■「俳句的身体」をめぐって(上)
・・・柳生正名
以下は2010年11月6日、慶応大学における「福澤文明塾」での講演内容をもとに、一部加筆したものです。
Ⅰ 序
今回、俳人の立場で「身体」について論じるよう依頼を受けたとき、即座に思い浮かんだ句があります。
人体冷えて東北白い花盛り 金子兜太
俳句では「花」は通常、桜のこと。春の季語です。ただ、ここは東北、「林檎の花」かもしれません。ほわっとした木の花の白さと、春なお寒い東北の空気感が調和し、情景の広がりを感じさせます。
句の眼目は「人体」の語にあります。和歌や俳句に「身体」「人体」という言葉が使われることは稀。普通は「身」でしょう。
心なき身にもあはれはしられけり鴫たつ沢の秋の夕暮れ 西行
「心なき(出家の)身」という以上、通常、身には心が一体のものとして伴うことが暗黙の前提です。この「心身一如」こそ、日本人の身体観の根底にあるイメージと言えるでしょう。身体論を語る際、今や古典的著作というべき市川浩氏の「精神としての身体」(以下「精神」と略・講談社学術文庫、1992)でも「身体が精神である。精神と身体は、同一の現実につけられた二つの名前にほかならない」とされます。まさに、こうした見地を「身」という語は表現しているでしょう。
対して、「人体・肉体」などの語は即物的で、一見、体と心の相容れぬ二項対立の関係が強調されるように見えます。ただ、金子兜太はこの句を収めた句集「蜿蜿」の後書きで次のように述べています。
「眼前に岩があり、その岩の肉体の温さと等温のように自分の肉体が、ここに息づいていることに気付く。青空が自分の体内の細胞ひとつひとつに冷たくしみこんでいることも知る。(中略)だから、〈自然〉と言っても、こうした自分の肉体で承知した自然しか信用しなくなる。眼でみ、耳で聞き、鼻で嗅ぐだけの自然では十分ではない」
ここで語られているのは「身体で把握する自然」「身体で書く俳句」というべきもの。それを具体化したのが「人体冷えて」の句でしょう。
東北の地に立ち、寒さを感じたその時、ポケットに突っ込んでいた手で自分の顔に触れてみる。その頬の冷たさ。目の前には、冷え冷えとして、しかし、生命の確かな息吹を感じさせる、白い花盛り。そのもとにある人々の体の冷えさえも、自分の体感のうちにリアルなものとして感じ取れる—自分の体で感じた感覚が、ある不思議な力学で自分の外に拡張し、大きな世界と共鳴して、また自分の身体に戻ってくるような、主観/客観の対立的な枠組みを越えた、大きな交響を感じさせる句であり、「人体」という即物的な把握が逆に効果的に働いているのではないでしょうか。
実は、こうして兜太の一句を読む過程で述べたことで、先ほど紹介した市川浩氏の「精神としての身体」に記された「身体観」の骨格もまたほぼ言い尽くされます。その上で、俳人の立場にある自分には、「俳句的身体」の存在を直感するということがあります。
それがどういう身体であるのか、は俳句と言う文芸の持つ形式的特徴とされる「定型」「切れ」「季語」が持つ身体的な性格を明らかにすることで、説明できると考えます。
今回は時間が限られることもあり、身体との関係が一番鮮明な「定型」を巡る考察が中心となりますが、その間々で「季語」「切れ」の持つ意味合いにも言及するつもりです。
Ⅱ 俳句の身体性
1 定型
①最短定型
俳句は「世界最短の定型詩形」と言われます。繰り返し創作される枠組みとしては、最小の情報量が前提されている、ということです。これは、具体的には五七五音という形を基準とすることにより、発語の在りようを定める点で、身体に直結する規定といえます。
ところで、数学では、五と七はそれぞれ、一と自ら以外の数では割り切れない素数です。実は五七五の合計十七、これに七七を加えた短歌の三十一も、それぞれ素数になります。
数学者にとって、素数論というのは特別な魅力を感じさせる分野だそうです。そこには「分解されることを拒み、常に自分自身であり続け、美しさと引き換えに孤独を背負った者。それが素数だ」(「博士の愛した数式」小川洋子著)という美意識が働いています。最小限の情報によって、これ以上割り切れず、他の要素に還元できない唯一の世界を打ち建てようとする俳句が、素数で構成されることには深い意味がありそうです。
それは、分析的な理解(経験的に既知の要素に分け、それを論理的に再構築する作業によって成立する「分かる」こと)を超えたこところに俳句が立ち上がる特質を示唆しています。そして、俳句には「切れ」が必要、とされることの一つの意味だとも思われます。
顔じゅうを蒲公英にして笑うなり 橋閒石
例えば、このような句には、最短定型のうちに、分析的な知を超えた世界が一気に屹立するダイナミズムが存在するのではないでしょうか。
②俳句と記憶
五七五という数から連想されるものに、心理学でいう「マジカルナンバー」があります。人間の記憶の構造は、大きく感覚記憶、短期記憶(STM)、長期記憶(LTM)の3種に分類されるそうです。このうち、「短期記憶」は約20秒間保持され、意識に上る以前の感覚器官に保存されると考えられます。人間が一度聞いただけで直後に内容を再生するような場合、個人差はありますが、7±2個の記憶容量しかない。この数字がマジカルナンバー。7個というのは意味のある「かたまり」の数量のことで、数字でも人名でもその程度しか覚えられない、という意味です。
一方、「長期記憶」は忘却しない限り、死ぬまで保存される。短期記憶から長期記憶にコンテンツを移すためには、精緻化リハーサル(具体的には想起の反復)が必要とされます。また、忘却の原因については減衰説と干渉説、検索失敗説などが唱えられています。
記憶と言うのは、単純な心身二元論からすれば、心の一部と考えられやすい。一方で、ベルクソンの言を待つまでもなく、その能力は加齢による身体の衰えとともに目だって減じます。一方で、記憶の原型としての原始的な学習能力(「精神」p235)はみみず、蝸牛にも存在します。
かたつむりつるめば肉の食ひ入るや 永田耕衣
神経系の構造が単純で、脳髄という器官を持たない生物であっても、記憶の萌芽が存在するのです。人間でも「体で憶える」という表現がある通り、記憶は身体性に大きく踏み込んだ働き、というより、心身が明確に分離できない事実を示す証拠でしょう。
とりめのぶうめらんこりい子供屋のコリドン 加藤郁乎
俳句各部の音数はマジカルナンバーに収まっているため、この句のようにほとんど意味不明な語の羅列でも、短期記憶にとどまる最低条件を備えます。それにより、長期記憶に移行され、句がその人間の心の一部に座を占める可能性が生まれる。「精神と身体は、同一の現実につけられた二つの名前」という前提に立ち返れば、ここに俳句は身体化します。
以前、当俳句樹の「海程ディープ/兜太インパクト」の欄に記しましたが、
銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく
という句をめぐって、私の内で起こったのは多分、そのような事態だったのです。
この観点からすると、俳句という最短定型を最大の特徴とする詩形は、あらゆる文芸のうち、ありのままの形で記憶に刻み込まれ、つまりは身体化し、おりに触れて想起される可能性が最も高い形式といえます。その点こそ、俳句の最大の存在意義(レゾンデートル)、と考えます。
一句は発表されると、作者の手を離れ、読み手の記憶にとどまるか、否かの関門に至る。そこを無事通過し、読者の心に生き残った俳句は、その人生のさまざまな局面で記憶に蘇り、人はそこから生きる糧を汲み取ることも、生き方の指針とすることさえできる。それが俳句の持つ本質的な力です。それゆえ、俳句には身体化され、「記憶」にとどまるために有利な戦略が数多く仕組まれています。
③俳句定型とリズム
五七五という定型は単にその短さというだけでなく、日本語を発語する際の身体的リズムが、その語や概念を記憶に残し、定着させるのに極めて有利に働きます。
端的な例としては、受験のときに誰もが世話になる年代記憶術が挙げられるでしょう。
蒸し米(645年)で祝え大化の改新を
鳴くよ(794年)鶯平安遷都
これらが五七五や七七というリズムを持っていなければ、記憶への定着度は減殺されるに違いありません。言葉の持つリズムが身体的なリズムと同調・共振することが、その言葉を記憶し、身体化することと深くかかわっている可能性がうかがわれます。
こうした特性ゆえ、定型は標語や商品名、作品のタイトルなどに頻繁に利用されます。
欲しがりません!勝つまでは(七・五)
新世紀エヴァンゲリオン(五・七)
−などなど。
ところで、三三七拍子と言われるものがあります。これは何拍子でしょうか?西洋音楽的には4分の4拍子です。手を打つのは3回3回7回ですが、間に休符が入るためです。
これにならえば、俳句の五七五も八分音符を基礎単位にした4分の4(8分の8)拍子に載せることが自然です。
広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼
4♪♪♪♪♪чζ|ч♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪♪чζ|
4ひろしまや | たまごくうとき|くちひらく |
(ч:八分休符 ζ;四分休符)
いわゆる8ビートです。ロック音楽の隆盛で分かるように、人間の生理に非常にマッチし、野生に根ざした生命力とのつながりを感じさせるリズムです(この点の、詳細な分析は前川剛氏の「俳句定型8ビート論」〈みくに書房、1992年〉に詳しい)。
五七五定型と8ビートとの相性の良さを示す具体例として、現在TBS系で放映中のTVアニメ作品「それでも町は廻っている」エンディングテーマ曲「メイズ参上!」を挙げましょう。五七五七七形式の歌詞に短歌朗誦風のメロディをつけ、ロックビートに乗せてノリノリで歌い上げています。
鼓動、呼吸、2足による歩行が同時並行的に展開する人間にとって、2の階乗によって得られる8をベースにしたビートは、生理的に適合しやすいのでしょう。俳人であれば、誰しも実感することですが、作句上、歩くことは非常に大きな意味があります。
「吟行」というものがありますが、個人的に言えば、親切に車で次々に名所案内などしてもらうと、あまり句はできません。歩くことによって、その足運びや息遣いを通して、身体に8ビートを励起し、これに周りの光景をも同調・共振させていくことが、おそらく必要です。芭蕉が旅、それも徒歩にこだわった大きな理由もそこにあるはずです。
半面、俳句は短い分、身体が弱り、生命力が衰えていく過程で、歩行が困難になっても、死の直前まで詠み続けることが出来ます。むしろ、死に至る過程をリアルかつ冷酷な視点から書き留めることさえできる。その場合、生命の炎が衰微していくのに応じ、詠まれる句がしばしば五七五にきれいに収まりすぎて、根底にある8ビート的な生命力の発現が薄れていく感さえあります。
しかし、それこそ、死を目の当たりにした瞬間、再び五七五から飛び出し、例えば、上句に三連符の連続を思わせる6音という8ビート的なリズムが突如、出現することがあります。あたかも命の焔(ほむら)の最期の輝きのように
旅にやんで夢は枯野をかけ廻る 芭蕉
糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな 子規
2 切れ
俳句は、基本的に明治以降使われるようになった言葉で、芭蕉の時代は発句と呼んでいました。五七五と詠むと、これに七七と付け、さらにこれに五七五を付ける連句と呼ばれる文芸形式の出発が発句。これが独立して俳句となったわけです。
連句は複数の俳人が場をひとつにし、心身の同調・共振を獲得することで産み出される即興演奏(インプロヴィゼーション)の世界です。ただ、同調という以上、一定の決め事がなければ、即興は成り立たない。そのひとつが定型ですが、底流に8ビートのリズムが存在することで、参加者の身体的な同調が容易で、均質・均等に分割が可能な時空としての〈座〉が与えられます。
その上で創作される「五七五」は均質に分割されることに対し、むしろ拒絶的な性格を持ちます。このように「割り切れる」ことと「割り切れない」ことが一句の内で統一され、せめぎ合うのが五七調の特色です。それはリズム的な観点からすると、五七五音が「休符=発語の空白」で穴埋めされることで、8ビート上にきれいにのることを意味します。その際に生じるポリ(複)リズム的なグルーヴ感が魅力ということでもあるでしょう。ここで、大きな働きをする「休符」こそ、俳句における「切れ」のひとつの在りようです。
俳句をリズムで捉えた場合、五七五という「図」が8ビートを「地(背景)」に成立していると考えてよい。この図/地は視点を変えることで転換が可能です。ちょうど、壺のシルエットを描いたように見える図が、その部分を背景と見ると、向かい合う二人の横顔に見えてくる騙し絵のようなもの。それゆえ、五七五の根底に8ビートのリズムを持つ俳句では、「字余り」はある意味で必然です。
二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり 金子兜太
八八七の字余りで、季語もありません。ただ、定型との関係で言えば、ここでは、俳句のリズムの地と図が入れ替わり、8ビート的な生の肉体の躍動が前面に打ち出されている。描かれるモチーフに即したリズム感が意識的に選び取られている、というべきでしょう。
ここでは、「切れ」の本質論に深く立ち入る余裕はありません。ただ、一面から言うと、五七五と8ビートという、本来、相矛盾するリズム=身体性を一句のうちに統合するのが俳句形式であり、これを支える存在として「切れ」がある。「切れ」はそれ自体「空」ですが、それでいて、実体的な意味を持ちます。余白や間の感覚を重視する東洋的な芸術観を受け継ぎ、見事に体現しているわけです。
3 季語
季語は、日本人がその歴史の中で磨き上げてきた美意識を季節のめぐりの内に現われる事物に託し結晶させたものです。一つの季語の内には、先人たちがそれについて詠んだ数々の歌や句、詩文が文字通り染み込んでおり、日本文化の内に育った者にとって共通の文化的な基盤を形成しています。それゆえ、句の中の季語を挟んで向き合ったとき、作者と読者の間には同調・共振関係が容易に形成されます。日本人が手紙のやり取りをする際、時候の挨拶を記しますが、そこには季語が含まれます。これも、文を挟んだ二人の間を同様の同調・共振の感覚で満たそうという趣旨からでしょう。
一方、「季語」を機能面から捉えた場合、俳句のみならず、短歌の世界でも、作品を記録、編集する際のインデックス(検索語)の役割を果たしてきました。それぞれの句は、季語により、季節の循環的な時系列に沿って整理される。これは長期記憶におさめられた俳句を検索する際に非常に便利です。記憶が劣化する理由の一つに「検索不能説」がありますが、その対抗策にもなるでしょう。
櫛の歯をこぼれてかなし木の葉髪 高浜虚子
「木の葉髪」という季語には、一年における落ち葉の季節と、人生の秋というべき年齢を迎えたことの感慨とが重なり合う、絶妙な味わいがあります。この作は名句と呼ぶには、日本人が共有する定型的な情緒が前面に出すぎているかもしれません。ただ、一読すれば、その後、年齢を重ね、深まる秋のうちに、ふと櫛を使う折り、鮮烈な実感を伴って思い出さずにはおられない一句でしょう。
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