2011年1月18日火曜日

海程ディープ/兜太インパクト -7- 金子兜太 徒然なるままに ・・・川崎益太郎

海程ディープ/兜太インパクト -7-
金子兜太 徒然なるままに
・・・川崎益太郎




私と「海程」の出会いは、平成11年11月に当時海程集に投句していた妻(千鶴子)の勧めによるものであった。
そもそも私が俳句に手を染めたのは、平成9年に転勤で山口市に赴任したとき、それまでは転勤のときは単身赴任をしていたが、妻が自営の学習塾をたたんで一緒についてくることになり夫婦だけの生活が始まったことにある。しばらくして妻から悪魔の誘いが来た。一緒に俳句をやらないか、才能がありそうだし、お金もかからないしという甘い言葉に誘われ、句会に顔を出したのが運の尽きであった。俳句の魅力に少しずつ深みにはまり、海程にも入会することになった。海程集に投句を始めて少し経った頃、次の句が好作三十句に採られた。これですっかり気を良くしてますます抜けられなくなってしまった。

空を飛ぶ鯨一刺し秋の蜂  益太郎

兜太師と初めてお会いしたのが、平成14年の海程創刊40周年記念大会(東京)に参加したときである。千鶴子が私を兜太師に紹介してくれた。「おう、千鶴子さんの旦那か」と言われて握手した。お会いできた感激からか、分厚い手の温み、それ以外のことはあまり覚えていないが、兜太師の俳句に対する力強い思いが、講演、選評に表れていたことだけは覚えている。1時間以上立ったままで話される言葉一つ一つに俳句に対する情熱がほとばしり、講評においても、、入選句だけでなく、問題句、採りたかったけれど採れなかった句に時間を割く、兜太師の作者に対する温かいまなざしに心を惹かれていった。その合間に入る「へい、そうですか」という評が妙に心に残った。私の句もその部類に入っていたが、言われても腹の立たない、兜太師に言われたら仕方がないというマゾ的な心持ちになるから不思議である。あるカルチャーで兜太師から「この句は帰りに後ろのごみ箱に入れて帰りなさい」と言われた女性も腹が立たなかったそうである。兜太師の人間味のほかに、小泉元首相ばりのワンフレーズの上手さ、それがあると思う。
以来、全国大会・比叡山勉強会と夫婦での追っかけが始まった。成績は相変わらずだが兜太師とより近づきになった?親会で、どうすればいい句ができるのか、海程向きの句が作れるかと聞いたところ、即座に「海程向きの句はない。自分の句を作ればいい」という言葉が返ってきた。連戦連敗で兜太師に採ってもらえる句ということが先走って、自分の感動に忠実であることを忘れていた。まさに目から鱗なのであった。
兜太師は、どこをどう直せば入選という言い方はされない。それは自分で考えろということだと思う。講演、講評等を通じて自分の句の至らなさを理解させようとするのが兜太師の姿勢である。兜太師の次のような考えにも心が洗われた。一つは、季語はなくてもいいという兜太師が、実は季語を一番大切に考えているということである。
「季語が駄目、季語が効いていない、季語が泣いている」等の評の裏に、季語に対する畏敬の念、深い思いを感じるのである。二つ目は、実感を大切にということである。
「できた句であるが、実感がない、作り物である」という評をよく聞く。高点句にそれが多いのも不思議な気がする。このような兜太師の言葉を胸に作句しているが、言うは易し、でいい句はなかなかできないので、苦吟の毎日である。
全国大会、比叡山勉強会への広島からの参加者が夫婦2人だけだったが、現在では7,8人参加できる態勢になってきた。そんな中、平成23年の海程全国大会は、広島が担当することになった。これまで中国地方では開催されたことはなかったが、広島の会員も増え、参加者も増えたことから、白羽の矢が立ったようである。広島といえば原爆、原爆といえば兜太師の次の名句がある。

彎曲し火傷し爆心地のマラソン  兜太  

広島のことかと思っていたが、長崎での作品だそうである。いずれにしても原爆、平和ということに強い関心をお持ちの兜太師にとって、広島に対する思いは強いものがあるのではと推察申し上げる次第である。5月の広島でどんな作品が生まれるか楽しみである。私とすれば作品より、いかに無事に大会を終えることができるか、その方が問題ではあるが、海程創設50周年の来年に、滞りなく橋渡しができる大会にしたいと思っている。

広島や卵食ふ時口ひらく   三鬼

これに匹敵する句が出てくることを期待したい。
以上、徒然なるままに書き連ねた。

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