2010年12月10日金曜日

「俳句的身体」をめぐって(下) ・・・柳生正名

「俳句的身体」をめぐって(下)
・・・柳生正名



Ⅲ 同調する身体と俳句


1 拡張された身体

市川氏は「精神」(p78〜83)で、「はたらきとしての身体のひろがりというべきもの」が、解剖学的な体表を超え、広がると説きます。「熟練した外科医にとって、ゾンデは外的な道具であるのにとどまらず、肉体化された二次的な指先となる」。メスや内視鏡を自身の指先同様に操作する“ゴッドハンド”の持ち主が、TV番組などでよく紹介されます。
ピサの斜塔も例に挙げます。斜塔を遠望して、人は不思議な感銘を受ける。その時、「はらたきとしての身体は、見るとき、むこうの斜塔までのびている。(中略)われわれは身体のうちに斜塔とともに傾く力と、それに応答して復元しようとする力との緊張を感じる。意識下でおこなわれるわれわれの身体への斜塔の呼びかけと、われわれの身体の応答が産み出す緊張が、身体を魔術にかけ、われわれを魅するのである」(「精神」p81)。斜塔と自己の身体が同調・共振することが、光景に圧倒的なリアリティと不思議な魅力を醸し出すというのです。
冒頭、「自分の肉体で承知した自然しか信用しなくなる」という金子兜太の言葉を紹介しました。ここで言う「肉体」は、拡張され、自然と同調・共振する身体のことではないかと思います。
拡張される身体があるからこそ、直接触れえない事物についても、人はリアルな実在感を持つことができます。見える物は、経験から学習することにより、どの程度の重さで、どんな手触りで、などと推測できますが、ヴァーチャルな像とは異なる実在感を得るためには、拡張した身体を駆使して、同調・共振の感覚を得ることが必要だ、と言うのです。
実際、ある種の精神疾患(統合失調症)では、こうした外部世界のリアリティが失われることがある、とされます。その場合、「世界は深さを持たない単なる延長、よそよそしく冷たい芝居の書割のような単なる表面となり、私は世界のいかなる存在とも共感することができなくなる」(「精神」183頁)。
一方、市川氏は「身体のひろがり」を主に空間的な次元で考えています。ただ、記憶という問題を介在させたとき、身体は時間軸に沿ってもまた拡張・延長されうる、と考えたくなります。俳句に季語が登場する場合、それは、第一義的には今、作者の前に現存するものとして表現されます。しかし、先に述べたように、季語には歴史的に沈殿したあまたの日本人の季節をめぐる思いと記憶がこめられている。そうした集団的かつ歴史的な記憶をたどり、共有することで、過去との同調・共振を果たしたとき、身体は時間軸に沿って拡張・延長しているのではないでしょうか。

鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな 蕪村

洛南・鳥羽離宮跡、野分の吹き荒れるさまを眼前にした蕪村。その瞬間、彼の俳句的身体は時間を遡り、同じ地を北面の武士が闊歩した西行の時代まで延長される—そんな体験を詠んだ句と言うべきではないでしょうか。過去想望の句であることは間違いありませんが、描かれた景は、「よそよそしく冷たい芝居の書割のような単なる表面」ではなく、身体的生々しさをたたえていると思います。


2 身体的同調の起源

身体的な同調・共振の起源を考える際、市川氏は、1匹、1羽の動きにつられて、いっせいに方向転換する魚群や、飛び立つ鳥たち、1人が泣くと一斉にもらい泣きする産院の赤ん坊を例に「他者理解のもっとも低次の相に、こうした『共生』ともいうべき原始的な過程がはたらいている」と考えています。
二匹の子羊はともに走り、飛び跳ね、お互いの行動を相互模擬しあう。霊長類チンパンジーでは、箱を積み重ねて天井から吊るされたえさをとる実験で、未経験なチンパンジーが不器用に箱を積み重ねているのを見た経験豊かなチンパンジーが、自分が積み重ねているわけではないのに、箱が崩れそうになると、思わず手を差しのべたり、手足をうごめかす。人間もボクシングや相撲を見ていると、自分が戦ってでもいるように、筋肉に力が入り、熱中してくると選手の動作をなぞったり、先取りして見せたりする(「精神」275頁)。
もともと魚や鳥が他の個体の動きと同調する性質を持つのは、危機的状況から生き延びるため。人類も、進化の過程で狩猟などの際、他に同調した行動を取ることは生き延びるために必須だったはずです。
脳医学の世界では現在、「ミラーニューロン」の存在が唱えられています。霊長類など高等動物の脳内で、自ら行動する状態と他の個体が行動する様子を見ている状態の、両方で活動電位を発生させる神経細胞であり、他者の行動を見たとき、まるで自分が同じ行動を取っているかの感覚を産み出します。これによって、高等生物における身体的な同調作用の高度な発達が科学的に証拠付けられるとすれば、注目に値します。


3 同調による理解

市川氏は言います—「感応的同調は、幼児にみられるように、初歩的には他者の行動をほとんどそのままなぞるところまでゆくが、やがて素描的な身ぶりや表情による感応、さらには外にはあらわれない筋肉的な次元での下書きに集約され、もっと進んだ段階では、単なるイメージあるいは観念によって、可能的行動を先取りし、下書きする観念的感応へと内面化される」(「精神」277頁)。人間も赤ん坊の場合、目の前の人が笑うと笑うなど同調的行動を取りますが、成長するに従い、同調を直接、行為で示すことは少なくなる。ただ、その場合でも、外面からはうかがえない筋肉の微細な緊張や、さらには脳内でのイメージ上のシミュレーションなど、より抽象化した方法で、他者と同調し、共振する身体を実感するというのです。
「われわれはこうした感応動作や、その筋肉的な素描、さらには単なるイメージによる観念的下書きによって、他者の行動や表現の意味を、また他者の感覚や情動や精神状態さえも、いわば身体的に感得し、内面化する」。
宮崎アニメ初期の代表作に「ルパン三世 カリオストロの城」という作品があります。
その中で、ルパンは高い塔の内に囚われたクラリス姫を救おうと奮闘します。観客は、彼が屋根の端にかろうじてぶら下がり、懸垂して這い上がるシーンを見るとき、自分自身の肩や腕に無意識に力が入る感覚を容易に実感できます。二次元の、デフォルメされ、記号化された絵でしかないものに、私たちは身体的な同調・共振を起こし、感移入し、自分があたかもルパンであるような、感覚さえ持ちます。宮崎駿監督はそのような事態が生じるように、計算し尽くした演出を施している、と言っても良い。
現実の光景→実写映画→アニメ→漫画と進むに従い、こうした同調を産み出す原因となる情報は、より抽象的で記号化されたものとなります。漢字が象形文字であることを考えると、媒体が言語にまで抽象化されても、同様のことが起こりえる。言葉によるコミュニケーションが、人間という種に可能である根底には、身体的な同調・共振の能力を高めていった結果と理解できるでしょう。
身体の「他の構造への〈同調〉ないし〈共鳴〉が、他者あるいは物の内面的理解を可能にし、世界をその表面にそってでなく、その深さにそって理解させる」(183頁)。近代西洋哲学では、デカルトの唱えた「われ思う、ゆえに我あり」という命題を土台に、唯一の確かな実在である「コギト考えるわれ」=主観が、どのようにして「外部の世界」や「自分以外のわれ(他者)の内面」=客観的存在をリアルに認識し、理解できるのかを常に議論してきました。その回答として、市川氏は(そして、おそらくは金子兜太も)拡張された身体の同調・共振という作用によって、それが可能になる、と考えるのです。
それは、「頭で分かる」ことと、身体的な同調・共振を伴って「体で分かる」ことの間には本質的な違いがあるということを意味します。単に頭だけで理解された世界は、おそらく「深さを持たない単なる延長、よそよそしく冷たい芝居の書割」にとどまるでしょう。世界を深さというリアリティを持った存在とするには、体で分かることが必要なのです。
仏教で言う「悟り」が、単なる知識の獲得によってでなく、身体的な「行」を通じ、達成されるのは、そのためです。そして、その悟りには「山川草木悉皆成仏」、すなわち、存在するものすべては仏、というアニミズム的な考え方が含まれます。このように、ありとあらゆる存在に分け隔てない生命の息づき、そして自己との一体性を実感するアニミスティックな感覚は、自己と他との身体的同調・共振によって裏付けられるものでしょう。


4 身体的同調と文学

俳人という立場から、市川氏の言説を巡っていく時、もっとも印象的なのは、身体の同調・共振によって、文芸の持つ本質的な力を説明している点です。「文学は、言語がイメージを喚起する力とわれわれの(身体に基底を持つ)感応的同調の能力を最大限に刺激して、(読者に)一つの架空の人生を(自分自身のものとして)生きさせようとする試み」(「精神」278頁)。先に述べた宮崎アニメが、娯楽作としてだけでなく、今や芸術作品としての評価も得ていることと考え合わせれば、理解しやすいでしょう。
文学のうちでも、小説は必要に応じて叙述の解像度を上げる(記述を詳細にしていく)ことが可能です。それによって、読者の感応的同調をコントロールし、自らと性格が異なり、現実なら嫌悪感を抱くだろう人物像や、荒唐無稽な空想世界にさえ、やすやすと感情移入させることができる。
一方、俳句は、叙述に費やせる情報量は最小限で、小説のような戦略は採用できません。にもかかわらず、読者に世界に対するアニミスティックとも言える感応的な同調を引き起こすことができるのはなぜか。


5 俳句的身体

ひとつは、「定型」と「切れ」の織り成すリズム感や音韻性、また「季語」の持つ体感に根ざした文化的な共通基盤としての性格が、詠み手と読み手の間、または俳句そのもののと読者の間に、身体的な同調・共振をもたらす大きな力となっているでしょう。

獅子舞の歯のかつかつとせり上がる 藺草慶子

読者は、8ビートに裏付けられた五七五のリズムが持つ躍動感に支えられ、身体的に活性化した状態で「かつかつ」と発語する。もしくは、黙読する場合でもヴァーチャル仮想的に発声に伴う筋肉の動きをシミュレート模倣して、舞獅子の口の動きをそのままなぞり、獅子頭と身体の上で同調する。だから、言葉で描かれた獅子舞の生き生きとした姿が眼に見え、歯をかみ合わす音が実際に聞こえるかの感覚に襲われる。獅子頭の中に人間の息遣いをも実感するのです。日本語に多い擬音・擬態語は、そうした効果を持ちます。もし、「かちかち」ならば、発語の際、実際に歯は噛みあわない。
そこに、この句において「かつかつ」でなければならない必然性があります。
次は、情報の絞り込みです。一点突破・全面波及、もしくはクローズアップ効果といったらよいでしょうか。

ひっぱれる糸まっすぐや兜虫 高野素十

描写を一直線に伸びた糸に集中し、瞬間を鋭く切り取ることで、読み手は自分の心身に緊張感を呼び起こされ、同調してしまう。糸で結ばれた重い荷を懸命に引く甲虫と身体を共有し、自らがなりきったアニミスティックな感覚を体感することになります。
三つ目に、俳句の持つ、記憶の内にそのままの形で棲み付く特性にも秘密があります。
たとえ、句を読んだ最初の瞬間には、書かれた内容への同調=理解が不能でも、記憶の中にとどまれば、時を隔て、例えば、それと似た体験をする、または、その句の意味を理解するのに不可欠な知識を偶然得る機会が巡ってきた時に、突如として同調現象が起こる可能性があります。
人生というジグソーパズルを組み上げていく中で、ある経験をした瞬間、その要となるパーツが埋まり、描かれた全体像が一気に見える体験をすることがある。そういう時に、日本人は「目から鱗が落ちる」「腹にすとんと落ちる」などと、身体に言寄せた表現を用いてきました。ことが「本当に分かる」際に感じる身体に根ざした同調・共振の実感がそこには籠められています。
俳句は、そのように記憶にとどまり、身体化されることで、読み手の成長に併せ、より深い同調・共振をその身心に生じさせる性格を持つ文芸なのです。
とすれば、自分の周りに広がる世界や周囲にいる人々に対し、高度な同調・共振能力を備えた身体を持つことが、俳人たる者に求められる資質、ということになるでしょう。その上で、「定型」「季語」「切れ」という独特な言語技術を駆使しつつ、自らの身体が経験した同調・共振の感覚に読者の身体をさらに同調・共振させることができたとき、名句というものが生まれるでしょう。それを可能とする「俳句的身体」を自らのものとした存在のみが、俳人を名乗る本当の資格を持つ、というべきかもしれません。


6 「分からない文芸」としての俳句

詠み手の意図を正確に読者に伝えるという意味では、俳句という形式は極めて不完全です。むしろ、俳句が伝える主なものは、ある意味で曖昧な身体的な同調・共振の感覚だと言って良いかもしれません。
そもそも、散文と同じ意味で解釈しようとした場合、俳句のほとんどは情報量が不足しており、解釈不能です。むしろ「分からない」のが当然の姿、と言うべきでしょう。
それでも、身体的な同調・共振の感覚を通じて、俳句は読み手の記憶にとどまる場合がある。その際には、もはや、句から何を汲み取るかは作者の意図とは切り離され、ある意味、句は読み手自身のものとなってしまう。
この段階まで来ると、句がいったん忘れられてしまっても、季語を持てば、季節のめぐりに応じて、思い出される機会がめぐって来る。そういったプロセスを経て、読み手が人生を重ねるに従い、その句に対する理解も、そこから得られる身体的な同調・共振の質も、より深いものとなっていくに違いありません。
昨今、元気とされる日本映画の世界で「分かりやすい感動」がキーワードとなっているそうです。公式化されたテクニックを駆使し、時系列に沿った筋運びゆえに、一篇の内ですべてが「割り切れ」、後を引かない作品が好まれる。ある意味では、消費の対象として上出来です。消費する側は、すぐ結果が出ることを望みます。流行のダイエット法のように。
俳句についても、句会という制度と結び付いて、目にした瞬間に分かる作こそ伝達性があり、好ましいとされる風潮があることは事実です。ただ、ここまで「俳句的身体」という視点から考察してきた道筋を振り返れば、そうした風潮が俳句の本質をむしろ否定しかねない点に気付くでしょう。何事につけ、本物は飲んで一日ですべて解決、というものではない。数年、数十年たって、あのときに飲んだことが大きな意味を持っていた、と実感させるのが、本物の本物たる所以ではないでしょうか?

地に殉教そら宙に毛深き蝶のかお貌 柳生正名
蘆火ひとつ近江はひかがみ膝裏の瞑さ

本日の話も、これらの句も本物と言うほどの自信は持ち合わせませんが、ご清聴いただいた皆様の記憶に少しでもとどまり、いつか、皆様の内に「ああ、あれはそういうことだったのか」という思いを抱かれる方が、ひとりでも出て下されば、語る者としては望外の喜びです。

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