしかなかったんですけれど、「鷹」以外の方の評なんかもいただくようになって有難いことでした。
-あと、「鷹」外部からの、作品や文章の依頼なんかもだんだん増えてきて。
そうですね、はい。
-でも、その次の年に藤田先生が亡くなられて、この時は青天の霹靂と言いますか‥‥。
湘子は最後胃癌で亡くなったんですけれど、でも「鷹」のほとんどは湘子が胃癌だってことを最後まで知らなかったんですね。胃潰瘍ということになってたのかな。胃に腫瘍が出来たんでそれを取ったんだとずっと言っていて、誰もそれを疑わなかったんですね。とにかく元気な方だったんで、まさかそんな‥‥。
-髙柳さんもご存知なかった?
知らなかったです。
-それは髙柳さんはじめ「鷹」の皆さん、驚かれたでしょうね‥‥。それで髙柳さんの編集長就任というのは、ある程度藤田先生のお考えもあったのでしょうか。
いや、湘子が小川(軽舟)を主宰に指名して、で小川が考えて、編集長を私にしてくれたんだと思います。
-編集長になられた当初、いろいろと諸作業、スムーズに流れていきましたか。
うん、まあ大変なこともありましたけど、今振り返るとスムーズだったんじゃないかなと思います。
-聞くところによりますと、主宰・編集長が変わられても、「鷹」を出ていく方があまりいらっしゃらなかったという。
そうですね。会員の数はそんなに大きくは減らなかったです。
-やはりお二方への信頼感と言いますか‥‥。
や、でも小川が新主宰になって、私が編集長になったあと、岸本尚毅さんが「『鷹』は今、幼帝・幼家老だ」というふうにおっしゃって(笑)。「平家物語」の安徳天皇みたいなものをたぶん連想されたのかなと思うんですが。そういうふうに何かこう上が頼りないと、皆が「こりゃいかん」ということで頑張って支えてくれるということでやっているようなもんだな、と私も実感したんですけど。


★評論集、第一句集『未踏』刊行 
-そして2007年に評論集『凛然たる青春』を刊行。これは「俳句研究」に連載されていた文章を纏めたもので。
そうなんです、はい。
-『凛然たる青春』で俳人協会の評論新人賞を受賞。続けて芭蕉研究の成果である『芭蕉の一句』をお出しになり、今、角川「俳句」でもずっと評論を連載されてますよね。あの連載もいずれ一冊の本になる方向で?
そうですね。一応考えてます。で、来年春ぐらいからかな、「俳句研究」で連載を始める予定です。『凛然たる青春』は俳人の若い頃を取り上げたんですけど、次は俳人の晩年、老境という部分にスポットを当てて評論していくというのを考えております。
-おお真逆ですね(笑)。期待しております。で昨年、第一句集『未踏』が刊行されました。初めての句集をお出しになる時の心境としましてはいかがでしたか。ご自身の中で「波が来た!」みたいな。
いやもう三十歳になる前に何か出そうかなと思いまして、二十代に作ったものを纏めておくのもいいだろうと。
-二十代の俳人として、とても濃密な流れがあったわけですが、やっぱり第一句集とか出されると、あらためてまた違った感じになりますかね。
そうですね‥‥。
-サッパリするとか。
あ、サッパリはしますね。
-その句集『未踏』で今年、第一回田中裕明賞を受賞されました。
田中裕明という作家はすごく好きな作家でしたので、この名前を冠した賞をいただけたというのは大変有難いことだなと思います。
-どうもありがとうございました。
 それではここらへんでぜひ会場の皆様にもトークにご参加願いたいのですが‥‥。


(次号に続く)


金子兜太HP 秩父俳句道場2010/11
http://kanekotohta.jp/201011titibu.html
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