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2011年1月18日火曜日

豊里友行の「沖縄便り」(8) 「初心に帰る」 ・・・豊里友行

■豊里友行の「沖縄便り」(8)
「初心に帰る」
・・・豊里友行



ある総合俳誌のインタビューの前質問で何故俳句を選ばれましたかという質問を受けた。
宮沢賢治の文学への姿勢「おれはひとりの修羅なのだ 」(宮沢賢治『春と修羅』より)に羨望し、文学の道(当時私は小説家を志していた。芥川賞作家の目取真俊氏が高校教師をされているとき俳句文学を究めるのも勉強になると示唆を受ける)を志す。
高校三年生のとき「とんぼ舞うちぎり絵の中の通学路 友行」でジュニア部門最高賞の「ろうたす賞(「五色」俳句会代表で選者=新馬立風)を受賞。
以後俳句道に精進する。
その時の賞金で私はオリンパス一眼レフカメラのOM-10を購入した。
当時の私はなにかしら沖縄のためになりたいと考え、文学と写真という表現分野を学ぼうと試みる。
野ざらし延男氏の代表される「天荒」俳句会に入り、俳句を本格的に始めた。
その頃は多作していた。
若かったあの頃の私には、遠慮の2文字などなく多作症とでも言いたいくらい多作していてひと月の投句数が百句を越えることもあった。
俳句会の事務局のファックスが夜通し鳴いていたという(投句制限を作ったのも遠慮を知らない私の多作が原因だった)。
俳句を創ることに純粋に専念していた。
それらの多くの俳句を野ざらし延男氏は俳句会の場で選句していただき俳句鑑賞をして頂いた。
野ざらし延男氏の俳句鑑賞を土台に私は伸び伸びと大量の俳句を試行錯誤した。
その良き師匠との出会いが今日の豊里友行という俳人を形成してきたことを深く感謝している。
星空を眺めながらこの美しい星の唄をどう表現したものかと思いながらつくった俳句がある。
「夜のパンに鮫のかなしみをぬる  友行」
この句の意味性は難解かもしれない。
まるで赤ん坊が何かを要求するために泣く行為みたいだ。
言葉にならない何かを表現しようと私は果敢に自己の心の趣くままに俳句を創る。
自分の俳句を鑑賞するのは、俳句鑑賞を狭める恐れがある。
俳句は優れた俳句鑑賞の創作がなくては成り立たない文学だと思う。
野ざらし延男氏の俳句会を抜けて、それをしみじみ実感する。
俳句と写真という表現を探求する旅は、永遠の孤独を抱え込む行為だ。
日常に居るからといって決して何が旅だと笑えない。
これまで優秀な師を得ていた私は、もう戻ることのない俳句の旅を無自覚にも選ぶことになった。
これまで散々お世話になった「天荒」俳句会へもう二度と戻ることは出来ない。
十年以上在籍した俳句会の人たちに別れの言葉もなく大変無礼なやめ方をする。
恩を仇で返すとはこのことをだ。
私は若くて何も考えが及ばない人間だった。
私は「月と太陽(ティダ)」俳句会を立ち上げる。
もう野ざらし延男氏の教えからどれだけ離れられただろうか。
まだまだ野ざらし延男氏の教えをぜんぜん乗り越えられないでいる。
私は修羅になることなどできないほど弱い人間だ。
いつの間にか死ぬために俳句という文学を探求していた。
闘病に闘病を乗り越えて来た私の最初の師匠は、生きるための俳句文学を説いている。
私の歪んだ美意識は、死の棘を生きる姿態とする薔薇のように咲かそうとする。
それを私が否定することが出来たのも最初の師匠の教えに振り返ったからだ。
社会に合わそうと必死で生きていく私は仕事をこなしながら寝る間を惜しんで俳句に写真に没頭して行く。
ある種のナルシズムの陶酔のような感覚を味わっていた。
沖縄のためなら死んでもいいと思うように成って行く。
俳句という文学に、写真という愛に私は酔いしれる。
「手も足も削いだ丸太ん棒の寝床  友行」
私の夢は星の軌跡を描く夜空にだけ刻んでいた。
私にとって俳句も写真も遺書のようなものだった。
師の生きるための文学を私は、歪んだ美意識の武器にしようとしていた。
個性という自己の開花を歪んだ美意識で捉えて放そうとしなかった私の手をぎりぎりで解いてくれたのも確かに師であった。
何度も何度も俳句の原点に螺旋階段を上るようにゆっくりと歩を進める。
ふりかえるたびに過ちを悔いながらも人生の階段を上っていく。
沖縄のためではなく自分のための表現だと気づく。
私は修羅になる必要などなかった。
「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の松尾芭蕉の覚悟を私は沖縄の地で覚悟する。
沖縄に生まれ育ち、そして死に逝くときもこの終の棲家を文学と写真に求めていようと想う。
ちなみに野ざらし延男氏の俳句教育は、学生俳句の沖縄の俳句隆盛の歴史を築き上げた。
私は切にその生きる文学の後継者が育ってほしいと願う。
私もまた私なりの人生感で俳句を創造して行きたい。  
今年の目標は初心に帰り多作していきたい。


撮始め双葉は月と太陽(ティダ)のワルツ    友行

米軍基地キャンプ・シュワブと名護市辺野古の浜の境界線の有刺鉄線(バラセン)が渦を巻く。
そのバラセンに平和を祈るように基地移設反対の思いを書き込んだ布が結ばれている。

2010年12月25日土曜日

豊里友行の「沖縄便り」(7) 「私らしい俳句と写真の旅」 ・・・豊里友行

■豊里友行の「沖縄便り」(7)
「私らしい俳句と写真の旅」
・・・豊里友行



私は俳句の世界を旅する。
私は18歳から30歳まで「天荒」俳句会で日々俳句を研鑽(けんさん)してきた。
そこでは野ざらし延男氏による優れた俳句教育のもと俳句を学ぶ(これまでに野ざらし延男氏の行く先々の教育現場から優れた学生俳句が誕生している!)
「いつか」と言っているといつになるか分からないので、「月と太陽(ティダ)」俳句会を二〇〇六年二月二十五日に旗揚(豊里友行 代表)げした。
私は自分らしい俳句と写真の世界をめざし、創造していくため、十数年在籍した天荒俳句会を退会する。
その日から私は俳句人生の武者修行の旅に出た。
「月と太陽(ティダ)」俳句会は小さな俳句の座で、主に小中高生への俳句指導を行っている。
あとは少数の有志や豊里一族による生涯学習としての俳句創作だ。
小さな俳句の場だが俳句を楽しんでもらい俳句によって生き甲斐をもってもらえたらと願う。
「月と太陽(ティダ)」俳句会として俳句指導するには私は日々勉強しなくてはならない。
「月と太陽(ティダ)」俳句会以外では私自身も俳句を暗中模索している。
その暗中模索振りを記してみたい。

俳句の武者修行の旅をしていると他の俳人先輩から佐藤鬼房先生のお言葉を引用しながら励ましのお手紙を頂く。
「一握りの人たちが先端の岩盤を少し穿つ、その犠牲の上に俳壇全体がズルリと少し前進する」
私は生きた証として俳句を時代に残せるようになりたい。
そのために自分らしい俳句を探求し続ける。
俳句も写真も出会いが財産になっている。

俳句界へ出てくる方法としては何か悩んだ時期がある。
俳句大会では上位入選するしかない(これはかなり大変なことだ)。
もしくは俳句集を出す(お金と作品の質がいる。そろそろ私は第2句集を出したい)。
新聞俳壇に投句するのもいい。
他の俳句会にも参加してみる。
以前「天荒」俳句会に所属している時、金子兜太先生を招いて俳句会が持たれた。
その時、金子兜太先生の天地人の地賞を私は戴いた(「梅が咲くそこに銀河の圧縮音  友行」)。
その時の的確な講評が印象的で金子兜太先生の「海程」俳句会に投句参加する。
この「海程」では、私の句が毎月俳誌に3句載る。
「海程」俳句会へも都合がいい時に参加したい。
「海程」は、いろいろな俳人たちが切磋琢磨しお互いに日々俳句を研鑽する俳句の場がある俳句同人誌だ。
特に俳誌の活字になることは記録性においても大変重要なことだ。
(盗作問題などに巻き込まれた時は、印刷媒体に先に載っているか周知の俳句に敬意を表するのが慣わしなであるから自己の俳句を常に印刷媒体に記録するよう心がけたほうがいいと私は思う。)

インターネットのブログで継続して俳句を発表して俳句の場を持つのもいい。
人の目にもさらされ批評の目に耐える。
気軽に自分の俳句を発表する場をもてるのがいい。
「週刊俳句」や現代俳句協会のインターネット俳句会、『俳句界』の「め~る一行詩」なども活気があって刺激をもらえて良いと思う。
この「俳句樹」も多くの俳人の俳句創作の現場を活気付ける場になることを望む。
もしかしたら多くの批評の目にさらされるインターネットのブログ俳句が、これから大きな俳句界の主軸になるかもしれない。
価値ある俳句はどこからでも出てきていいのだ。
私は自己の俳句の世界をブログ「とよチャンネル」から切り開いている。
いろんな意味で俳句はメモ帳と鉛筆ぐらいのお金でできるものだということをこれからも実践していきたい。
もっとも大事なのはしっかりよい俳句を作るための努力を惜しまないことだ。
昔の俳人が小さな俳句の場から俳句問答を通して良い俳句を創ったのを私は軽視できない。
だから「月と太陽(ティダ)」俳句会でもそれぞれの自分らしさを追求する小さな俳句の場を持つよう心がけている。

俳人で写真家の豊里友行は、人生の武者修行の旅のまっただ中であります。
もちろん特に沖縄を飛び出して旅に出るわけでもない。
写真は沖縄をテーマに撮り続ける。
俳句も写真もどちらも沖縄の日常を旅している。
生まれ育ったこの島を撮り続け、これからもずっと撮り続けるだろう。
この沖縄をどう詠い、どう撮るか胸踊る。
私は世界中を旅する冒険家にはなれないが沖縄から世界へ発信する旅をしていく。
私はそんな旅をする覚悟をしている。
生まれ育った沖縄に私は誇りを持ちたい。
だから時に厳しい沖縄への批判にもなる。
それでも理想郷・ニライカナイを求めた祖先の琉球人たちのように海の向こうに希望の灯火を燈したい。
私は「ニライカナイの地図」を追い求めていくうちに自己の立ち居地である沖縄に、それぞれの安住の地にこそ、理想郷のニライカナイが散りばめられているように思えてならない。
それは利潤追求主義とはちがうし、資本主義社会などとも違う何か。
私は写真を撮る行為をニライカナイの地図を見るように拾い集めている。
何が見えてくるかこれからが楽しみだ。
これからも俳句も写真も私なりの武者修行の旅が続く。

インターネットの地球を回す水澄まし    友行

まばゆい太陽に花びらのサングラスをかけるシーサー


2010年12月10日金曜日

豊里友行の「沖縄便り」(6) 「沖縄へのウムイ(想い)広がれ!」 ・・・豊里友行

■豊里友行の「沖縄便り」(6)
「沖縄へのウムイ(想い)広がれ!」
・・・豊里友行



1995年、米軍用地の強制使用手続きの代理署名拒否を決め、日米政府に立ち向かう当時の大田昌秀知事に僕はある種のヒーローのような思いを抱いていた。
繰り返される米兵犯罪に沖縄の民衆の怒りが臨界点に達し、8万5千人の県民総決起大会が行われ、まさに基地の島・沖縄から「日本の主権」を問うことになった。
1996年9月、県民投票で基地反対、縮小に賛成が過半数に達する。この県民の声をバックに大田知事はより強力に基地問題を問い詰めるはずであった。
だが、代理署名訴訟で闘い続けていた大田知事は、50億円の特別調整費と引き換えに代行応諾を表明した。
僕の中で一人のヒーロー像が崩れた。
同時に自らは傍観者になっている事にその時やっと気がつく。
時代に翻弄され、日米の国家に翻弄され続ける沖縄にあって僕は何ができるのか模索していた。
本当に基地の島・沖縄を変えるには日本国民一人一人が立ち上がるしかない。
私自身も沖縄から声を上げたい。
そう決意し私は本格的に写真を勉強し始めた。
鳩山由紀夫総理は2009年7月(選挙)で米軍普天間飛行場の移設は「国外・最低でも県外」と表明した。
そのため連日、「普天間」報道の嵐が吹き荒れた。
またしても私は基地の島・沖縄の現状を変革してくれるヒーローの誕生を期待してしまった。
ヒーローを奉り己自身は胡坐をかくのはもうよそう・・・・。

崩れても積上げて行く師走闇   友行

大手マスコミの流す膨大な情報の渦の前に私は、大きな幻影を見ているようだった。 
どっぷりと沖縄に浸かりながらも私は、沖縄から沖縄自体を問い続ける報道写真を発信しようと試みた。
私は5月決着に合わせて私の代表を務める出版社沖縄書房から『沖縄1999-2010 戦世・普天間・辺野古』豊里友行写真集( 840円)を千部緊急出版する。
写真展も開催した( http://naha.keizai.biz/headline/871/ )。
そして年内に『沖縄1999-2010 戦世・普天間・辺野古』豊里友行写真集(1050円)改定増版を増刷するために私は遁走している。
どうしても私は、沖縄に生まれ育った写真家で俳人としてこの普天間迷走に対して声を上げたかった。

今、ウチナーンチュ(沖縄の人)自身が自らの手でそして自らの言葉で沖縄を語り始めている。
私はそれらのウチナーンチュを写し取る鏡のような存在になろうと努め写真家として沖縄の声をこれからも発信し続ける。

沖縄中に張り巡らされたフェンスという国境が存在する。
その国境はとてつもない沖縄の米軍基地の過重な負担の象徴だ。
私は虐げている人間も虐げられる人間も同じ人間なのだから交流の中で理解し合えると信じる。
だがなかなか本土や世界に沖縄の人々の現状が見えてこない。
それは日本国民における沖縄の現状を無視するという沖縄差別でもあった。
私たちはアメリカの世界戦略における米軍基地とこの日本の合理的な傲慢な防衛力の不必要性を紐解いていかなくてはならない。

大きく重たい岩に例えられる米軍基地。
それも次第に私たち沖縄に連帯する日本人や世界の人々の沖縄への理解が増していく中で動き始めようとしている。
もう人を殺すことを仕事にしてきた軍隊を非武の島・琉球であった沖縄において必要としていないことを認めなければならない。
そのことから長い間目を背けてきたのが日本という国家であり、多くの日本国民でもある。
もう沖縄がこれまでに米軍基地によって虐げられた基地の歴史を世界中のどこの国においても行われてはならない。
日本国憲法違反の米軍基地を撤去・縮小していこう!
そのためにも今、日本国民一人一人が傍観者にならずに平和のために声を上げるべき転換期にある。
日本国憲法の平和主義を世界と連帯し、守り育てて行こう。
この沖縄から平和のウェーブを広げて行きたい。
それは国境を超え人種を超え地球上の同じ人間たちの愛の力によって証明できると私は信じて夢見続ける。



轟音の鼠となり空齧るフェンス   友行

宜野湾市に居座る普天間飛行場。民間の住宅に隣接した世界一危険な飛行場と言われている。



2010年11月25日木曜日

豊里友行の「沖縄便り」(5) 「季語再考」

■豊里友行の「沖縄便り」(5)
「季語再考」
・・・豊里友行


前回のお話にも関係してくる名古屋で開催されたCBD・COP10(第10回生物多様性条約締約国会議)で俳句イベント「HAIKUで伝える生物多様性」(同実行委員会)があり、地球環境が育んできた季語を含んだ俳句が詠まれている。
まず私の季語についての姿勢を述べておこう。
五七五という俳句の韻律の中でそれぞれの季節の豊かな詩語である「季語」を絶対化しない。
季語を育む生活環境が変容している今、詩語の一つとして季語も俳句の世界に活かす。
無季(季語のない俳句)も詩的広がりのある俳句であれば認める。
つまり私は、詩的広がりを重視しながら季語も言葉の海へ泳がせる。
そういう姿勢でそれぞれの個性を活かした俳句文学の確立を目指す。

日本の多様な自然は、作者の創作現場を踏まえ、詠む必要性があるという立場を今の私は採りたい。
例えば、沖縄の桜は1月下旬から2月上旬ぐらいまで咲いているし、東北なども中央の桜の季節と大分異なる。
私は歳時記だって北は北海道、東北などや南は琉球列島(沖縄)といった具合に歳時記の多様化を促すべきだと思っている。

この場合私は、地域を限定させて詠むということがこれまでの詩語への昇華の障害になってきたことも踏まえて季語を地域の独自性にスポットをあてて俳句を味わってみたいのだ。
その俳句の背景まで読み解いていく読解がなされた方が良い場合もあるのではと問題提起しておきたい。
ここで俳句という言葉を具体的に読み解くか言葉の海に泳がせるかで俳句の詠みの世界は大きく違ってくる。
私の俳句を例にすると「ふりむけば源氏とロミオ葉桜か 友行」の場合は地域を特定しないほうがいい。
なにも作者の住む沖縄の濃いピンクの寒緋桜である必要はない。
俳句の鑑賞者それぞれの桜を楽しんでもらいたい。
俳句の詠み方は具象的か抽象的かでどちらの読み方も楽しめる。
読み手の創作としてはできるだけ多様な読み方があった方がいい。
だが読み解くキーワードを俳句以外からも見てしまうのは間違いだろうか。
この場合季語もまた地域の独自性で編まれる時代において私は前者の限定した詠み方もありだと思うのだ。

俳誌「海程」の俳句鑑賞でもどうしても作者の住む地域を無視できないという意見を聞いたことがある。
(例=「逃げ水がテロも戦も孕んでいる」沖縄 豊里友行)
私は沖縄写真俳句歳時記を編集中だからどうしても詠み手の地域も踏まえて鑑賞することを押している。
そう季語を活かしながらも地域の独自性を多様に読み手に享受してもらうには先に述べた詩語への昇華の弊害にならない程度に読み手の独断が必要になるのだ。
(季語を絶対化すると詩的昇華の妨げになることもあることはここでは問題にしないでおく。)
だが地域の独自性を最短詩型文学においてどう盛り込むかも私にとって大きな課題のひとつになっている。

結論は季語と無季を豊かな詩語にするということ。
季語べったりでも俳句は死ぬし、季語を毛嫌いしても俳句はやせ細ると私は思う。
「諸行無常の季語いかがビニールハウス  友行」と詠むように、利潤を追求するあまりビニールハウスなどによるトマトの栽培や電照菊のように大量生産される植物も誕生する。
そのことによって日本の多様な四季の移ろいも薄れている。
勿論ただそれを揶揄することに止まらない俳人としての姿勢がほしい。
「寝転んだ季語も馬糞も銀河の野 友行」と私は詠むように、地球に育まれている季語をジンブン(生きる知恵)の限り創意工夫して活かしていく姿勢がほしい。
今回のCBD・COP10で高らかに日本の豊かな自然が育んできた季語を讃えた俳句だけが詠まれていた。
それら俳人たちの態度とは裏腹にCBD・COP10の内容は環境破壊をどのように食い止めるかという深刻な問題が議題に上る。
季語という歳時記の博物館では次々と死語が発生している今、俳人たちの姿勢が見えてこないままではいけない。
つまり俳人が地球を救う!
そのくらいの心構えが豊かな季節感のある季語を愛する俳人たちに必要だ。
俳人は環境問題にも感受性豊かな存在であるべきだと思う。
もう今の先進国のような消費社会のありようではあと百年も地球の自然は持たないと言われている。
今回のCBD・COP10の俳句イベントを決起に俳人たちの地球環境への配慮ある行動がとられることを望む。
それには季語の呪縛に囚わていると現実とのズレや矛盾の壁にぶつかる。(注1)

現代に生きる私たちは、豊かな季語の多様化と地球環境への配慮ある俳人として創作活動に取組みたい。
特に世界のHAIKUとして俳句が普及している以上、地球規模の環境を視野にいれていかなくてはならない。
雨季と乾期しかない地域だって世界にはある。
日本の春夏秋冬を中心にするにしろ、もう世界のHAIKUとして世界中で親しまれるようになってきているのだから季語に固執して地球環境にまで視野が行き届かないようでは困るだろう。
私たち一人一人の俳人としての姿勢が問われている。

地球独楽春夏秋冬痩せ細る    友行

沖縄の桜は濃いピンク色をした寒緋桜(カンヒザクラ)。本土で咲く桃の花の色に似ている。沖縄の多くの家々の門にはヒンプンという魔よけの壁がある。日本列島の多様な自然の例として各地域の桜の開花時期の違いなどでもよくわかる。

(注1)=①季語が俳句の内容を束縛してはいけない。季節の言葉を織り込むことを条件とした有季俳句は俳句文学の自由を阻害してしまう。
②時間は流動の中で選び取るべき。そのためには季語は一年の時間の流れを春夏秋冬の四つに区分してしまっている。季節の多様な世界を俳句では詠めないことになる。
③現代社会の多様性は今日の社会生活について季語だけでは現代を詠えなくなっている。
④季語が強調している自然のサイクルは、太陰暦(旧暦)でこそ活かされている。現代人の生活サイクルである太陽暦(新暦)とのズレがある。
⑤季語は大和(奈良・京都)または江戸(東京)を中心に決定されていてる「歳時記」から成り中央集権的な立場をとる。それにしたがって鑑賞していくと日本の多様な自然に矛盾が生じる。
⑥季語決定はその時々の歳時記の編集者の世界感による。だがそれが絶対的なものと誰がきめれるか。俳句文学は自由な精神世界で成立していなくてはいけないのではないだろうか。それに俳句に季語を入れないといけないという約束があるというのだが、誰と誰が約束して何故現代に生きる私たちがそれに縛られなければならないのか。
季語も言葉の一つであり、俳句においてもそれを活かすも殺すも詠み手次第だと私は決意する。

2010年11月10日水曜日

豊里友行の「沖縄便り」(4) 「ニライカナイの地図」 ・・・豊里友行

■豊里友行の「沖縄便り」(4)
「ニライカナイの地図」
・・・豊里友行

先月名古屋で開催されたCBD・COP10(第10回生物多様性条約締約国会議)。
「HAIKUで伝える生物多様性」(「HAIKUで伝える生物多様性」実行委員会)では、
「天体の渦のごとくに蝌蚪の紐  湯浅康右」
「里山に入り囀りのシャワー浴ぶ  井村晏通」
「月光を浴びつやつやと蟬の羽化  西野桂子」など秀句も発掘された。
沖縄の環境破壊の現状も世界の人々の目にとまることになったようだ。
実を言うと私の生まれ育った泡瀬でも沖縄市泡瀬干潟の埋立工事が推し進められている。
今回は私の原点となる泡瀬からお話をします。

二〇〇五年から、これまでの働き過ぎの過労のため療養も兼ねて沖縄市泡瀬の海へ毎日通う。
私は海がはぐくむ生物に、これからの自分の生き方を見いだせないか試みた。
だが、そこでは水平線を食いつぶすように消費社会の泡瀬の埋立工事がじわじわと押し寄せて来た。
自民党や民主党にしても革新政党にしても開発という環境破壊は止まらない。
屋良朝苗琉球政府の行政主席は金武湾(CTS闘争)、大田昌秀前沖縄県知事は大国林道、そして東門美津子沖縄市長は泡瀬の埋め立て工事など革新政権においても、環境問題は軽視されて来た。
そんな心の焦燥感を打ち消すように私は、海の生命体に魅せられていく心地よさに満たされていった。

今、泡瀬の埋立工事によって百年かかって育った珊瑚礁の森がつぶされている。
多くの生物のすむ泡瀬の海を埋めるのはあまりにも横暴な行為といえる。
貝だけで三百八種類、野鳥も百五十種類以上、海草も十一種類も見られる。
貴重な種類、新種も次々と発見されている。
県内最大の渡り鳥の飛来地でもあり、県の作成する「レッドデータおきなわ」に、泡瀬では絶滅の恐れのある海洋生物(貝類、甲殻類、魚類)が百二十一種も記載されている。
この埋立工事は、この豊な沖縄の「自然の美術館」を無残にも壊してしまうことになる。
ラムサール条約に認定された「泡瀬干潟」は、琉球諸島の世界自然遺産候補地の一つでもある。
ラムサール条約認定の泡瀬干潟は、泡瀬の埋立工事により琉球諸島の世界自然遺産への道も遠のく。

私は仕事で泡瀬干潟のカニの撮影をしながら泡瀬の海に分布するカニが八重山諸島、琉球諸島近辺のアジアに生息するものであることを『沖縄海中生物図鑑』で知る。
琉球諸島の多様な生き物たちは、海流また台風などの自然現象によりはるか遠く水平線の向こうにあるとういう理想郷・ニライカナイからこの泡瀬の海にも漂流し、この自然環境になじんできたのではないかと想いを巡らせる(注1)。
これらはもちろん沖縄の島々にも言えることで多様な生物や文化の根源は、ニライカナイの贈り物からの影響もあったのだと考えられる。
私はそれらのニライカナイの贈り物を写真に記録し、写真の分布から「ニライカナイの地図」が見えてこないかと期待しているのだ。
つまり海に囲まれた島ならではの人間の生活や自然は、豊かな精神世界を構築してきたし、二ライカナイの宝物を享受することにより、より身近な世界としてニライカナイを感じてきたのだろう。
自然を取り巻く人々の育んで来た「ニライカナイの地図」を写真映像化してみようと試みる。
そのニライカナイの豊かな精神世界は今、泡瀬の埋立工事によって根源的な理想郷・ニライカナイの存在を失くしてしまわないだろうか。
海を売り山を売り沖縄はどこへ向かおうとしているのだろうか。
地球温暖化などのエコ推進の潮流の中で私たちウチナーンチュ(沖縄の人)は、沖縄の本来持っている豊かな自然や精神世界さえも売り渡してしまっているのではないだろうか。


青蛙ニライカナイの地図をとぶ  友行


(注1=沖縄市泡瀬干潟近くの比屋根湿地などは八重山諸島からの湿地の移植がなされているが、この論に問題はなく、むしろ人の手を借りた自然環境も含めて「ニライカナイの地図」という構想へ想いを馳せる。)


渡り鳥のムナグロが羽を休める(後方は泡瀬干潟沖の埋め立て工事)=2008年2月ごろ、沖縄市泡瀬干潟

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■関連記事

豊里友行の「沖縄便り」(1)・・・豊里友行   →読む

豊里友行の「沖縄便り」(2)「甲子園俳句」・・・豊里友行   →読む

豊里友行の「沖縄便り」(3)「星のさざなみ」・・・豊里友行   →読む

2010年10月25日月曜日

豊里友行の「沖縄便り」(3) 「星のさざなみ」 ・・・豊里友行

■豊里友行の「沖縄便り」(3)
「星のさざなみ」
・・・豊里友行

糸満市摩文仁の荒波が届かない海岸沿いの琉球石灰岩の凸凹道を、私は幾度もナメクジみたいに足裏をはわせ進む。
気の遠くなる作業に内心帰れるか心配になる。
撮影の目的地では、私の滴り落ちる汗が野ざらしのままの遺骨たちに垂れないように気をつける。
正直に言うと、私は遺骨をいくども踏んでいた。

私のいる場所は、海岸の荒い凸凹でギザギザの石灰岩の道からたどり着いたアダンの林を切り開いて作った行き止まりの道だった。
それは遺骨収集ベテランの国吉勇さんが造った道だ。
落ち葉の広がる行き止まり道には足の踏み場なんてない。
落ち葉を退かすたび、野ざらしの骨が顔を出す。
照り付ける日差しがアダン林から鋭く刃のように伸び、時折雲間に遮られては光の糸をほどく。
辺りには私の体から滴り落ちる汗と、ヤドカリの落葉を擦る足音だけだった。

私はペットボトルの水を気にしながら口に含む。
私自身が踏みつけたであろう遺骨たちに、きっと戦争のない平和な世の中をめざすからお許しください、と祈りながら私は手のひらのカメラで撮影を続ける。
最後に髑髏の傍らにそっと最後のペットボトルの水を垂らし、ウートートー(お祈り)する。
人気を察知して逃げるヤドカリたちを追い越して、私は足早にアダン林のその現場から逃れるように立ち去った。
その後、国吉さんの案内で本土の団体によってその場所も遺骨収集された。

「そこに山があるから」というじゃない。
そこ(沖縄)に遺骨があるから、国吉勇さんは遺骨収集を続けている。
今回は山を越えジャングルの道(その道を造ったのも国吉さんによる)をはうように進む。
米軍の攻撃を逃れ逃れ、この岩肌の山が連なって出来た洞窟(ガマ)へ住民や兵士が入り乱れる。
沖縄戦当時はその獣道は足の踏み場もないほど死体が転がっていたと、当時の兵士から国吉さんは聞く。
西へ行く人や東へ行く人たちでごった返しになっていたと、当時の戦場の話を国吉さん自身も想像しながら私に語る。
だからそのジャングルのようになった場所を、数日かけてかまを片手に道を造ったそうだ。

なぜ国吉勇さんはわざわざ苦労して遺骨収集をするのか、帰りにもう一度聞いてみた。
彼は遺骨収集をしている時、(沖縄戦の)遺骨が呼んでいるように思えると言う。
限りなく膨大な時間を費やして来た国吉さんは、これからも黙々と遺骨収集を行うだろう。
その情熱の訳が少しだけ私にもわかる気がした。

戦後六十四年を経た今でも、野ざらしのままの遺骨などがたくさんある。
国吉勇さんが見つける遺骨も樹木の生い茂った森や林、洞窟などの闇にひっそりと息を潜めている。
戦死者たちの沖縄戦はまだまだ終わりそうにない。
激戦地・摩文仁の慰霊の日には多くの人たちの祈りが集う。
私も沖縄世(ウチナーユ)になるまで非戦であり非武の島になることを生涯思い、祈るようにこの沖縄の地を詠い、撮影し続けたい。
  
 
鮮やかな原野遺骨に星のさざなみ        豊里友行

沖縄の原野には今でも野ざらしの遺骨が残っていた(2008年 糸満市荒崎海岸) 
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■関連記事

豊里友行の「沖縄便り」(1)・・・豊里友行   →読む

豊里友行の「沖縄便り」(2)「甲子園俳句」・・・豊里友行   →読む

2010年10月10日日曜日

豊里友行の「沖縄便り」(2) 「甲子園俳句」 ・・・豊里友行

■豊里友行の「沖縄便り」(2)
「甲子園俳句」
・・・豊里友行

もう沖縄も秋めいている。
暗雲立ち込める基地問題など重く圧し掛かる沖縄。
そんな暗いムードを払拭するビッグニュースがこの夏にあった。
興南高校が沖縄に初めての夏の甲子園大会制覇をもたらした。
沖縄の高校が夏の大会に初めて出場したのが1985年で、まだ米国の統治下だった。
首里は初戦で敗退するものの、その奮闘ぶりに大きな感動を残した。
だが甲子園の土が当時の植物検疫にあたり持ち込みを許されないという沖縄球児の悲話が起こった。
首里は63年に沖縄のチームとして甲子園大会の初勝利を挙げた。
夏の大会で初めて決勝に進んだのは90年で故人となった栽弘義監督が率いた沖縄水産で天理(奈良)に惜敗した。
その次の年の91年にも決勝に進出したが敗れ、2年連続で準優勝に終わっている。
沖縄尚学が99年の春の選抜大会を制して、沖縄に春夏を通じて初めて優勝旗が渡った。
沖縄尚学は2008年に2度目の優勝。
今春の甲子園は興南が栄冠をつかんだ。
甲子園で沖縄勢の興南高校が春夏通しての優勝には大いに勇気をもらう。
まだまだ甲子園の熱気がさめないでいるウチナーンチュ(沖縄の人)は私だけではないだろう。
この高校球児の奮闘ぶりを見習い、沖縄の問題にこれからも取り組んでいきたい。
勝っても負けても高校球児たちは、胸を張ってこれからの人生を歩んでほしい。
今回は俳句で甲子園の感動を伝えたいと思う。


「甲子園」     豊里友行

葡萄食う一球一球を選び抜く


カマキリがダブルプレーの鎌を振る


惑星の火種をもらう変化球


満塁のピッチャーが背負う蝉しぐれ


三振のカメレオンの目玉泳ぐ


万顔の向日葵の種です球児


強打者の入道雲を討ち取ったり


蓑虫を揺らす一球の大接戦


林檎齧る鼠の歯形ですバント


逆転の虹のホームベース滑り込む

楚辺通信所、通称「象の檻」と野球練習風景(読谷村。2006年)。2007年に撤去される。

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豊里友行の「沖縄便り」(1)・・・豊里友行   →読む

2010年9月25日土曜日

豊里友行の「沖縄便り」(1) ・・・豊里友行

■豊里友行の「沖縄便り」(1)
・・・豊里友行

私は、岡本太郎著の『沖縄文化論 -忘れられた日本』(中央叢書)を沖縄問題に取り組む上で励みにしてきた。
この本の最後の章の「本土復帰にあたって」で岡本太郎は言う。
「私は沖縄の人に言いたい。復帰が実現した今こそ、沖縄はあくまでも沖縄であるべきだ。沖縄の独自性を貫く覚悟をすべきだ。決して、いわゆる「本土なみ」などになってはならない、ということを」
沖縄の本土復帰にあたっての岡本太郎のこの言葉は、今の沖縄においても言えることである。
サンフランシスコ講和条約が発効し、米国の沖縄統治が合法化された1952年4月28日から今年で58年を迎える。
沖縄の米軍基地は日本国憲法の平和主義の恩恵を受けることなく沖縄を延々と占領し続ける。
戦後65年経った今でも日本の米軍基地の75%が沖縄に密集する現状。
その代償のように日本国家は振興策や思いやり予算をどんどん沖縄につぎ込む。
その結果、岡本太郎の危惧していた沖縄の宝である自然や文化は、どうなったのだろうか。
与えられた予算を使い切ることが優秀な沖縄とされ、沖縄に落ちる莫大な公共事業に群がるように本土ゼネコンが集る。
そういう中で沖縄自身がどうあるべきか。
今まで沖縄の独自性をどう活かしていくかを沖縄の人々自身から提言しきれていない。
沖縄がアメリカ領土から日本本土に返還されたのに「本土なみ」という合言葉のもと開発という環境破壊に晒され、現代文明の消費社会に自然も文化も食い尽くされて来た。
沖縄の自然はコンクリートに塗り固められ、自然や文化はずたずたにされる。
癒しの島としてもてはやされ、沖縄の独自性という本質論は避けられ、沖縄の文化は流行に乗る。
そういう中で私は自己のアィデンティティを俳句と写真で追求していく。
それが私の俳句であり写真である。
この度「俳句樹」に海程メンバーとして参加するにあたって俳人で写真家の豊里友行の視点を通して奇しくも戦後65年目をスタートに沖縄の独自性を考えていきたい。
そんな沖縄の道程を私の俳句と写真の鬩ぎ合いの中から読者と共に模索できたら幸いである。

捨石の戦火を泳ぐ亀甲墓  友行

米軍基地の中で行われる清明祭(シーミー)。清明祭とは、沖縄本島の伝統行事で4月頃先祖のお墓の前でご馳走などを食べながら団らんをする。


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