■俳句樹・創刊の辞
「俳句樹」の発足に当たって考えたこと
・・・「豈」発行人 筑紫磐井
本年4月に金子兜太氏に招かれて、「海程」の秩父道場の合宿へ参加した。過去、仁平勝、池田澄子が招かれたように、やたらに「豈」の関係者の参加が多い。特に今回は3時間ほど与えられた講演時間の中で、「豈」のなりたちと私との関係、詩歌界で注目を浴びている『新撰21』の刊行の経緯、そして戦後俳句における金子兜太と「海程」の意義などを兜太氏と語り合った挙げ句、私が「豈」の発行人ということもあったろうか、兜太氏から、これからは「豈」と「海程」の若手の協力を深めなければならないと満座の席で宣言された。既に、「海程」のホームページでもこの経緯は紹介されているようでありご覧頂いているかも知れない。
昔の経緯を知る同人は減ったものの、高柳重信を知る同人の多い「豈」と兜太氏の主宰する「海程」の協力はある意味で歴史的な事件と言わねばならないであろう。ジャーナリスティックには前衛俳句という呼称で括られたものの、お互いの意識は根本的にかなり異なっていた。しかしだからといって今回の協力が無思想な野合であるはずはなく、無季俳句を基底とする俳句のあり方に対する根源を問い直そうとする意識が背景にはあると思っている。
例えば兜太氏の、あまりにも有名で我々があまり読み込んでこなかった評論を再読してみる価値があると思っている。例えば「造型俳句論」(昭和34年)は前衛俳句を指導したとされるが、我々に先ず興味があることは、「諷詠派」(ホトトギス、馬酔木、石田波郷ら)と対峙される「主体派」としての加藤楸邨・中村草田男・新興俳句という図式を提示したことである(「俳句研究」秋の号に執筆済み)。これにより、「俳句の前衛性」のあり方を現在も摘出しているのだと見ることで、我々(『新撰21』の20代世代も含む)の俳句の議論の基礎がおかれると思われるのである。そう、石田波郷をのぞく(楸邨・草田男の)人間探究派は所謂前衛派である、断じて伝統派ではない。それは虚子も断言していることであった(「虚子俳話」)。
だからこれは(「豈」と「海程」が協力するからと言って)何も偏狭な無季俳句派の野合ではない。季語や伝統を深く考察する(無思想に実践するのではない)ことによりあるべき俳句を各自提案する可能性をもちたいということである。
旧聞に属することだが、俳人協会に設けられた「学校教育における俳句検討委員会」(西嶋あさ子・仲村青彦・藺草慶子・橘いずみの四氏)は、教科書発行者に対して、有季定型以外の俳句を掲載しないように俳人協会名で要請を行ったのだ(「俳句文学館」一九九九年九月)。さすがにこの要請により俳句の掲載を限定した出版社があったとは聞いていない。しかし結果はどうであれ、表現者である俳人自身が外部者に規制を要請するのは自殺行為に等しい。一例であるが、「豈」と「海程」が考えるべきことには、まずこうした風潮に対する問題もあると思うのである。
そうした協力の第一歩として、新しいブログの発足が候補に挙がった。「―俳句空間―豈weekly」が高山れおな・中村安伸氏によって開始される時、そう長くは続かないと思われた。毎週律儀に刊行はされるものの彼ら自身の負担は相当なものであったろう。だから100回をもって終刊されるのは、読者にとっては心残りであろうが、やむを得ないことである。ブログなど義務でやるものではないからである。しかし、「豈」と「海程」の新しいメンバーで意欲に満ちて新ブログが立ち上がり、それが「―俳句空間―豈weekly」の意志をある程度引き継ぐならば、執筆者にとって歓迎であることは間違いない。近く、『新撰21』の続編、というよりは超越版『超新撰21』が刊行される予定であるだけに新ブログの誕生はいい議論の場を与えてくれるだろう。また、短歌、俳句、自由詩の交流を目指す詩歌梁山泊の活動もこの場と協調しながら進むことになるであろう。
もちろん、これは私の勝手な期待であり、本当の趣旨は管理人の宮崎斗士氏、中村安伸氏が述べる創刊の辞を読んでいただきたい。
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妄想ついでにひとつ。このブログの登場が「豈」と「海程」という雑誌にどういう影響を与えるかはまだ分からない。ただ言えるのは、媒体としては全く無関係であるが、登場する人々はかなり重複していると言うことである。「―俳句空間―豈weekly」の創刊にあたり雑誌の「豈」とは関係ないと述べたら「週刊俳句」のさいばら天気氏から、疑義が呈された。これについては元の管理人に聞かねば分からない。しかし、雑誌からブログへの影響はないが、逆はどうか。むしろそれこそ、何らの影響もないと考えるのも不自然なことである(と、発行人は思う)。ブログが雑誌を変える、それもいかにも現代らしい状況である。
さてそうした中で、「豈」と「海程」の共通コンセプトを探すと何だろうか。それを考えるのがこのブログの役割かもしれないが、「俳句は前衛である」などというのも一つの課題かもしれないと思っている(「海程」の若手が、前衛俳句は死んだ、と叫んでいるのを承知して云うのだが)。挑発的な箴言集を掲げたい。
①俳句とは前衛である。(これは金子兜太説に近いかもしれない)
②有季前衛派もわるくはない。(これは私の説である)
③伝統俳句は滅びる。仮に有季定型俳句は残っても、伝統俳句は滅ぶ。(残念ながらこれは私の主張ではなくて、俳人協会理事長を務めた草間時彦の主張である)
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