2011年1月18日火曜日

『超新撰21』シンポジウムの最中に考えていたこと。 ・・・小川楓子

『超新撰21』シンポジウムの最中に考えていたこと。
・・・小川楓子



『超新撰21』でわたしは、大谷弘至さんとお隣同士に掲載されている。その事をとても光栄に、また恐縮に思う。昨年、刊行された『大旦』を読んで「うーむ…浄土だ。」と大谷ワールドにすっかり魅了されてしまったからである。言うならば、真冬、広々とした道に差し掛かり、思いがけず春風にぶわーっと吹かれたような心地がしたのだ。このまだお目にかかったことのないお隣さんの作品は、読者を満ち足りたあたたかな世界に誘う。俳諧連歌の歴史がわからないわたしにも、彼方から吹いてくるその風は心地よかった。

菜の花や生まれかはりてこの星に
囀りは大きな金の輪となりぬ
一本の桜となりて待ちゐたり
われら住む家を映して水澄めり
くるくるとまはる地球に冬ごもり    大谷弘至

このゆったりした作り、連作で読みごたえの増す作風、そんな作品世界にすっと入り込むことができたのは、もしかしたら普段接する機会の多い海程の作家にも通じるところがあるのではないだろうか。わたしは、ふとそんなことを思った。

『超新撰21』シンポジウムの第二部で、上田信治さんによる「「新撰」「超新撰」世代 ほぼ150人150句」―五分類に150人の150句を区分したものーが配布された。そこで、大谷さんは「1過去志向=擬古典 ロマン主義 反時代性 「季語」が価値」に分類される一方、「海程」に所属する人の大半が「2超越志向=強度重視 精神世界「前衛」的」に振り分けられていた。1と2に分類された作家には共通点があるとシンポジウムでもふれられており、わたしはあらためて「海程」と「古志」の若手を中心に作品を思い返してみた。

春燈のようにホルンの音ひとつ
水はらうように指揮棒五月来る
半身が深海となる風邪ごこち    月野ぽぽな 

「海程」の月野さんの作品はゆったりとした調べで、深淵な世界を引き寄せようとする点で大谷作品との親和性を感じる。これら三句を含む角川俳句賞候補作の一連は「古志」主宰(2010年現在)長谷川櫂さんの◎がついていたことも記憶に新しい。

本日のきっぱりとあり蕗の薹
鮟鱇のようにもう一軒行こう
ねこやなぎ僕らとりあえずの翌朝    宮崎斗士

「海程」の宮崎作品も、ゆったりと大づかみな把握で、そこはかとない空気感を表すという点で大谷作品と共通するところがあるように思う。しかし、現代志向の宮崎作品は、どちらかといえば同じ「古志」の作家でも、市川きつねさんの作品世界に通じているように思う。以下は、石田波郷新人賞準賞の作品から。

ふらここを降りてまつさらなわたし
大根を持つておどけてみたくなる
時雨るるやクレープさつとくるまれて    市川きつね

「古志」の先輩である大谷さんと同じく、てらいのないゆったりとした調子の作品であるが、大谷作品よりも身近なものを対象とし現在の「わたし」の姿が鮮明である。屈託のない「わたし」の生活が見え、日常の空気感が心地よいという点で宮崎作品に通じるところがあるのではないだろうか。

永遠の田園をゆく冬の蝶
桔梗のつぼみは星を吐きさうな
とびつきり静かな朝や小鳥来る    西村麒麟 

石田波郷新人賞を受賞した「古志」の西村さんの作品は、先の上田さんの分類では「4私性=ノーバディーな私による「私」語り」に振り分けてあったが、わたしは「1過去志向=擬古典 ロマン主義 反時代性 「季語」が価値」=(「古志」的?)と「2超越志向=強度重視 精神世界「前衛」的」=(「海程」的?)の混在する傾向にあるようにも思える。一句目には1を、二句目には1+2を、三句目には4をと当てはめてみたくなり、多彩である。

このように、「海程」「古志」の若手作品にはいくつかの共通点を見出す事ができるが、深淵な世界を引き寄せたり、彼方を志向するほど、一方では背後に生身の人間の業のようなものが見えてくる気がしてならない。いわば作品世界が浄土に近ければ近いほど、わたしは、句の向こうにある生身の人間の業を鮮やかに見てしまう。

菜の花や生まれかはりてこの星に    大谷弘至

この句のやわらかさや甘美な雰囲気の奥には、それに対する修羅場のようなものがあるような気がしてならない。その修羅場は個人のものにとどまらない。遡及する時の流れもまた、連綿と続く無数の修羅場を感じさせ、人間の業とは何かと思わせる。それが大谷作品の怖さであり、かえがたい魅力につながっているのではないだろうか。

白骨の反りと冬虹と揺らげよ
鬼食いも寂びたる天の縄梯子
日やゆくえ知れずの時のさくらばな    九堂夜想

様々な「海程」「古志」の作家を辿ってきたが、本質的に、大谷作品に近いのは、実は対極とも思える九堂さんの世界感なのかもしれない、と言えば早急になるだろうか。しかし、もしも大谷作品の向こうに阿修羅が立っているとするならば、と考えるとこれらからの作品がますます楽しみになってくるではないか。そんなことをぼんやり考えている内に、時はシンポジウムから賑やかなパーティーへと移っていた。

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