2010年10月10日日曜日

海程ディープ/兜太インパクト -2- ハイクノチカラ、または兜太と子供の事情 ・・・柳生正名

海程ディープ/兜太インパクト -2-
ハイクノチカラ、または兜太と子供の事情
・・・柳生正名

個人的な話になるが、金子兜太との出会いは大学受験の模擬試験、三十年以上前のことになる。現代国語で出題された評論文で、

銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく

の句が俎上に上がっていた。試験問題ゆえ、文章の筆者はもとより、句の作者名も記されていない。ただ、この句は、兜太自身、造型俳句論を語る際、しばしば言及している。文章も当人のものだったかもしれないが、今となっては確かめようがない。

当時、俳句に関心はあったものの、兜太の名は知らなかった。もとより、自分が作句するようになる、などとは思ってもいない。にもかかわらず、この一句は記憶の中に刻まれた。ずっと「読み人知らず」のまま。これに兜太の名が重なり合うのは十余年の後。その間、専門学問を選択し、職業を決め、社会で様々な判断を求められる場面で、折に触れ、この一句を思い出していた自分に今、気付く(そこには自分の父親が銀行員であった事実も微妙に影響しているかもしれない)。
作者の名や生き様と切り離され、純粋な言葉として心に棲み付き、人生にさえ影響を与える―それこそ、根原的な「ハイクノチカラ」。十年がそのことを知るための時間だったとするなら、無為に過ごしたとは思わない。

「烏賊のごとく」は、社会性俳句が俳壇の枠を越え、ある種の社会現象にまでなった昭和三十年代前半の熱気を象徴する作だ。模擬試験にまで登場したのも、だからだろう。にもかかわらず、俳句にそれなりの親近感を持っていた当時の自分が、この句や兜太を知らなかった。それは、知識のほとんどすべてを山本健吉の「現代俳句」(昭和五十一年版)によっていたためだ。高校の国語の授業で教師がこの一冊を奨めたのである。

そこに記された句の数々―子規に始まり、虚子、四Sを経て、草田男、楸邨、三鬼へと至る―には目を開かれる思いがした。そして、そこに書かれたことが、芭蕉や一茶を除けば、自分にとって俳句のほぼすべてだった。中で、一番印象的だったのは永田耕衣の

恋猫の恋する猫で押し通す

戦後の一時期、一世を風靡した根原俳句の代表作だ。これに眼を付けた当時の自分の見識には、今もいささか自負するものがある。

が、皮肉なことに、この句に、というより、この句に滲み出た次なる俳句革新へのほとばしりを評する健吉の書きぶりは好意的なものではなかった。それどころか、同句を取り上げた一文をもって、この書自体も終わる。そして、昭和三十七年付の「新版あとがき」には「私は今の俳壇の新しい動きに、ほとんど興味を失っている」とさえ書く。

今思えば、健吉の「新しい動き」に対する否定的言辞は、おそらく、昭和三十二年に「烏賊のごとく」と詠んだ兜太を主たる標的にしていた。この本を読んだだけの当時の自分が、兜太の名を知らないのも当然である。

健吉の「現代俳句」への情熱の唐突な失調、頑ななまでの拒絶の姿勢は、少年の心にも、単に文芸論にとどまらない、もやもやしたものの存在を浮かび上がらせた。今はやりの言い回しを使うなら「大人の事情」とでも言うか、少し胡散臭い何かを裏に感じたのだ。

その事情の一端は、最近、例えば原子公平の残した文章などを読むにつけ、おぼろげながら想像できる。当時はそこまで思いが至るはずもなかったが、やはり試験問題の中で出会った「すべからく醒めつつ、淫すべし」の一節が急に身に沁みて感じられた。それが健吉への醒めた思いにとどまればよかった。しかし、現実は俳句への悪印象という方向に働いたかもしれない。自分の内で、その後、この文学形式への興味は急激に失せた気がする。

にもかかわらず、十余年を経て、「烏賊」の句と兜太は自分の内で、ロートレアモンばりの劇的な出会いを遂げた。不思議なものだ。その前後、自分はジャーナリズムの末端におり、日銀を取材していた。とは言っても、すでに兜太退職後のこと。行内でばったり出くわした、などという芝居じみた展開はない。

今とは違い、記者にとって公官庁への出入りは比較的自由だったが、日本橋の日銀本店は別。行内に立ち入るにも警備員にいちいち誰何された。中央銀行としての中枢機能は分厚い鉄筋コンクリートで鎧われた新館に集中し、各室の天井には無数の蛍光灯が列をなす。

当時、日本はバブルの余韻覚めやらぬ時期。世界の金融市場は巨大なマネーの奔流が二十四時間休みなく駆け巡る大海と化していた。日銀にも早朝から深夜まで蛍光灯群が灯り続け、その下で、糊の効いた白シャツ姿の行員たちが立ち働くさまは、水族館の巨大水槽さながら。その時、感じた 既 視 感(デジャヴ)の大本が兜太の句にあったことは言うまでもない。

日銀総裁は、バブル退治で「平成の鬼平」の異名をとった三重野康氏だった。豪放磊落な人柄で、自宅への夜討ち朝駆けにも、いつも笑顔で対応してもらった。五年ほど年長の兜太とも、行内のトイレだったか、で出会うと言葉を交わすことがあったように聞く。

三重野氏の下で金融政策を切り盛りしていたのは、三代後の総裁となる福井俊彦理事。当時、懇談の機会があり、同席した当方の上司がふと「柳生君は金子兜太さんの弟子です」と話した。
それまでにこやかだった福井氏の顔が急に曇り、ぼそぼそと「あんな仕事をしない人は…」という趣旨の言を洩らしたように聞こえた。自分は既に「海程」への投句を始めていた。出征していた兜太が戦後の混乱期、日銀に復職した折り、労働組合員長に祭り上げられた後に梯子を外され、その後は退職まで行内で異端分子扱いを受けていた経緯も知っていた。現実は「仕事をしなかった」のではなく、「する仕事を与えられなかった」のだが、俳人としての活躍が華々しかった分、行内、それも経営の中枢にかかわる立場からは、煙たがられていたのも無理からぬところ。そんな事情を察し、兜太の弟子たる事実を隠すわけではないが、積極的に話してもいなかった。

それにしても、普段、慎重なもの言いの福井氏から「生の言葉」が飛び出したことには少々驚いた。三重野氏のように終戦直後の日銀内部の混乱を肌身で知る立場と、戦後十年を経て入行した世代との違い―当時はそう理解して、自分なりに納得していた気がする。

ただ、今考えると、バブル経済も幕を閉じ、高度成長以来の日本の黄金期は終焉を迎えていた。それまでは、異端分子を『飼い殺し』とは言え、内部にとどめておく懐の深さが日本経済にはあった。バブル崩壊後の「失われた十年、空白の二十年」を経て、現在はその余裕すら失われている。日本経済の司令塔の立場にあった当時の福井氏には、そうした近未来像が既に見えていたのではないか。「仕事をしない…」発言も、「成果」主義に支えられた効率至上型に経済を変転させる以外、日本が生き残る道はなく、その先陣に立つ日銀こそ手本たらねばならないと信じた、氏の使命感が言わせた言葉、そんな「大人の事情」ゆえの発言だったのでは、と今は思う。

というふうに考えていると、兜太という存在が、戦後から現在に至る時の流れの中で、奇跡的に「大人の事情」の呪縛を逃れ、「子どもの事情」を貫いて生き得た稀有なるもの、と思われてくる。もちろん、生きている以上、「大人の事情」を完全に無視できるほど、現実世界は単純ではない。海程の東京本部例会には毎月百人を超える同人・会友からの出句がある。その一句一句について、洩らさず壇上からコメントして行く兜太―その「大人の事情」を呑み込んだ態度には、いつも割目させられる。しかしながら、

左義長や武器という武器焼いてしまえ
長寿の母うんこのようにわれを産みぬ
今日までジュゴン明日は虎ふぐのわれか

昨年刊行された最新句集「日常」所載の句を読むにつけ、その稀有さは単に日常の振舞や生き様、というのでなく、作者名や詠まれた背景さえ剥ぎ取った後に残る、句そのものの内にこそ現れている、と思わざるを得ない。有季や定型はもちろん、技の巧拙や伝統などが問題にされる際、その裏に必ずほの見える「大人の事情」さえも突き抜け、有無を言わさず読者の心中に棲み付き、人生すら決定付ける根原的な「ハイクノチカラ」。それは、常に「子供の事情」の側からのみ、生まれてくるのではなかろうか。

現在、そんな「子供の事情」の存在を多少なりとも実感できる場があるとすれば、それは「海程」であり、兜太に自句を滅多切りされる、その瞬間をおいて他にない―極めて個人的だが、これが率直な思いである。(了)

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1 件のコメント:

  1.  「ハイクノチカラ…」を読ませて戴きました。唐突ですがある時の海程東京例会が思い出されました。金子主宰の句「山光の花冷えの狐家族かな」について私は「子別れの儀式など狐の習性や生態、現在の野生動物の環境などを思いました。物語的なニュアンスで捉えても、想像世界が膨らんで‥‥まず〈狐家族〉という言葉に惹かれました」と発言。これに対して岡崎万寿氏から「すうっと通りすぎて、特に何も感じませんでした」という発言があり、両発言を比べて主宰は「うん、それは場の違いだな、しょうがないな、うんうん」と自問するように答えました。そして私の事を「山で暮らしてたからな」と山姥のように言うのです。万寿さんは非戦などをテーマにした社会派の作品の多い俳人です。私とは体験も感性も隔たりがあるので「場の違い」という言葉が腑に落ちました。

     さて感想ですが柳生さんの文章からは柳生さんの「場」が見えてきます。ジャーナリストという職業人の位置から率直に具体的に論旨を展開していく手腕が鮮やかだと思いました。散文のひとつの方法として「最後の一行に向かって書く」と聞いた事があります。「キーワード」に戻りつつ最後に決める。とても痛快でした。私は私の「場」から何か見つけたいと感じていましたので、とても納得してしまいました。

     ところで私も時に「滅多切り」にされます。高点句の時は特に危険です。見せしめ?のように、例えば「(この表現には)憎しみさえ感じる」とまで言われた日は、まず良く考え、まだ自句のモチーフに執着がある時はとりあえず「場が違う」と気持ちを納めて、翌日また「表現」について考える事にしました。

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