ラベル 中村安伸 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 中村安伸 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2010年10月25日月曜日

続「季語というルール」について ・・・中村安伸

■続「季語というルール」について
・・・中村安伸


前号に掲載した拙稿「「季語というルール」について」に積み残したものもあり、頂いたコメント等をもとに、新たに取り上げたいテーマ等も若干生じたので、続編を掲載することにした。
まずは前号の内容をふりかえり、論点を整理してみようと思う。前号の時点より考えをすすめた部分等、若干追加した内容もある。

(1)「ルール」という語を「俳句とは何か」についての、作者、読者間での共通理解という意味で使用している。その中に季語の運用に関する内容が含まれているという認識である。

(2)俳句という「ゲーム」の「ルール」は明文化されておらず、また明文化できるものではない。したがって、作者および読者は個別に少しずつ異なるルールを採用している。前号ではこの個別のルールのことを「自分ルール」と名づけてみた。「自分ルール」は変化してゆくものであろうし、所属する団体や結社ごとの傾向も存在するであろう。またすべての「自分ルール」に共通する核のようなものも存在しているはずである。

(3)俳句の基本は「有季定型」であり、無季俳句はルール違反であると考えるのが多数派である。ただし、このルールに違反する俳句を失格とする、つまり俳句ではないとするかどうか等の運用についても「自分ルール」ごとに異なる。

(4)私個人としては無季俳句を失格とは考えない。その理由のひとつに、無季俳句を俳句作品として発表した作者の意図を無視することができない、というものがある。

さて、拙稿は「週刊俳句」の「週俳9月の俳句を読みつつ、季語という「ルール」について又」(上田信治)における「季語は俳句のルールだというのが、自分の基本的な考えです。」という言葉に触発されたものであり「ゲーム」「ルール」という比喩を用いて俳句と季語の関係を捉えなおしてみたいと思ったことが出発点となっている。
たとえば季語を「ツール」や「詩嚢」と捉えるならば、それは作者の側で完結してしまう。作者と読者の両面から俳句と季語を考えたい私としては「ルール」という捉え方のほうが、よりしっくりくるのである。

作者が作品を作り、読者がそれを読むのが俳句という「ゲーム」であれば、それは、どちらかが勝ち、どちらかが負けるというものではなく、作者と読者が作品を通じて共感しあうという、いわゆるWIN-WINの結果を求めてゆくものと考えるのが妥当であろう。

作者が作品を作るときに、読者が自分とは異なる「ルール」を採用しているかもしれないという問題を気にすることはあまりないだろう。しかし、俳句を前述のような「ゲーム」として楽しむために「ルール」の違いを意識することも重要かもしれない。

作者としては、読者が自分のものに近いルールを採用していると想定できるなら、そのルール=共通理解を基盤にした作品を提出することが可能となる。一方で読者とルールを共有していない場合、その前提は無効となる。前者を俳人や俳句愛好家を読者と考えた場合、後者を俳句の知識の無い人を読者と考えた場合、後者をターゲットにした作品なら、前者にも通用すると考えることもできる。しかし、ルール(=共通理解)という基盤がある場合とそれがない場合では、スタートラインに大きな差があり、当然その到達点も違ってくるだろう。

後者、つまり俳句のルール=共通理解をもたない読者を、トランプゲームをはじめてプレイするプレイヤーに例えると、先達が初心者に対してどのように接するかが問題となる。
まずはルールの概要を説明し、詳細は実際にプレイしつつ確認していくという手順になるだろうが、俳句の場合、最初にルールの概要を説明する機会が無い場合が多いと思われる。そういう点で、学校教育という場が「ルールの概要説明」の貴重な機会であることは確かなのである。

読者と作者との「自分ルール」の違いは、何を俳句として読み、何を俳句ではないものとして読む(あるいは読まない)か、という問題ともなる。
作者の側から俳句として提出された作品を、ルール違反として失格にする権利を読者は有している。ただしそれは読者個人の「自分ルール」の適用でしかない。
作品に向き合ったとき、作者と読者は対等だと考えている。つまり、作者が作品として提出した情報を尊重すると同時に、作者が作品外の情報として提供するものは参考にするとしても、最終的にそれに左右されることは無いということである。作者が作品を俳句として発表したということを、私は作品に含まれる情報としてとらえているので、それを無視することはできないのである。
極言すれば、作者が俳句として発表した作品はすべて俳句であるということになる。

しかし、すべての作者を無条件に信頼するのかと問われると、必ずしも肯定できないのもまた事実である。たとえば「俳句は有季定型」という知識のみをもって、既存の俳句作品にまったく触れたことのない作者が存在するとしたら、その作者を信頼することを私は躊躇するだろう。もちろん作品そのものから類推して、作者に対する信頼度が上下することもあるだろう。俳句という「ゲーム」の、すべての「自分ルール」に共通する核とは、既存の俳句作品そのものであり、それ以外には無いと私は考えている。

さて、前号の記事にコメントを頂いた匿名氏、獅子鮟鱇氏のお二人が、ともに「外国語俳句」を例に挙げ、季語を俳句のルールとすることに対する反証にされているのが興味深かった。以前にも、どこかでそのような論調を見たことがあり、海外では季語が有効でないことを挙げて、無季俳句を正当化する論拠として使うことは、ポピュラーな論法であるように見受けられる。

ただし、私自身はこの論法に対して慎重な態度をとっている。
世界のさまざまな国で、さまざまな言語による「haiku」が作られ、読まれていることは承知している。また、それらにおいては、日本の風土や伝統的美意識に根ざした季語が必ずしも有効でなく、ルールとして実質的に機能しないであろうことは、その分野に関心が薄い私にとっても、たやすく想像できることである。
しかし、グローバルな「haiku」のルールとして有効ではないということを以て、日本語による俳句の範囲内に適用される、いわばローカルルールとしての季語を否定する論拠とはなりえないだろう。

私が日本語以外の「haiku」に対してあまり関心を持つことができないのは、過去の俳句作品という最も重要な基盤を必ずしも共有できていないからだ。外国語の俳句作家のなかにも、『ハイク・ガイ』の作者デイヴィッド・G.ラヌー氏のように、日本語で日本の俳句を読む人がいることは承知しているが、決して多数派とはいえないだろう。

獅子鮟鱇氏はコメントで「俳句は短いので翻訳がしやすい」と述べておられるが、これに私は賛成できない。
省略という技法が多用されるために生じる多義性、重層性こそが、俳句の最も特徴的な効果であり、細部のニュアンスがより重要な役割をもつ俳句は、長大な散文よりもむしろ「正確に」翻訳することの困難な形式であると思っている。俳句とは何かという問いに対する答えは、俳句作品そのもの以外に無いと考えている私にとって、必ずしもそれを共有していない外国語のhaikuは、それが俳句であるということを否定しないまでも、どこかで枝分かれした別のものであると思う。。

また、匿名氏の挙げておられる海外詠については、虚子の時代からさまざまに議論されてきた。
ただしこれについても、海外において季語は有効でないということ自体を私は疑問視する。四季の無い国もあるし、多くの国で日本と全く異なる美意識の伝統をもっていることも確かである。そこで季語を使わずに俳句を作るという選択肢はもちろんある。だからとって(日本の)俳人が季語を含む俳句のルールから自由になれるわけではない。
加えて、私個人は、俳句は実景、実体験に基づくもの以外容認しないという立場ではないので、海外でその場に存在しない季語を使い句作することにも特段不都合を感じないのである。

前号の結論を繰り返すことになるが、俳句のルールとは、統一されたものではなく、また統一されるべきものでもない。作者も読者も各自に異なる「自分ルール」を持っていることこそが、俳句の多様性につながり、俳句を豊かにすると思っている。
最低限の俳句に対する敬意、あるいは関心を備えていることが条件かもしれないが、どのような作者も読者も対等であり(自ら志願して弟子入りした師に対しては別かもしれないが)すべての「自分ルール」は同じく尊重されるべきものである。したがって、特定のルールを共通のものと考え、それを振りかざして他者の「自分ルール」を脅かそうとする行為には、反対を表明しておきたい。

「有季定型」という、作品の外観にはっきりとあらわれる、わかりやすい尺度を唯一の共通のルールと考えることは、とても楽だし、それさえ守っていれば一応俳句ではあるという安心感を得ることもできる。したがって「有季定型」を信仰し、信仰を脅かすものに対して排他的、権威的に振舞う人々がいなくなることはないだろう。また、そうした人々がいなくなってしまったら、それはそれで困るかもしれない。無季であることによって反骨精神のようなニュアンスを獲得しようとした作品などは無効となるだろう。

付け加えるなら、一部の俳人が学校教育という場において権威的に振舞おうとしたことは、非常にナーバスな問題である。
桑原武夫の所謂「第二芸術論」が今に至るまで多くの俳人から憎悪されているのは、それが「国民学校、中等学校の教育からは、江戸音曲と同じように、俳諧的なものをしめ出してもらいたい」と結論づけられているからだと、私は思っている。

--------------------------------------------------
■関連記事

「季語というルール」について・・・中村安伸   →読む

--------------------------------------------------

2010年10月11日月曜日

「季語というルール」について ・・・中村安伸

■「季語というルール」について
・・・中村安伸

「週刊俳句」の「週俳9月の俳句を読みつつ、季語という「ルール」について又」という記事等で、上田信治氏は「季語はルール」であると書いている。

「季語を入れて五七五で「詩」を作る」のが俳句の与件であるということだ。 俳句と季語の関係は歴史的偶然によるものであり、その有効性や必然性を語らずとも「有季定型」が俳句における前提条件であり、そのような俳句と、個人的な偶然や必然によって出会った以上、それを受け入れるということであろう。

 ただし上田氏は、自分以外の俳人にもその与件を受け入れよと述べているわけではなさそうだ。 

私もまた、有季定型こそ俳句の原則であり、無季俳句や自由律俳句はその原則から逸脱したものであるという見方をしている。
いま「原則」と言い「逸脱」と言ったが、これを「ルール」と言い「違反」と言っても、同じようなことである。

 問題は、この逸脱ないし違反をどのように評価するかということだ。違反のペナルティーを、失格とするか、減点程度のものとするかは個人、あるいは結社、協会などのグループによって異なるだろう。逆に、無季俳句のほうが難しいのだから、成功している作品については、むしろ加点すべきという態度も存在するだろう。つまり、共通のルールは存在せず、俳人それぞれに異なる「自分ルール」を用いているというのが現状である。 

俳人の無季俳句に対するの態度を図式化すれば、おおまかには以下の3つに分けられるだろう。 

1.読者として無季俳句の存在を認め、作者としても無季俳句を作る。 

2.読者としては無季俳句の存在を容認するが、作者としては無季俳句を作らない。 

3.作者としてはもちろん、読者としても無季俳句の存在を認めない。 

ここで「存在を認める」というのは「ルール違反としない」あるいは「ルール違反であるが失格とはしない」の二つの態度を含んでいる。統計をとったわけではないが、2.の態度をとる俳人が最も多いのではないかと体感している。少なくとも3.が圧倒的多数ということではないはずである。 

ちなみに私自身は、上記の態度のうちでは1.をとっている。つまり無季俳句を容認(違反ではあるが失格としない、成功作に関してはむしろ加点)し、自作もしている。ただ、私は自分のこの考えを殊更主張したいわけではない。これもまたひとつの「自分ルール」にすぎないのである。 また、2.や3.の考えを否定するつもりもない。無季俳句に対する態度のみではなく、俳句というゲームを楽しむためのルールが俳人個々に多様に存在することこそが重要である。

無季俳句を容認する俳人が存在するからこそ、その分野が開拓され、すぐれた作品が生まれたのと同様に、有季定型以外は俳句と認めないという立場だからこそ生み出すことのできる作品もあるかもしれない。
私が主張したいのは、それらを一つの共通ルールによって塗りつぶそうという意図に対する違和感である。ただし、3.は1.によって作られた無季俳句を否定するため、衝突が生じるのであるが。 

*

さて、上記のような現状に対し、たとえばサッカーにおけるサッカー協会、スケートにおけるスケート連盟のような立場となるべく立ち上がったのが俳人協会なのかもしれない。 

「週刊俳句」に掲載された「俳句に似たもののゆくえ」(神野紗希)という記事に、俳人協会の副会長・岡田日郎氏の発言が引用されている。詳細は元記事をご覧いただきたいが、これにあわせて「俳句樹」創刊準備号の「「俳句樹」の発足に当たって考えたこと」(筑紫磐井)の「俳人協会に設けられた「学校教育における俳句検討委員会」(西嶋あさ子・仲村青彦・藺草慶子・橘いずみの四氏)は、教科書発行者に対して、有季定型以外の俳句を掲載しないように俳人協会名で要請を行ったのだ」という記述を読むと、ひとつの意図が浮かび上がってくるようだ。 

俳人協会(その全体か、一部かは不明だが)は、有季定型という外見上の特徴を備えない俳句作品は違反であり失格であるというルールを明文化し、共通ルールとしてすべての俳人、ひいては世間一般の人々に普及させようとしているのかもしれない。だとすれば、多くの人にとって俳句への入り口となるであろう初等教育の場に着目したのは、当然の戦略であろう。 

たとえばスポーツ競技であれば、国際試合への参加のためにも、公正な実力評価のためにも、統一されたルールと一元化された国内選手権大会を、ほとんどすべての競技者が欲している。そして、その欲求を基盤として国際ルールに準拠したルールの統一が行われ、一つの国際的に認証された統括団体により、国内選手権大会が運営されることになる。 

しかし、俳人には、俳句に競技としての公正さを求める動機があまり存在しない。つまり、共通のルールは必要とされていないのである。俳人協会がどの程度本気で運動を推し進めようとしているのかわからないが、それを成功に導くための機運は残念ながら存在しないように思える。 
ただし、俳句甲子園等には競技という側面もあるのではあるが。 

*

上田信治氏のブログ「胃のかたち」より「季語は、やっぱりルール」という記事には「季語は、歴史的偶然によって形成されたもの」とある。 確かに俳句と季語が結びついたことには、歴史的偶然が大きく関与しているだろう。そして俳句(俳諧)と結びつくことによって季語の体系がより充実し、成熟したと思われる。

もちろん俳諧以前から季題は存在しており、おなじ季節が翌年もその翌年もくりかえしやってくることに詩情を見出し、月を秋の季題とし、花の代表に桜を位置づけるという美意識が、俳句作品における詩情にひとつの方向性を与えていることは確かだろう。 

その逆に無季俳句は、あるべき季語を有しないことによって、その詩情が規定される。つまり、季語のない五七五の作品があったとして、それを無季俳句として読むか、一行詩として読むかによって読み手の意識のなかには違いが生じる筈である。

 「週刊俳句」の「はっきり言いますが、世の中的には「前衛」は死語です。」(小野裕三)に「結局俳句は「季語」「定型」がなくては成立しない。」とあるが、無季俳句もまた「季語」(という概念)がなくては成立しないのである。 

無季俳句を俳句ではない、つまりルール違反により失格であるとしたなら、作者が無季の作品を俳句であるとして発表した意図は無視されることになる。

読者は作者の作句意図に左右される必要はないが、作品を俳句として発表するか、あるいは一行詩や川柳として発表するか、ということも、作者名と同様に作品の一部と言えるのではないだろうか。それを無視して作品を読むことが適切なのかどうか。

先にもとりあげた「俳句に似たもののゆくえ」(神野紗希)には、鴇田智哉氏の「多くの人が僕の句を、「それは俳句じゃない」と言うのなら、最終的には「俳句」という呼び名にはこだわらないです」(「俳句」角川学芸出版 2010年6月号 特集座談会「若手俳人の季語意識」)という言葉が引用されている。

そうした態度に共感する面もあるが、私個人としては、仮に多くの人が私の作品を「俳句じゃない」と言ったとしても、私が俳句であるとして作り、発表した作品については、やはり最後まで俳句という呼び名にこだわりたい。その呼び名こそが、過去自分が影響を受けた俳句作品に自分の作品が連なっている、あるいはつらなっていたいという意識のあらわれだからである。

*

   「週俳9月の俳句を読みつつ、季語という「ルール」について又」(上田信治)に「芸術行為である俳句に、ルールがあるのは、俳句がゲームから派生した文芸だから。」とある。 最近連句の会に参加させていただくようになったのだが、連句は表現行為である以上に、他者の作品を読み、それに附けあわせるべく作品を作るというコミュニケーションが重要だという感想を持っている。
それをゲームであると言われれば、なるほどそのような感じもするし、さまざまな式目も、ゲームをより楽しむためのルールという見方ができる。

俳句もまた、作者が作品を作り、読者がそれを読むゲームだと考えれば、そこにルールと呼ぶべきものが存在するはずだ。 本来ゲームとは、参加するプレイヤー全員が共通のルールを了解していないと成立しない。しかし、俳句というゲームには審判がいるわけではなく、ルールブックがあるわけでもなく、先述のとおり、各俳人が少しずつ異なる「自分ルール」を採用しているのである。

俳句というゲームに参加するプレイヤーは、他のプレイヤーも同じルールを共有している筈と信じているか、あるいは別のルールを採用していると知ったうえで割り切って、作品を作り、あるいは読むのである。 

さて「俳句というゲーム」と言ったとき、句会を思い浮かべる人も多いかもしれない。
超結社の句会に初参加する際、どのような句を出したらよいのか迷ってしまったという経験を持つ人も多いのではないだろうか。句会においては、メンバーそれぞれの「自分ルール」と、その句会において醸成された「場のルール」の鬩ぎ合いが発生する。

メンバーそれぞれが場のルールの醸成に加担しつつ、自らのルールを場のルールにあわせていったり、違和感を残したままで参加を続けたり、あるいは離れていくということになる。 ただし、句会ではある程度、その場でルールのすり合わせを行うことも可能である。雑誌等に俳句作品を発表する場合もまた、想定される読者の傾向にあわせて句を選ぶことがあるだろう。しかし最終的には自分自身のルールに基づいて作品を選び、発表するほかなく、読者には読者のルールに従って判断してもらうほかない。 

俳句のルールのなかでも有季定型のように、外見上わかりやすいものもあるが、これまで観たとおり、それに関してすら見解はひとつではない。しかし、俳人個々の自分ルールのなかにも漠然とした共通部分はあるはずで、それこそが俳句を俳句たらしめている「俳句性」あるいは「俳句の本質」であると言えるかもしれない。 

先日俳句結社「天為」の二十周年記念大会において行われたシンポジウムで、俳句の新しみとは何かを問われた岸本尚毅氏が、ある司法関係者の言を引用し「わいせつという概念を説明することは難しいが、見ればわかる、それと同様に何が新しいかも、前もって説明することは困難だが、あとから見れば一目瞭然のはず」といったような発言をされていたが、俳句の本質もまた、それを説明することは難しいが、俳句作品を読み、作ることによってのみ感じとれるものなのかもしれない。

*

季語に関する俳句のルールは「有季定型」のみではない。もっと重要で、しかもほとんどすべての俳人に無意識のうちに承認されているルールがある。
それは「作品に季語が使われていたら、それを季語として扱わなければならない」というものである。季語を季語として読むという前提があるために、月の句は秋の空気感をともなって読まれるのであり、作者もそのつもりで作品を作る。すなわち、ルールに従う読者を前提としてはじめて、作者は季語をツールや詩嚢として活用することが可能になる。
当たり前のように聞こえるかもしれないが、俳句とまったく接点のない人からすると、必ずしも簡単ではないルールである。

季語や切れなど、俳句の読み方に関するさまざまなルールの存在は、俳人以外の、俳句に関心のない人が虚心坦懐に俳句作品に触れるに際して障壁となる場合もあるだろう。 それについては稿を改めることとしたい。

2010年9月25日土曜日

「WORLD HAPPINESS 2010」吟行記 ・・・中村安伸/宮崎斗士

■「WORLD HAPPINESS 2010」吟行記
・・・中村安伸/宮崎斗士

老若男女が楽しめるライヴ・イヴェントとして人気を集めている野外音楽フェスティヴァル〈WORLD HAPPINESS〉が、今年も8月8日に東京・夢の島公園陸上競技場にて開催されることがあきらかとなった。(TOWER RECORDS ON LINEより)

8月8日、夢の島公園陸上競技場(東京)にて、今年で3年目となる野外フェスティバル「WORLD HAPPINESS 2010」が開催された。Yellow Magic Orchestraをはじめとする全16組が出演し、会場には大人から子どもまで様々な客層が集まった。(livedoorニュースより)

当日は曇り空にときどきぱらぱらと細かな雨が降るという、おそらく真夏の野外フェスティバルとしては最高の気候だったのだろう。おそらくというのは、こうした野外フェスティバルに参加すること自体はじめての経験だったからだ。前日までの気候を考えると、当然のごとく猛暑が予想されたし、そのなかで8時間--日が落ちれば多少は涼しくなるはずにせよ--を過ごすと一体どんなことが起きるか、正直言って心配だった。
幸い暑さを感じることはほとんどなかったが、通常これだけの数のアーティストが登場すると、なかには興味をもてない人も混じっていたりして、そのタイミングで休憩できそうなものだが、幸か不幸かそういった時間がなかった。バラエティに富んだ質の高いステージの数々に、思ったよりも早く時間が過ぎていった。(中村安伸)

『俳句樹』を立ち上げるに当たって、何か創刊号の特別企画をと考えていた最中、このイベントが目にとまった。野外コンサート吟行というアイデア、中村くんも快く賛同してくれた。コンサートを観ながら俳句を作るというのは初めてだ。でも充実していた。普通に観ているよりもずっと面白かったと思う。ホールのコンサートだとたいてい場内真っ暗になっちゃうから、メモとったりするのけっこう大変だけれど、野外だからね。猛暑を心配して、いろいろ冷却グッズを持参したが、ほとんど使わなかった。中村くんも書いているように、本当に過ごしやすい一日だった。
天に感謝。参加アーティスト、スタッフの皆様に感謝。(宮崎斗士)



WORLD HAPPINESS 2010
2010/8/8 11:30開場 12:30開演



12:30~ にほんのうた楽団
01.浜辺の歌
02.赤とんぼ
03.椰子の実
04.からたちの花
05.かもめの水兵さん

宮崎:開演の50分前ぐらいに会場に着いていたのに、長い列に並ばされて、入場するまで一時間以上かかった。あれは仕方のないことなのだろうか。公演のトップバッターには気の毒だ。最後の「かもめの水兵さん」の途中から聴けた。ボーカルの小池さん、澄んだいい声だった。

中村:「かもめの水兵さん」のヴォーカルが耳から離れません。



12:50~ LOVE PSYCHEDELICO
01.Freedom
02.Shadow Behind
03.Abbot Kinney
04.Your Song
05.LADY MADONNA

宮崎:いい意味でルーズ、でも安定感があって好きなバンド。ボーカルのKUMI、何というかとても魅力的な表情。

中村:普通に良かった。KUMIのキャラクターがその立ち姿から伺えた。

ボーカリストKUMI鼻濁音蛭のよう 斗士
パイナップルの味だらだらと泣きぼくろ 斗士
ガム噛んで牛馬を冷やすギタリスト 斗士
中村:一句目の「蛭のよう」二句めの「パイナップルの味」それぞれがこのバンド、というかKUMIの一面を表していると思う。二句をセットとして 味わいたい。三句目は吟行句として読むのでなく「牛馬を冷やすギタリスト」を想像して面白かった。

秋風に佇つやマイクを旗と思ひ 安伸
宮崎:KUMIの存在感と際立つ音楽性が描かれている。「旗」が爽やかに靡く。効いている。



13:20~ 清竜人
01.ワールド
02.ぼくらつながっているんだな
03.ジョンLフライの嘘
04.痛いよ

中村:お坊ちゃま的なキャラクターを全面に押し出す一方で、ストレートな歌詞が若干恥ずかしい。女性ベーシストが素敵だった。

宮崎:「愛は勝つ」のKANや槇原敬之に近い音楽性。親しみ、好感は持てる。

むかしをとこ何不自由なくピアノ弾く 安伸
宮崎:「伊勢物語」とは渋いところを持ってきた。佇まいの良さが読み取れる。

噴水のよう半ズボンのピアニスト 斗士
目を閉じてもしゃぼん玉どっさりの八月 斗士
中村:たしかに「半ズボン」履いてました。「噴水」「しゃぼん玉」が彼のキラキラした若々しさを反映している。



13:40~ MONGOL800
01.あなたに
02.Don't Worry be Happy
03.小さな恋のうた
04.神様
05.矛盾の上に咲く花
06.PARTY

中村:好き嫌いは別として、密度の高い、パワフルなステージに圧倒された。

MONGOL800団扇で飛べそうな少女 斗士
中村:これはとても良い。当日の会場全体の昂揚感が出ている。
宮崎:メンバー達のざっくばらんなキャラクターとストレートな音で会場が沸いた。近くにいた女の子が、本当にこういうノリで両手でうちわを振り回して盛り上がっていた。

三人のよく働いてゐる残暑 安伸
宮崎:「働いてゐる」とはまさに言い得て妙。パワフルさがうまく出た。



14:15~ 大橋トリオ
01.MUSIC AROUND ME
02.はだかの王様
03.そんなことがすてきです
04.Happy Trail

中村:文学青年っぽい雰囲気で音楽的にも好みだった。ただ、強力なアーティスト二組に挟まれたこともあり、インパクト不足は否めない。

宮崎:一人でも「トリオ」という名前らしい。曲調、「はっぴいえんど」っぽい印象を受けた。中村くんの「文学性がある」という意見に同感。

秋風を書物を積みて防ぐなり 安伸
宮崎:まさに文学青年っぽさが出ている。「秋風を防ぐ」に面白い屈折。

ウッドベース微妙な空と少年と 斗士
夢のはじまり紫色の夏帽子 斗士
中村:「ウッドベース」「紫色の夏帽子」は、大橋トリオにとって象徴的なアイテム。繊細で叙情的な雰囲気が表現された二句。



14:35~ Cocco
01.強く儚い者たち
02.樹海の糸
03.ニライカナイ
04.蝶の舞う
05.絹ずれ

宮崎:やはりすごい存在感、歌の力があった。歌に込められた「思い」の量が尋常ではないのだろう。「こっこといいます。沖縄の女です」というMCにもシビれた。

中村:「ヴォーカリストの楽器は肉体である」などと言うとオペラ歌手の豊満な体躯などを想像してしまうが、そうしたイメージを覆された。Coccoが 細い身体を揺らして、信じられないくらいパワフルな声を搾り出す様子は圧倒的。なつかしい曲も聞くことができて、当時のことを思い出したりなども。

全身は楽器なり夏服が邪魔 安伸
宮崎:「夏服が邪魔」という措辞が佳い。「全身が楽器なり」の迫力を好フォロー。

スフィンクス顔痩せぎす平和歌うために 斗士
「オキナワの女です」夏が止まってまた始まる 斗士
骨で歌って目は夏っぽく空ろなり 斗士
歌う時いきなり泣けるから裸足 斗士
オキナワの歌鎖骨と顔と鎖骨かな 斗士
沖縄1945顔にざぶんと髪かかる 斗士
中村:「骨で歌って」「鎖骨と顔と鎖骨」というフレーズはCoccoの歌唱を端的にあらわしていて秀逸。六句めの「ざぶん」もいい。一方で「平和」「オキナワ」というような言葉が生で入ってくると句は弱くなる。



15:10~ カヒミ・カリィ
01.Nouveau Paradis
02.Time Travelers
03.I come here
04.Love is the fruits

中村:脚を組んで椅子に腰掛け、ささやくような声で歌唱。洗練し、確立させたスタイルに対する自負を感じた。ただ、ひとつ間違うと滑稽になりかねないギリギリのバランスかも。

宮崎:透明であるとか、繊細であるとかのキャラクターに徹している。武道の世界にも通じるような緊迫感。

森にかこまれ吐息のことごとく砂丘 斗士
カヒミ・カリィ淋しさは鱗粉になる 斗士
夏惜しむマイクに口づけした回数 斗士
中村:三句とも好き。カヒミ・カリィの美意識に触発された幻想的な句群。ステージ上で孤高を演じる彼女のたたずまいが思い起こされる。

立秋の風だけ入れるマイクかな 安伸
宮崎:「立秋の風」がぴたりと嵌まる。あのアンニュイさ、よく捉えられている。



15:30~ RHYMESTER
01.スタンバイ・チューン
02.ONCE AGAIN
03.ライムスターイズインザハウス
04.ちょうどいい
05.WACK WACK RHYTHM ISLAND

中村:なぜか硬派というイメージを持っていたが、意外なほどのエンターテイナーぶりに驚いた。ヒップホップのお祭り騒ぎ的な楽しさを短いステージ の間に感じさせてもらった。私の句は職人肌のDJに着目。

十本の指は野分を奏でるや 安伸
宮崎:ターンテーブルを操る指。「野分」と彼らの音楽性とが好配合。

ラッパ-の僧侶顔にて泉かな 斗士
ターンテーブル燕の子のように小刻み 斗士
宮崎:ラッパ-の宇多丸さんのセンス、キャラクターに惹かれた。軽妙洒脱なMCに場内も大ウケ。ワンマン公演にも機会があればぜひ行ってみたい。
中村:「ラッパーの僧侶顔」僧侶兼ミュージシャン、僧侶兼俳人などは少なからず存在しているが「僧侶顔」は省略も効いていて笑える。



16:00~ 口口口(クチロロ)
01.everyday
02.Everyday is a Symphony
03.ヒップホップの初期衝動
04.0:00:00

中村:いとうせいこう氏が好きなので期待大だったが、良くも悪くも素人っぽい。最後の曲、時報を使ったアイデアはとてもよかったが、ヴォーカルが若干自己陶酔ぎみだったせいか、ちょっと醒めてしまった。

空蝉と何度も舌を出す歌手と 斗士
向日葵やずっと時報のサンプリング 斗士
宮崎:四曲目の「0:00:00」が時報を多用した曲で、その着想に惹かれた。あと、口口口(クチロロ)というユニット名にはやはり唸らされた。この名前のインパクト、面白さに叶う音楽性というのもなかなか難しそうだ。

時報てふ告白のあり秋の水 安伸
宮崎:時報のあのよく通る声、クリアな感じに、「告白」のニュアンスって確かにある。これは気がつかなかった。やられた!という感じ。「秋の水」も上五中七といい距離感。



16:20~ pupa
01.dreaming pupa
02.Changing Skies
03.Azalea
04.Anywhere
05.Mr. Epigone
06.Meta

中村:私にとっては原田知世のコケティッシュさがすべて。

アイドルの涼しさを言ふ身ぶりかな 安伸
宮崎:pupaのボーカルは原田知世。「涼しさを言ふ身ぶり」というフレーズ、知世っぽさがうまく出ている。もう四十代(!)ではあるが、時をかけてきて、まだまだアイドル。そして変わらぬいい「涼しさ」がある。

羽蟻這う音だ知世という人形 斗士
pupaの音知世ほどよく蛍かな 斗士
宮崎:ステージ上で知世が何か「点滅」しているような印象を受けた。中村くんに「WORLD HAPPINESS知世ほどよく蛍かな、ではどうですか」と言われ、あ、そっちのほうがいいかも、と思った。  
中村:「知世という人形」はややストレートすぎたか。「羽蟻這う音」のかそけさはわかる。「知世ほどよく蛍」は良い把握。しかし、一句中に「pupa」「知世」と固有名詞ふたつを詰め込むのは厳しい。



16:55~ 安藤裕子
01.のうぜんかつら
02.私は雨の日の夕暮れみたいだ
03.黒い車
04.歩く

中村:女性ヴォーカリスト好きの私としては注目の一人。ただし、Coccoが先に出ているので、比較するとインパクトはやや弱い。Coccoが余分なものをそぎ落として巫女に近い存在になっているのに対し、良くも悪くも現世的な女の情感が強調されている。それが魅力でもある。

青空を歌う泣き声糸瓜咲く 斗士
ほたるぶくろまだ新米の雨女 斗士
宮崎:「泣き声」「雨女」というキーワードが浮かんできて、それに沿って句を作った。
中村:一句目の「青空」と「泣き声」のバランスがよい。二句目の「新米の雨女」というフレーズに彼女の生硬さとウエットさがよく出ている。

雨よりも纎きを束ねたる裸 安伸
宮崎:とても好きな一句。安藤裕子さん、きっと喜ぶと思う。彼女の持つ「雨っぽさ」をさらに展開、彼女の曲の世界観がきっちり出ている。



17:15~ ムーンライダーズ guest.小島麻由美
01.くれない埠頭
02.タブラ・ラサ ~when rock was young~
03.I hate you and I love you
04.ゲゲゲの女房のうた
05.日曜はダメよ
06.マスカットココナツバナナメロン

中村:肩の力が抜け、淡々とした大人のステージ。小島麻由美はこの日登場した多くの女性ボーカリストのなかでも、もしかしたら一番好きかもしれない。バランスよく熟した感じで。特に「マスカットココナツバナナメロン」はもともと彼女の歌だったんじゃないかと思うほど。

月に乗るその前に夕焼けを呼びぬ 安伸
宮崎:一曲目「くれない埠頭」からの詩想だろうか。美しい流れの一句。

ムーンライダーズ今もしっかり天気雨 斗士
長い長い前奏昼顔にも似たり 斗士
白髪ロッカー自由自在に土用波 斗士
宮崎:以前からムーンライダーズには「天気雨」的なノリを感じていた。実際に観たのは今回が初めてだが、その感じはけっこう当たっていた。小島麻由美は昔からファンで、ソロコンサートにも行ったことがある。あの声質にとても惹かれている。
中村:一句目の「天気雨」は当日の天候も表しているか。ちょうど夕暮れ時で、天候までもステージの演出の一部と思わせるような自在さがあった。三句目の「自由自在」にもあらわれているように。



17:50~ サカナクション
01.21.1
02.アルクアラウンド
03.アイデンティティ
04.ナイトフィッシングイズグッド

中村:この日最も気に入ったステージがこのサカナクション。なんといっても女性ベーシストの草刈愛美さんが最高でした。幅広く存在感のある音作り。ただでさえ女性のベーシストというだけで注目してしまうのだが、そんなレベルははるかに超えていた。もちろんYMOをはじめとする先輩をめいっぱいリスペクトする山口一郎の謙虚なキャラも大好き。

宮崎:ノリのいい美味しいチューン連発。場内が沸きに沸いた。ボーカルの山口一郎は朴訥で真面目そうなキャラクター(後日、NHK教育テレビ「佐野元春のザ・ソングライターズ」の彼が出演した回を観て、一層その印象を強めた)。俳句が好きらしい(Wikipediaより)。『俳句樹』にも、ぜひ一度訪ねてきてほしい。

飛魚やアイデンティティという語感 斗士
タオル地の少女とサカナクションの歌 斗士
中村:一句目「飛魚」が効いていて「アイデンティティ」をサカナクションの曲と意識しなくてもいい句。二句目「タオル地の少女」は面白いが「の歌」はもうちょっとうまい処理の仕方があるようにも。

大西日音楽を処女懐胎す 安伸
宮崎:え?
中村:愛美様への思い入れが強すぎたかな?



18:10~ 東京スカパラダイスオーケストラ
01.Like Jazz On Fire
02.DOWN BEAT STOMP
03.WORLD SKA CRUISE
04.Absolute Ego Dance
05.STORM RIDER
06.Pride Of Lions
07.愛の讃歌

中村:円熟のエンターテイナーぶりを発揮し、観客の盛り上がりは最高潮に。しかし私は若干疲れていたし、なにかを強要されると反発したくなる性分もあり、すこしばかり醒めた。

管楽器の十四五本もありて涼し 安伸
宮崎:子規のパロディ句。「涼し」から管楽器独特の質感を受け取る。

黒衣と金管汗という汗夢の島に 斗士
目を閉じてトランペッター驟雨する 斗士
宮崎:サカナクションで沸いた場内に、さらに油を注ぐ。演奏者ひとりひとりのソロの時間に、「見せ方」の個性が出ていて面白い。これでもかこれでもかのサービス精神、そしてクオリティを感じた。
中村:一句目の佶屈なリズムは、スカパラ特有の若干の押し付けがましさに通じている。二句目「目を閉じて」「驟雨する」にソロ演奏者の陶酔感が透けて見える。



18:45~ プラスチックス
01.COPY
02.DELICIOUS
03.PEACE
04.DIAMOND HEAD
05.CARDS
06.TOP SECRET MAN

中村:彼らの活躍をリアルタイムでは知らないのだが、youtube等で予習し、チープでさわがしい感じを面白く思った。ヴォーカリストの女性は当時のボーカリストの娘ということだったが、一生懸命当時のノリを再現しようとしていてなかなかにキュートだった。一方で、人間なのリズムマシン以上にマシンライクな屋敷豪太のドラムは驚異そのもの。力の入れどころが他のどのグループとも違っていた。

次々とパラソル開くテクノポップ 斗士
宮崎:30周年での再始動ということだが、僕は1983年にプラスチックスを日本武道館で観たことがある(シーナ&ロケッツ、RCサクセションと のジョイントコンサート)。その時もパラソル開く系のハデさ、美意識を感じていたのだと思う。
中村:「次々とパラソル開く」に性急さとペラペラした感じが出ている。

細密に悪夢を演ず秋の夜の 安伸
宮崎:なるほど、確かに「悪夢」っぽさもあり。「細密に」がリズム隊のクオリティを表現している。



19:15~ Yellow Magic Orchestra with 小山田圭吾・高田漣・権藤知彦   
guest.Crystal Kay
01.LOTUS LOVE
02.Day Tripper
03.音楽
04.体操
05.千のナイフ
06.BEHIND THE MASK
07.Tibetan Dance
08.Thank You For Talkin' To Me Africa
09.Rydeen
10.Fire Cracker
11.Hello Good-By

中村:サポートメンバーを含めて、おそらく日本屈指の完成度をほこる「バンド」ではないだろうか。曲も「BGM」や「テクノデリック」といった もっとも充実していた時代アルバムから多く演奏してくれた。「体操」では体操服姿のダンサーが登場、教授が拡声器を使って号令をかけていた。

体操の白服痛いほど照らされ 安伸
宮崎:「痛いほど照らされ」の措辞にYMOならではのキッチュさが表われる。しかし四曲目「体操」よくやってくれたなー。凄い五十代後半、六十代前半だ。歓喜。

蓮の花三人並んでいる普通 斗士
音楽は蜜幸宏の蝶ネクタイ 斗士
ボーカル細野鯰はゆっくりと豊か 斗士
教授まだまだ青梅弾んでおり鍵盤 斗士
ライディーン体のどこかまだ中2 斗士
夏の終わりは細野の深々とおじぎ 斗士
宮崎:一句目の「蓮の花」は「LOTUS LOVE」から。いやもう、三十年来のファンなもので‥‥。あの三人が並んでいるだけで、いろいろな思い出が頭の中を駆け巡る。ぜひこの景色、彼らが七十代 になっても八十代になっても‥‥と祈らずにはいられない。
中村:「YMOの三人が集うことは二度とないだろう」と思われた時期もあった。一句目の「普通」は、三人が並んでいることの貴重さを裏返した表現であり、感慨深い。三句目、細野氏のヴォーカルの独特の味わいを、これまた独特の比喩で表した。五句目にも共感する。幼少時に夢中になった音楽はもう、身体の一部としか言いようがない。


WORLD HAPPINESS 2010
http://www.world-happiness.com/

参加アーティスト紹介
http://world-happiness.com/artist/

-------------------------------------------------

2010年9月10日金曜日

俳句樹・創刊の辞/中村安伸

■俳句樹・創刊の辞
「俳句樹」に寄せて
・・・中村安伸

今回発足することになった「俳句樹」は「海程」「豈」合同のブログであるというだけではなく、先日100号をもって終刊した「―俳句空間―豈weekly」を継承するものです。

「―俳句空間―豈weekly」は「豈」という同人誌の範囲内におさまるものではありませんでした。
したがって、今回発足する「俳句樹」も「海程」「豈」内部のみへの発信を目的としたものではなく、執筆者についても、これを幅広く求めたいと思っております。

ただ、具体的に「俳句樹」が「―俳句空間―豈weekly」のどの部分を受け継ぎ、どのような点で異なるものとなるか、現時点では予想できない部分が大きいと言わざるをえません。

確かに言えることは、ブログのレイアウトや管理方法という点で、これまでの「―俳句空間―豈weekly」のノウハウをかなりの部分踏襲しているということです。つまり、その源流をたどれば「週刊俳句」のそれに行き着くということになります。

「俳句樹」というタイトルは、私の発案によるもので、俳人の師系をしめす系統樹のイメージが発想のヒントになりました。
言うまでもなく、俳句をめぐる人と人とのつながりは、師弟関係ばかりではありません。
私淑、同志、ライヴァル、宿敵、ファン、アンチ、等々。
これらの関係のベースには「俳句作品を読む」という行為があると私は思っています。

人と人、作品と読者とのつながりが、この「俳句樹」という場を中心に、大樹の枝葉のように大きく広がり、高く伸びてゆけば良いですね。