2010年10月10日日曜日

アニミズムの眼(上) ・・・野﨑憲子

アニミズムの眼(上)
・・・野﨑憲子


幼い頃のことです。家の庭先に、蒼い汁を出して転がっている蛹を見つけました。死んでいるのだと思い、小さな箱に入れて土の中に埋めました。それから一ヶ月もたった頃でしょうか、ざわざわ胸騒ぎがするのです。特に、虫を埋めた土のあたりを通ったときに強く感じます。ある日、箱を開けてみますと、いきなり真っ黒いものが大きな羽音をたてて飛び立ちました。揚羽蝶でした。今も蝶が消えて行った天空の透き間を忘れられません。
アニミズムとはあらゆる宗教の源である精霊信仰です。森羅万象の一つ一つにいのちが宿り、カミと呼ばれています。精霊と呼ばれるカミたちの生まれてくる空間は、俳句の生まれる空間でもあるという思いのなかで、アニミズムの俳句とその思想を通して、今、絶滅の崖っぷちに居るといわれている私たち人類のその足元を見つめ直してみたいと思います。

木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ   加藤楸邨

私が、アニミズムの風を初めて感じた俳句です。出口の見えない心のトンネルの中で見出した一条の光であり、俳句と出合うきっかけとなった句でもあります。この粒々とした呪文のような言葉を唱えるたびに、心の中の不思議な空間に芽生えた木が何かにぶつかりながら伸びてゆきます。そして私の中に眠っている記憶を少しずつ呼び覚ましてくれるのです。
五年ほど前の夏のことです。期せずして台風直下の那智の滝の前に初めて立ちました。
根津美術館蔵の『那智滝図』を心に描き、夢にまで見た滝でした。鳥居をくぐれば滝しぶきが降りかかり、風景と呼ぶにはあまりにも凄まじいエネルギーに取り囲まれ言葉を失ってしまいました。滝は滝口から落ちてくるのではなく、すさまじい勢いで地中から伸び上がっているようでした。宗教とか道徳とか、あらゆる概念を超越した世界を感じました。太古も、現代も、未来も、ただ一枚の空間となり、その中で那智の滝は、宇宙の中心へと限りなく拡がっているようでした。この巨大なエネルギーの空間のことを知りたい、その奥にあるものをぐっと掴みたいと考えました。その思いを満たしてくれたのが、金子兜太と松尾芭蕉の俳句でした。これこそが、いのちの根源を見つめるアニミズムの俳句であり、攻めるなら攻めてみよという前衛の真髄であると思いました。さまざまな個性の違う作品のなかにも、絶妙なバランス感覚があり、句と句の間から爽やかな風が吹き渡っています。
何かが、サムシングがあるのです。自らの人生の過程を通して、自らの血と言葉でそれぞれの独創的な俳句の世界を構築しています。高い芸術性とともに社会的弱者に向ける温かな眼を持っています。では、二人の作品をたどることからはじめたいと思います。



1 いのちの空間


おおかみに螢が一つ付いていた
おおかみを龍神(りゅうかみ)と呼ぶ山の民
狼に転がり墜ちた岩の音
狼生く無時間を生きて咆哮
山鳴りときに狼そのものであつた  
月光に赤裸裸な狼と出会う
ニホンオオカミ山頂を行く灰白なり

これは、金子兜太第十三句集『東国抄』の中の狼を詠んだ作品群の一部分です。もう日本では絶滅したと言われている狼が、現世の向こう側からやってくるのを生き生きとした直観で捉えています。ゲーテが、植物に深く興味を持ち、そこに考え出されたのが原植物なら、こちらはいかなる狼よりも狼らしい、始原の狼である原狼です。一つ一つの作品の中から、秩父連山の嵐気や狼のらんらんとした目の輝きが鋭く伝わってきます。それは産土である秩父と狼を愛してやまない兜太の眼差しでもあります。

金子兜太著『俳句専念』の狼に関する文章のなかに、万物の霊長を自覚した人間という生きものが、生を謳歌しその分死を怖れて、時間が作られ増長していった、ともいえる。いまでは、人間は、自分で作った時間に振り回されている。それによって、死を早めてさえいる。わたしは、この時間意識を越えて、「狼の生の空間」を自分のなかに獲得したい、と願うようになったのです。「生そのものである生」の獲得。その限りない「自在さ」、とあります。変幻自在な、生そのものの空間を兜太は「いのちの空間」と呼んでいます。それは時間をも包含してしまった空間であります。森羅万象のいのちは一つであるという認識。そして、その中から出てきた「人間という生きもの」という客観的な人類の把握、無時間という時間意識。この視座に立つアニミズムの俳句こそ、二十一世紀の活路となるのではないかと考えます。生きものの感覚を見事に捉え、「私はつねに過程にある」と薄氷の上をバリバリ進んでゆく荒武者のように、つねに若々しい前進を続けている兜太の作品の中に、現代の人間が失いかけている優しさや烈しさを感じます。
わたしは、兜太作品に強い赤のイメージを持ちます。いや、赤と黒の段だら模様と書いた方が正確です。それもお互いに競いたつ赤と黒。なかでも、

墓地も焼跡蝉肉片のごと樹々に          『少年』
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ       『少年』
彎曲し火傷し爆心地のマラソン      『金子兜太句集』

この三作品は自らが実感してきた戦争の残酷さ、怒り、哀しみにあふれています。ごつごつとした句の調べのなかに映像が鮮やかに立ちあがってまいります。昭和十九年から三年間に及ぶ、赤道近くの珊瑚環礁トラック島での過酷な戦争体験の中で幾多の死の淵を乗り越えてきたからこそ、底知れないエネルギーと温かなこころを持った俳人金子兜太が誕生したのではないでしょうか。以前、NHKの『ようこそ先輩』という番組で、兜太の語る戦地での悲惨な体験談を身じろぎもせずに聞いていた母校の小学生たちの瞳が忘れられません。唯一の被爆国である日本から、こういう戦争を詠んだ優れた俳句がもっともっと世界中に広まっていかなければならないと考えます。

曼珠沙華どれも腹出し秩父の子          『少年』

古来狼をカミと仰ぎ、日本のお臍のような地、秩父の山霊に育まれたかわいい子どもたちの顔が見えてくるようです。あっけらかんとした熱いエネルギーに溢れています。
しかし読み返すほどに、何かを叫びながら駆けてゆく映像となってまいります。「秩父の子」から、理不尽に閉ざされた山国の人々の暗部の激発であった秩父困民党のことが、頭をよぎります。歴史の大きな流れに逆らうことの難しさ、流されていかざるを得なかった人たちの悲しみを曼珠沙華の妖しいまでの赤に感じます。

山峡に沢蟹の華(はな)微かなり       『早春展墓』

沢蟹との出会いの一瞬の喜びを「微かなり」というとてもデリケートな言葉で巧みに捉えています。初めて兜太作品に触れたとき、海のうねりのようなリズム感と分厚くてつかみ所のない力を感じました。しかし、全ての作品を読んでいくにつれ、この句のように繊細な美しさをたたえた佳句がたくさんあるのにも驚かされました。剛の句と柔の句の距離感そして多様性は、古今に比類無きものと思います。

暗黒や関東平野に火事一つ          『暗緑地誌』

この暗黒という闇を意味する言葉の存在感と切れ字による時空の捩れから、歴史の闇の奥で燃え続ける狼煙のような火を想像します。K音の繰り返しによる不気味な緊縛感の漲る映像はまさに一枚の名画です。
兜太作品は濃いイマジネーションに彩られ、腹の底からじわっじわっと突き上げ、鳴り響いてくる生命の塊のような音楽に満ちあふれています。そこには縄文の匂いがします。ものに喩えるとすれば縄文土器。その中でも奔放極まりない火焔土器ではないでしょうか。この豪快不敵の土器の背後に巨大な霊の気配がします。この気配は、芭蕉の作品に触れたときにも感じるものであります。



2 幻の巷


渚に立って、月に照らされた海を見つめていますと、波を動かしているものの影をかすかに感じることがあります。そんなときに、浮かんでくる芭蕉の句があります。

道の辺の木槿は馬に食はれけり
山路来て何やらゆかし菫草
よく見れば薺花咲く垣根かな

発想の契機は、木槿であり、菫草であり、薺花であるのですが、一つ一つの花を発見したときの芭蕉の喜びと驚きが伝わってまいります。野末へ向ける芭蕉の目線の低さと共に、造化そのものの本質をとらえようとする、熱い眼差しを感じます。ほぼ同じ年に、

古池や蛙飛び込む水の音

の句が生れます。蕉風開眼の一句といわれ、日本人なら誰でも知っている名句です。
芭蕉の「古池」が時おり不思議な鏡に思えてくることがあります。切字「や」は、幻の空間を創り出す魔法の助詞であると思います。
「古池」の句を得た芭蕉は、更科紀行を経て奥の細道の旅へと求心的な思いはますます大きくふくらんでゆきます。
奥の細道の旅に出たのは、元禄二年の芭蕉が四十六歳の時です。それから亡くなるまでの五年の歳月をかけて『おくのほそ道』を書き上げました。深川から大垣に到るまでの百五十日間、二千六百キロの旅は、虚実をないまぜにした連句的な紀行です。それは不易流行から軽みへとつづく発見と醞醸の旅でもありました。

行春や鳥啼き魚の目は泪

旅立ちの不安、別れの悲しみが地の文に記されていますが、何度も読んでいますと「鳥啼き魚の目は泪」が力強く響いてきます。奥の細道へと向かう、芭蕉の心の熱度と圧力で一気に謳いあげられた作品であることがわかります。地の文と俳句の矛盾した心情を感じます。この矛盾こそ芭蕉の深さであり、この旅にかける思いが余計に伝わってまいります。

田一枚植ゑて立去る柳かな

遊行上人(一遍)が奥州下向の際、朽木の精が現れて西行の歌「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」が詠まれた場所を教えたという謡曲『遊行柳』をこころに生まれた一句です。様々な解釈のある作品ですが、「芭蕉は、いのちの空間から出てきた遊行柳が田植えをして立ち去ったと感応したのだ」という兜太の鑑賞が一番あたっていると思います。出立の時、幻のちまたに離別の泪をそそいだ芭蕉は、謡曲の世界を軸に、彼の幻の空間の奥へずんずん進んで行くのであります。

閑かさや岩にしみ入る蝉の声

「閑かさや」に究極の静謐を感じます。岩にしみ込んだ蝉の声が静寂の底から再び響いてくるようです。回転する独楽のような静けさとも思われて、おかし味も少し。

雲の峰幾つ崩れて月の山

ようやくの思いで、一九八〇メートルの月山頂上にたどりついたところで詠まれた句です。この旅のなかで一番精神の高揚した場所であります。山頂で一夜を過ごし、天地流行の世界観を掴みました。天地流行とは、天地に存在するものすべてが、不変の存在でありながらも、変わり行くものであるという考え方です。そこには、『赤冊子』に見られる「高く心を悟りて俗に帰るべし」の軽みの世界がすでに内包されています。
芭蕉は、修験の行者姿で月山に登りました。彼の心の中には、西行から空海へ、すなわち真言密教や山岳修験の血脈が熱く流れていたのであります。

荒海や佐渡に横たふ天の河

出雲崎での句。出羽三山、象潟に続いて、海沿いに旅をつづけているうちに、日本海の怒濤の響きが心の中に少しずつ浸み透ってきます。そして時至って、最短定型詩の閉ざされた底を打ち破って豁然と広がった大景ではないでしょうか。天の川の息遣いまでもが聞こえてくるような生々しさを感じます。

あかあかと日はつれなくも秋の風

調べの美しさにとても惹かれます。秋になると決まって口を衝いて出てくる句です。
「句調はずんば舌頭に千転せよ」とは、『去来抄』にある芭蕉の言葉です。芭蕉にとって俳句は何よりも音楽であったのです。斉藤茂吉の「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」の歌は、この句を心に創られたものだといわれています。
加藤楸邨は『芭蕉全句』のなかで、「正岡子規は、此句は平々凡々の句であり、〈つれなくも〉の語は無用であると述べているが、芭蕉との発想法の違い、子規に出発する近代俳句との質の差異がはっきりとうかがえる作品である」と書いています。この言葉は、芭蕉の研究に生涯をかけた楸邨の興味深い意見であると思います。

蛤のふたみに別れ行く秋ぞ

「おくのほそ道」最後の句。冒頭の「草の戸も住替る代ぞ雛の家」を承けては万物流転の思いが実にさらりと詠まれ、「行く春や鳥啼き魚の目は泪」に対しては、連句の発句と挙句のような関係で見事に作品を閉めくくっています。天地流行から軽みへ、なんと見事な満尾でありましょうか。

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