■「季語というルール」について
・・・中村安伸
「週刊俳句」の「週俳9月の俳句を読みつつ、季語という「ルール」について又」という記事等で、上田信治氏は「季語はルール」であると書いている。
「季語を入れて五七五で「詩」を作る」のが俳句の与件であるということだ。
俳句と季語の関係は歴史的偶然によるものであり、その有効性や必然性を語らずとも「有季定型」が俳句における前提条件であり、そのような俳句と、個人的な偶然や必然によって出会った以上、それを受け入れるということであろう。
ただし上田氏は、自分以外の俳人にもその与件を受け入れよと述べているわけではなさそうだ。
私もまた、有季定型こそ俳句の原則であり、無季俳句や自由律俳句はその原則から逸脱したものであるという見方をしている。
いま「原則」と言い「逸脱」と言ったが、これを「ルール」と言い「違反」と言っても、同じようなことである。
問題は、この逸脱ないし違反をどのように評価するかということだ。違反のペナルティーを、失格とするか、減点程度のものとするかは個人、あるいは結社、協会などのグループによって異なるだろう。逆に、無季俳句のほうが難しいのだから、成功している作品については、むしろ加点すべきという態度も存在するだろう。つまり、共通のルールは存在せず、俳人それぞれに異なる「自分ルール」を用いているというのが現状である。
俳人の無季俳句に対するの態度を図式化すれば、おおまかには以下の3つに分けられるだろう。
1.読者として無季俳句の存在を認め、作者としても無季俳句を作る。
2.読者としては無季俳句の存在を容認するが、作者としては無季俳句を作らない。
3.作者としてはもちろん、読者としても無季俳句の存在を認めない。
ここで「存在を認める」というのは「ルール違反としない」あるいは「ルール違反であるが失格とはしない」の二つの態度を含んでいる。統計をとったわけではないが、2.の態度をとる俳人が最も多いのではないかと体感している。少なくとも3.が圧倒的多数ということではないはずである。
ちなみに私自身は、上記の態度のうちでは1.をとっている。つまり無季俳句を容認(違反ではあるが失格としない、成功作に関してはむしろ加点)し、自作もしている。ただ、私は自分のこの考えを殊更主張したいわけではない。これもまたひとつの「自分ルール」にすぎないのである。
また、2.や3.の考えを否定するつもりもない。無季俳句に対する態度のみではなく、俳句というゲームを楽しむためのルールが俳人個々に多様に存在することこそが重要である。
無季俳句を容認する俳人が存在するからこそ、その分野が開拓され、すぐれた作品が生まれたのと同様に、有季定型以外は俳句と認めないという立場だからこそ生み出すことのできる作品もあるかもしれない。
私が主張したいのは、それらを一つの共通ルールによって塗りつぶそうという意図に対する違和感である。ただし、3.は1.によって作られた無季俳句を否定するため、衝突が生じるのであるが。
*
さて、上記のような現状に対し、たとえばサッカーにおけるサッカー協会、スケートにおけるスケート連盟のような立場となるべく立ち上がったのが俳人協会なのかもしれない。
「週刊俳句」に掲載された「俳句に似たもののゆくえ」(神野紗希)という記事に、俳人協会の副会長・岡田日郎氏の発言が引用されている。詳細は元記事をご覧いただきたいが、これにあわせて「俳句樹」創刊準備号の「「俳句樹」の発足に当たって考えたこと」(筑紫磐井)の「俳人協会に設けられた「学校教育における俳句検討委員会」(西嶋あさ子・仲村青彦・藺草慶子・橘いずみの四氏)は、教科書発行者に対して、有季定型以外の俳句を掲載しないように俳人協会名で要請を行ったのだ」という記述を読むと、ひとつの意図が浮かび上がってくるようだ。
俳人協会(その全体か、一部かは不明だが)は、有季定型という外見上の特徴を備えない俳句作品は違反であり失格であるというルールを明文化し、共通ルールとしてすべての俳人、ひいては世間一般の人々に普及させようとしているのかもしれない。だとすれば、多くの人にとって俳句への入り口となるであろう初等教育の場に着目したのは、当然の戦略であろう。
たとえばスポーツ競技であれば、国際試合への参加のためにも、公正な実力評価のためにも、統一されたルールと一元化された国内選手権大会を、ほとんどすべての競技者が欲している。そして、その欲求を基盤として国際ルールに準拠したルールの統一が行われ、一つの国際的に認証された統括団体により、国内選手権大会が運営されることになる。
しかし、俳人には、俳句に競技としての公正さを求める動機があまり存在しない。つまり、共通のルールは必要とされていないのである。俳人協会がどの程度本気で運動を推し進めようとしているのかわからないが、それを成功に導くための機運は残念ながら存在しないように思える。
ただし、俳句甲子園等には競技という側面もあるのではあるが。
*
上田信治氏のブログ「胃のかたち」より「季語は、やっぱりルール」という記事には「季語は、歴史的偶然によって形成されたもの」とある。
確かに俳句と季語が結びついたことには、歴史的偶然が大きく関与しているだろう。そして俳句(俳諧)と結びつくことによって季語の体系がより充実し、成熟したと思われる。
もちろん俳諧以前から季題は存在しており、おなじ季節が翌年もその翌年もくりかえしやってくることに詩情を見出し、月を秋の季題とし、花の代表に桜を位置づけるという美意識が、俳句作品における詩情にひとつの方向性を与えていることは確かだろう。
その逆に無季俳句は、あるべき季語を有しないことによって、その詩情が規定される。つまり、季語のない五七五の作品があったとして、それを無季俳句として読むか、一行詩として読むかによって読み手の意識のなかには違いが生じる筈である。
「週刊俳句」の「はっきり言いますが、世の中的には「前衛」は死語です。」(小野裕三)に「結局俳句は「季語」「定型」がなくては成立しない。」とあるが、無季俳句もまた「季語」(という概念)がなくては成立しないのである。
無季俳句を俳句ではない、つまりルール違反により失格であるとしたなら、作者が無季の作品を俳句であるとして発表した意図は無視されることになる。
読者は作者の作句意図に左右される必要はないが、作品を俳句として発表するか、あるいは一行詩や川柳として発表するか、ということも、作者名と同様に作品の一部と言えるのではないだろうか。それを無視して作品を読むことが適切なのかどうか。
先にもとりあげた「俳句に似たもののゆくえ」(神野紗希)には、鴇田智哉氏の「多くの人が僕の句を、「それは俳句じゃない」と言うのなら、最終的には「俳句」という呼び名にはこだわらないです」(「俳句」角川学芸出版 2010年6月号 特集座談会「若手俳人の季語意識」)という言葉が引用されている。
そうした態度に共感する面もあるが、私個人としては、仮に多くの人が私の作品を「俳句じゃない」と言ったとしても、私が俳句であるとして作り、発表した作品については、やはり最後まで俳句という呼び名にこだわりたい。その呼び名こそが、過去自分が影響を受けた俳句作品に自分の作品が連なっている、あるいはつらなっていたいという意識のあらわれだからである。
*
「週俳9月の俳句を読みつつ、季語という「ルール」について又」(上田信治)に「芸術行為である俳句に、ルールがあるのは、俳句がゲームから派生した文芸だから。」とある。
最近連句の会に参加させていただくようになったのだが、連句は表現行為である以上に、他者の作品を読み、それに附けあわせるべく作品を作るというコミュニケーションが重要だという感想を持っている。
それをゲームであると言われれば、なるほどそのような感じもするし、さまざまな式目も、ゲームをより楽しむためのルールという見方ができる。
俳句もまた、作者が作品を作り、読者がそれを読むゲームだと考えれば、そこにルールと呼ぶべきものが存在するはずだ。
本来ゲームとは、参加するプレイヤー全員が共通のルールを了解していないと成立しない。しかし、俳句というゲームには審判がいるわけではなく、ルールブックがあるわけでもなく、先述のとおり、各俳人が少しずつ異なる「自分ルール」を採用しているのである。
俳句というゲームに参加するプレイヤーは、他のプレイヤーも同じルールを共有している筈と信じているか、あるいは別のルールを採用していると知ったうえで割り切って、作品を作り、あるいは読むのである。
さて「俳句というゲーム」と言ったとき、句会を思い浮かべる人も多いかもしれない。
超結社の句会に初参加する際、どのような句を出したらよいのか迷ってしまったという経験を持つ人も多いのではないだろうか。句会においては、メンバーそれぞれの「自分ルール」と、その句会において醸成された「場のルール」の鬩ぎ合いが発生する。
メンバーそれぞれが場のルールの醸成に加担しつつ、自らのルールを場のルールにあわせていったり、違和感を残したままで参加を続けたり、あるいは離れていくということになる。
ただし、句会ではある程度、その場でルールのすり合わせを行うことも可能である。雑誌等に俳句作品を発表する場合もまた、想定される読者の傾向にあわせて句を選ぶことがあるだろう。しかし最終的には自分自身のルールに基づいて作品を選び、発表するほかなく、読者には読者のルールに従って判断してもらうほかない。
俳句のルールのなかでも有季定型のように、外見上わかりやすいものもあるが、これまで観たとおり、それに関してすら見解はひとつではない。しかし、俳人個々の自分ルールのなかにも漠然とした共通部分はあるはずで、それこそが俳句を俳句たらしめている「俳句性」あるいは「俳句の本質」であると言えるかもしれない。
先日俳句結社「天為」の二十周年記念大会において行われたシンポジウムで、俳句の新しみとは何かを問われた岸本尚毅氏が、ある司法関係者の言を引用し「わいせつという概念を説明することは難しいが、見ればわかる、それと同様に何が新しいかも、前もって説明することは困難だが、あとから見れば一目瞭然のはず」といったような発言をされていたが、俳句の本質もまた、それを説明することは難しいが、俳句作品を読み、作ることによってのみ感じとれるものなのかもしれない。
*
季語に関する俳句のルールは「有季定型」のみではない。もっと重要で、しかもほとんどすべての俳人に無意識のうちに承認されているルールがある。
それは「作品に季語が使われていたら、それを季語として扱わなければならない」というものである。季語を季語として読むという前提があるために、月の句は秋の空気感をともなって読まれるのであり、作者もそのつもりで作品を作る。すなわち、ルールに従う読者を前提としてはじめて、作者は季語をツールや詩嚢として活用することが可能になる。
当たり前のように聞こえるかもしれないが、俳句とまったく接点のない人からすると、必ずしも簡単ではないルールである。
季語や切れなど、俳句の読み方に関するさまざまなルールの存在は、俳人以外の、俳句に関心のない人が虚心坦懐に俳句作品に触れるに際して障壁となる場合もあるだろう。
それについては稿を改めることとしたい。
とりあげていただいて、ありがとうございます。
返信削除ちょっと補足。
>大きくて効果の薄き案山子かな 杉原祐之
「季語を入れて五七五で「詩」を作る」というゲームが私たちの与件でなければ、生まれない句。
と書きましたが、この「ゲーム」は、俳句の発生時点における与件であって、「現代俳句それ自体」のことを言っているのではありません。中村さんには、分かっていただいていると思いますが、為念です。
上田さま
返信削除補足いただきありがとうございます。
やや恣意的な引用になってしまったかもしれません。
読者のみなさまには、ぜひ元記事をご参照くださいますようお願いいたします。
中村様の素敵な論を拝読。ありがとうございます。
返信削除有季や定型は伝統的なマナーのような物。俳句の精神が挨拶とすれば、有季定型は日本語俳句における正格の作法。それ以外ももちろん良いし、マナーやルールは時代とともに変遷するもの。そもそも俳諧連歌の時代でも無季や破調は多くあったため、有季定型は正格であっても、絶対ではない。子規の俳句分類でも、季語があっても季節性の強くない句は、季語以外の分類(キーワードや形式による分類)に収めていますし(つまり、「有季」性は無視)、戦前から新興俳句や自由律俳句の歴史があった事を鑑みれば、有季定型は(王道であるものの)俳句の一分類にすぎないのは明白。多くの人が使うルールやマナーかもしれないが、教育現場でそれを「絶対」と教える俳人協会の暴挙は……同じ俳人として恥ずかしい。
当然、他言語文化には、季語の歴史がなく(日本語の季語と同じ言葉を使っていても、本意が違っていたり、語彙の伝統がない。季語の源泉は中国の詩だとしても、中国とも違う)、五七五の定型が伝統として存在しないため、有季定型は日本語俳句だけの正格の作法。英語や中国語で定型の俳句を作ることは可能だが、五七五は中国語やヨーロッパ言語では「長すぎる」ため、俳句特有の省略や季語相当のキーワード性、切れなどが意味をなさなくなるため、むしろ定型でない方が俳句的。それに、エジプトの草を「秋の草」としたり、赤道直下の雨季のスコールを「夕立」としたり、ドイツの「月」を日本的情緒でとらえたり、(季節性はあるが、季語としての本意が違う)オーストラリアの「冬」を季語と見なしたりするのは「場」に失礼であり、俳句の挨拶性に反する。
こうなると、外国語俳句も日本語で作る海外俳句も俳句でない、俳句もどきだ、という人間が俳人協会から出てきそうだ。でも、伝統派の権化である山本健吉も森澄雄も英語俳句を俳句として認めていた。虚子も有季が望ましいとしたものの、外国語俳句も日本語で作る海外俳句も認めている。
となると、西嶋あさ子・仲村青彦・藺草慶子・橘いずみの四氏の主張は微妙。裏千家の茶道でなければ、日本の茶道でも茶道でないし、外国の茶道は茶道でないと言っているような物。
……長くなってしまいました。俳壇で色々な議論が進む事を祈りつつ。
中村様
返信削除貴稿、興味深く拝読いたしました。小生獅子鮟鱇と申します。漢詩人ですが、漢語俳句を作っています。
「虚心坦懐に俳句作品に触れる」読者がいるということが曲者ですね。
陸続として学校へ入る子供たちは「虚心坦懐に俳句作品に触れる」、そこで、俳人協会がいろんなことをするのでしょうし、日本の学校教育を受けていない諸外国の俳人たちも、主に芭蕉や一茶を通じてでしょうが、「虚心坦懐に俳句作品に触れ」ます。
そういう「虚心坦懐」な俳句読者は、たとえて言えば、
赤信号なのに車が走っていなければいいとばかりに道路を横断する、あっちの信号機のそばにタンポポが咲いているから―そういう人たちなのでしょう。
そういう人たちが俳句を読む機会が増えてきた、そこで、もういちどしっかりと赤信号のルールが説かれなければならない、のでしょうか。
中村さんの一文、
>読者は作者の作句意図に左右される必要はないが、作品を俳句として発表するか、あるいは一行詩や川柳として発表するか、ということも、作者名と同様に作品の一部と言えるのではないだろうか。それを無視して作品を読むことが適切なのかどうか。
とても重要だと思います。しかし、虚心坦懐な読者は「ルール」違反の俳句であっても俳句だといわれれば俳句だと思って読みます。「ルール」違反の俳句を俳句として読まないのは、読む態度としてかなり特殊で、そういう読句態度が適切であることを説くには、相当の労力がいると思います。
今や俳句は日本人だけのものではなくなっています。俳句は短いので翻訳がしやすい、そこで、詩の世界の共通語であるかのように世界中で俳句が詠まれ、英訳されて国境を越え、世界へ向けて発信されています。自国の伝統詩では、それがいかに優れたものであっても世界へ向けて発信できませんが、俳句なら、それをさくさくと英訳しさえすれば、世界へ発信できるのです。そして、それを読む者は、一個の俳人によって体現されたものであるかのように遥かな国の言葉と文化を感受し、俳人の個性に親しむことができるのです。それは、たとえ片鱗を知るに過ぎないとしても、読句体験としてとても豊かだし、新鮮です。
そこで、インドで出版された日本語訳つきの『鎌倉佐弓の俳句世界』は、世界10か国16人の俳人が鎌倉さんの俳句をめぐって論じている一冊ですが、日本語を理解しない彼ら論者らがとても豊かな読句体験をしていることがわかります。彼らは、俳句についてよく勉強しており、「ルール」を知らず「虚心坦懐に俳句作品に触れる」者たちとはいえませんが、彼らの論を読む限り、一個の俳句作品が読み応えがあるかどうかは「虚心坦懐に俳句作品に触れる」ことをベースにすればよく、「俳句」というものをめぐって説かれているさまざまなことはあまり役に立たないと思えます。
そういう俳人たちにとっては、季語をめぐる議論は海の向こうの日本の国内問題であり、日本の俳壇のなかの問題で、「それがルールだ」といわれても、ピンとこないでしょう。
記事をお読みいただき、またコメントをいただきありがとうございます。
返信削除匿名さまご指摘の、海外詠や日本語以外の言語の俳句をどう考えるかという問題については、次号で私の考えを述べたいと思います。
また、獅子鮟鱇さまのコメントに関連して、俳句の「ルール」と読者の関係についても、もうすこし詳細に考えてみたいと思っております。