2011年1月18日火曜日

回想の『新撰21』 ――――いかにしてアンソロジーは生まれるか ・・・筑紫磐井

回想の『新撰21』
――――いかにしてアンソロジーは生まれるか
・・・筑紫磐井




『超新撰21』が刊行されたばかりであるが、『新撰21』の刊行の経緯を簡単に述べておこう。『超新撰21』に公募選考の詳細な経緯が記述されているので、それと併せて『新撰21』の刊行の経緯もつまびらかにしておいた方がよいと思うからである。今後こうした企画の参考になるかもしれない。

前史・・・・長岡裕一郎

『新撰21』の刊行に当たっては一つの前史を語っておく必要がある。それは、「―俳句空間―豈weekly」というブログが立ち上がったことである(2008年8月17日~2010年7月18日の間毎週日曜日刊行)。すでに「週刊俳句」という週刊ウエブマガジン(2007年9月~)が発信されており、これに対して「俳句など誰も読んではいない」という刺激的な巻頭言を掲げて、高山れおなと中村安伸が管理したブログである。
2008年7月29日 新宿から、高山、中村氏が電話をよこし(アルコールが入っていたようだ)、「ブログを立ち上げますから」と宣言した。もちろん否応もなく、翌月からは硬派な記事を載せてブログが更新された。決してアクセス数は多くはなかった(最盛期でも「週刊俳句」の10分の1程度)が、特色はよく理解されたようで、冨田拓也、関悦史氏などが毎号名物記事を載せ、私も時々協力させてもらった。
このブログにとりわけ熱心なファンが入り、とうとうこのブログの関係者が企画する出版のパトロンになってもいいと言い出されたのだった。詳細は、私はあまり良く分からないが、関係者たちはいつか本気になっていった。
そんなことで構想がかなり煮詰まって来て、私と高山れおなが初の打ち合わせを行ったのは12月20日の原宿の喫茶店であった。何かめぐり合わせのような気もするが、豈の同人でその年の4月になくなった長岡裕一郎の追悼個展の後、流れるままに喫茶店へ入っての打ち合わせであった。
わき道にそれるが、長岡裕一郎は昭和47年、大学受験中に三一書房の『現代短歌大系』の新人50首詠に応募し受賞次席を受けている。選者中井英夫に「あまり達者で舌巻くほかはない」と言わしめた作品が、

青空にマグリットの月冴え冴えと『諧謔』は歩く恋愛海岸
ギリシャ悲劇の野外劇場雨となり美男美女美女美女美男たち

の一連だ。後、俳句に転じ「豈」に作品を発表したが、過度の飲酒が肝臓をむしばみ、53歳でなくなった。こんな長岡の個展の後で新人アンソロジーの打ち合わせをするのも何か引き合わせたような気がする。実際、『超新撰21』の公募枠は長岡が挑戦した『現代短歌大系』の新人詠にヒントを得たものであった。

『新撰21』出版まで・・・上から目線

その後私は、資金と企画があるのだからいい出版社を探してほしいという要請を受け、旧知の邑書林の島田牙城氏に、年も押し詰まった12月31日メールを出した。その後やり取りがどれくらいあったのか忘れたが、翌年2月19日、島田氏より明細まで提出されて一挙に話が進捗することとなった。
今はもう時効だから言うが、当時、子供のサッカーの監督で忙しかった島田氏からの返事が途切れていたので、私は督促をしてみた。それもどういうわけか、メールではなくその時はファックスを送ったのだ。ご丁寧にも、邑書林がだめなら別のA出版に依頼しようと思うと書いてあった。そのファックスが島田氏の前に、社長の目にとまり、向こうでどういうやり取りがあったか知らないがあっという間に返事が返ってきたのだ。島田氏の名誉のために言えば、それ以降は獅子奮迅の働きをしてもらっており感謝している。
後は迅速であった。2月28日、早稲田のリーガロイヤルホテルで、高山、島田、筑紫の3者会談が行われ(残念ながらこの時、出資者は都合悪く来ることができなかった)、新人アンソロジーの骨格が決まる。本のイメージは、邑書林の「セレクション俳人」シリーズである。

○企画:高山れおな、対馬康子、筑紫磐井
○出版時期:21年12月
○収録候補者:40歳以下21名
○企画内容:21作家100句、各作家論、座談会(編者とゲストによる)とする。

今見直してみるとほとんどこの通り進んだのだから奇跡的だ。21人という人数は、21世紀と語呂を踏んだものであり高山れおなが固執した。40歳以下は、選者のれおなをはずすための上限でもあった。100句は、芝不器男俳句新人賞の例を見るまでもなく作家の力量を知るためにこの程度は必要な句数であった(その意味で俳句甲子園の活躍者は、それだけでは対象にしづらかった)。収録作家の人選は少し進んでいたが、冨田拓也、関悦史氏などの芝不器男俳句新人賞の入選者がイメージにあったから、人選企画には同賞への関与の深い対馬康子氏にはぜひとも参画してもらわねばならなかった。また、新人の発見に熱心な小澤實氏の「澤」が特集で、<二、三〇代特集>を組んでおり、このメンバーも参考にさせてもらったので、いずれ小澤氏には何かの形で協力を頼みたいと考えていた(後日、2回の座談会のゲストになっていただいた)。
私の主張は、21作家論は結社の場合主宰者を外すこと、特に人選企画に我々世代が参加するのはしょうがないとしても、作家論は40歳以下の執筆にすべきだということだった(結果的にいい執筆者が見つからず、5歳下駄をはいた45歳以下としたが)。40歳以下の作家が発表し、批判し合う構図こそ大事だと思ったからだ。後日我々の間でミニ流行した言葉が「上から目線」であり、新人を発掘することに熱心な人々でさえ、それを議論するときの姿勢が、指導者が弟子たちを見るまなざしで批評することがうかがわれたのである。我々が、「上から目線」を脱し得たかどうかは不明だが、「上から目線」はこの種の企画にあってはよくないと自覚していたことだけは一応誇れるかと思う。
あと個人的には、豈の同人が2人も企画編集に入るのであるなら、身を律して、「豈」からはどんないい作家がいても1人しか入れまいと思っていた。50%近く豈の寄与でできる本については是非そうあるべきだ。後日変なブログが、「人選を高山れおなが中心となり、編集委員に高山れおな、筑紫磐井という3人中2人が「豈」のメンバー。選ばれた21人や小論執筆者に「豈」のメンバーがずいぶん含まれているので、もうちょっと懐の深いところを見せてもらいたかった」と非難しているのは予想通りの見当違いの非難であった。結果的には、「海程」作家が最多の3人となっているがそれは何ら問題ない。ただ困ったのは枠組みが決まってから、従来から自由に「豈」で執筆してもらっていた関悦史氏が、義理に感じてか「豈」への入会希望を出してくれたことで、「豈」から1人のプリンシプルが一見崩れていることだ。『超新撰21』ではこの原則を守ったが、こんどは島田牙城氏が主宰する「里」が途中入会者を含めて2名となってしまった。
以後、高山れおな、対馬康子、筑紫磐井の3名(もちろん島田牙城氏も加わったが)でメールにより人選絞り込みが行われた。「21世紀に活躍した」を表すコンセプトが複雑で、結局「2009年元旦現在40歳未満で2000年以前には個人句集の出版及び主要俳句賞の受賞のない俳人」となったがよくわからないかもしれない。しかしこの基準で行くから、高柳克弘、鴇田智哉氏ら新人賞受賞作家も『新撰21』に入っている。この作業後、最初は参加者、その次は小論執筆者に依頼が進み、9月には原稿を踏まえた座談会が行われることとなった。名称は、「新星」などもあったが高山れおなの提案した「新撰」におちついた。刊行後の「新撰21」竟宴はもっぱら島田牙城氏の提案だが、王朝時代の勅撰和歌集撰定後の「竟宴」に似ていると編者には評判がよろしかった。200名に上る若い人々が集まったのはご承知のとおりである。

『超新撰21』出版まで・・・ぎらぎら

『超新撰21』についてはさすがにまだ回顧するには早すぎるようだ。『新撰21』の座談会で小澤實氏が「40歳以上、50歳のアンソロジーも読んでみたい」と述べてくれたのをきっかけに、かなり早い時期に邑書林が自費で刊行する決心をしてくれたことだけを述べておく。今回はパトロンはいないから、まったく邑書林の英断であり、深く感謝する。
ただ一つだけ、『超新撰21』シンポジウムで指摘された「版元・編者のぎらぎらとした姿勢」について触れておきたい。
当初、編者たちの『超新撰21』人選案は、30歳の大谷弘至氏から始まり50歳の伝統派俳人で終る予定であった。『新撰21』も『超新撰21』も、牧羊社と違い透明性を示すために、人選を含めた当初の企画案をそのまま参加呼び掛けで配ったから、今回の参加者は、20人の候補者がいて(ほか1名が公募。途中辞退者が出たので枠を2に増やした)、そのうちの1人が辞退したことを知っている。この顔触れで見た時、ちっともぎらぎらしていなかったのである。
名前を隠したまま行われた公募審査の結果、20代をとろうなどという意識はなかっただけに、大谷氏よりはるかに若い二人が決まった時は編者一同絶句したものである。高山れおななどは、「ザ・ヘイヴン」の作者を少女の仮面をかぶった中年おじさんではないかと疑っていたほどである。こうして、大谷氏の前に20代が2名入ることになる。特に最年少は種田山頭火の遠縁に当たる自由律の俳句作家であった。一方これと並行して伝統派の最年長者が辞退した。その結果、結びが川柳作家清水かおり氏で終ることとなった。自由律作家で始まり川柳作家で終わる一見ぎらぎらした構成となったのは編者がぎらぎらしていたのではなく、『超新撰21』の偶然の女神がぎらぎらしていたのである。ただ、神慮に忠実でありたいと誰しも思ったことはまちがいない。
私が一番、版元、他の編者がぎらぎらしていると感じたのは、いかに形式的要件

・2010年1月1日現在50歳未満(U―50すなわち1960(昭和35)年1月1日以降生まれの方)
・2000年12月31日までに主要俳句賞受賞歴がなく、
・同じく2000年12月31日までに個人句集上梓のない俳人

に合致しているとはいえ、大結社「鷹」の主宰小川軽舟氏に参加依頼を出すと聞いたときだった。小川氏には、今回『超新撰21』に参加し、さらに『超新撰21』饗宴シンポジウムに参加して頂き深く感謝しているが、それとは別に、小川氏へ依頼状を出すと聞いた時は、わが編者も版元もぎらぎらしていると感じないわけにはいかなかった。

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