2010年11月25日木曜日

海程ディープ/兜太インパクト -5- 私における金子兜太 ・・・田中空音

海程ディープ/兜太インパクト -5-
私における金子兜太
・・・田中空音


金子兜太と私は師弟である。と、私の側からは思っている。金子先生の側のことは分らない。そういう一方的なものならば、例えば「芭蕉はわが師である」という言い方があるように、単に「金子兜太は自分の師である」と言えばいいようであるが、そうもいかない。第一に金子先生は生きているし、実際にお会いする機会は少ないけれど、そこには精妙な相互関係があると私には思えるからである。
師弟関係において最も大事なのは、精神のレベルでの相互関係であろうが、それはここでは棚に上げておいて書かない。ここでは、目に見える形の私と金子先生における師弟関係の証しとなる三つのものを書いてみたい。それは師が弟子に与える三つのものである。すなわち、名前、印(しるし)そして戒である。
まず名前。空音(くうおん)という名前は金子先生の贈り物だと言えそうである。言えそうである、などというあいまいな言い方をするのには事情がある。私はもともと空音(くうおん)というペンネームで絵を描いていた。それが、俳句を始める時に、俳号としては空音(そらね)という名前にした。何故、空音(そらね)にしたのかも事情があるのであるが、ここでは書かない。金子先生にお会いしたての頃に、確か宮崎の大会の時のことであったろうか、金子先生は「そらねなどというふざけた名前はそらねーよ。くうおんがいい。」と言われたのである。それ以来、私は空音(くうおん)で通している。これは変則的ではあるが、命名だと言えないだろうか。
次に印(しるし)。これは沢山の人が金子先生から頂いていると思うが、兜太句の色紙である。金子先生は「海程」のいろいろな賞の褒美として、兜太句の色紙をそれぞれの人に贈っているが、穿ってみればこのことは、あなたを弟子として認める、という意味を込めた印(しるし)であるとも受け取れるわけである。ちなみに私は「猪が来て空気を食べる春の峠」という私にぴったりの句を頂いた。
次に戒。これは平たくいえば命令である。想像するに、あの自由な気質からいって、金子先生は他人に命令をするということは殆ど無いのではないかと思う。ところが偶然にも私はその命令を頂くことになったのである。何年も前になるが、私は海程関係のある句会を提唱して始めた。要するにその句会の言い出しっぺである。ところが、二年にも満たないうちに、全く私の個人的なわがままな事情で、その句会を放り出さなければならないことになってしまった。あまりにも申し訳なかったので、自分に与える罰として、私は二年間は「海程」に投句しないと決めた。そのことはその句会で会長の役を引き受けて下さっていた方にも言ってあった。ところが、武田さん(編集長)が私のことに心を配って下さって、金子先生にそのことを伝えたそうなのであり、金子先生からお電話をもらった。「投句は止めない方がいいのではないか、武田も心配している」ということであった。最初は金子先生の言い分と私の言い分は平行線をたどっていたが、最後に私が「このまま投句するのでは、私は嘘をつくことになってしまう」と言った。その時に金子先生は「それでは、このことは俺の命令だ、ということにしよう」と仰られた。私はおそらく私の意識の裡でこの言葉を待っていたのだろう、すぐに「それはいいですね」という返事をした記憶がある。そういうわけで、私は金子先生から「投句はやめるな」という命令を受けたことになる。それ以来、一回も投句は休んでいない。
以上が、金子兜太と私は師弟関係にある、と私が勝手に思っている、外面的な証しである。



読んでいて、単に俳句作品を読んでいるというのではなく、強烈にその人間自体を読んでいる感覚を抱ける作家は面白い。例えば、芭蕉、一茶そして兜太等である。おそらく、彼等は俳句というものを、単なる趣味だとかあるいは職業だとか身分だとかと捉える以上に、自分の人生そのものと見做している部分が多いからではないだろうか。私は作品を読むということで、人間に出会いたいと思っているのかもしれない。だんだんとそうなって来たとも言える。俳句を始めた頃には虚子などの自然詠が好きだった記憶があるからである。
そもそも、何故兜太を選んだのか、あるいは「海程」を投句の対象として選んだのか。その頃は虚子の自然詠に魅かれていて、兜太の句というものは読んだことがなかったから、句だけで選ぶなら、きっと虚子の系統の結社を選んだかもしれないのである。しかし、結局、兜太に魅かれたのは、その人間の魅力であると思う。テレビで一度、その顔を拝見したのであるが、その途端に、私はこの人にしようと決めてしまったのである。アイドルじゃあるまいし、顔で決めるなんてと思われるかもしれないが、私には人の顔、あるいは顔付きに対する直感力が確かにあるようだと今では思っている。しかしそれでも、一回顔を見ただけで決めてしまうのも軽率過ぎる嫌いがあるからというので、丁度その年の海程全国大会が私の住んでいる長野県の蓼科で行われたので、そこに行って自分の直感を確かめてみたわけである。案の定、私の直感はほぼ確信に変った。そして、兜太自身はもちろんのことであるが、海程の人達にはざっくばらんで気取らない威張らない人が多かったように思う。そういうわけで、私は「海程」に投句を始めたのである。
兜太という人間に対する直感で始まった‘私における兜太’であるが、そのうちに彼の句を読むようになってから、俳人兜太と人間兜太の一体性というものをより強く感じるようになった。つまり、彼にとって俳句は殆ど彼自身なのだということである。そして、彼の句、すなわち彼自身、の大きさというものをも、だんだんと読み取れるようになってきた気がする。敢て言わせてもらえば、兜太には一茶と芭蕉を合わせたような大きさがある。芭蕉が求道者で、一茶は存在者だという言い方をするとすれば、兜太は求道的存在者だと言える。芭蕉や一茶が、世界を二つに分けたうちの、その一方だとすれば、兜太は世界全体であるという感じがするのである。
私が俳諧美というものを定義するとすれば、それは、美醜という世界の二元的な把握を、全ては美だという世界の一元的な把握に捉え直してゆくエネルギーにおける美だと定義したいのであるが、その点からも、兜太は私にとって俳諧美の権化であるような気がするのである。
また、兜太の俳句が、兜太という存在の意識的な部分のほぼ全てを表現しているゆえに、必然的に兜太の俳句は多様であり多面的である。人間は社会的であるゆえに、彼の俳句は社会性を帯びる。人間は動物であるから、彼の俳句は動物の命への共感がある。人間は性的であるから、彼の俳句は性を謳う。人間は生と死の意味を問う存在であるから、彼の俳句には、そのことへの真摯な対峙がある。人間は隣人への愛なしでは生きられない存在であるから、彼の俳句は彼に関係する全ての人への眼差しがある。また、彼の生まれつきの資質でもあろうし、戦争という悲惨で重い現実を真摯に見てしまったということもあるだろうが、彼には戦争を憎みまた人間の傲慢さを憎むというベクトルがある。また、彼は実なる世界を真摯に生きると同時に、虚の空間に遊ぶ自由さもある。そして、時折顔を出す禅の風味・・等々・・
このように兜太の俳句は多様であるがゆえに、彼の代表句は是だというふうに提示するのは不可能に近いのであるが、それでも思いつくままに何句か書いてみた。

海に青雲(あおぐも)生き死にいわず生きんとのみ
水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る
熊蜂とべど沼の青色を抜けきれず
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ
彎曲し火傷し爆心地のマラソン
谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな
抱けば熟れいて夭夭(ようよう)の桃肩に昴(すばる)
砂漠かなコンサートホールにかなかな
痛てて痛ててと玄冬平野に腰を病む
生きてあり越冬つばめ眼を閉じて
余寒のベッドに妻茫然と病むはずなし
狼生く無時間を生きて咆哮
連翹を走りぬけたる猪(しし)の震え
夏の猪沈黙の睾(きん)確とあり
黄揚羽寄り来原子公平が死んだ
眠気さし顔とりおとす夏の寺
合歓の花君と別れてうろつくよ

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