2010年10月10日日曜日

堀長町の人びと(下) -堀之内長一作品鑑賞- ・・・宮崎斗士

堀長町の人びと(下)
-堀之内長一作品鑑賞-
・・・宮崎斗士



3・さちこさん

僕は全てのお客様をこっそり「さちこさん」と名付けている。そうしたほうがなぜだか仕事に没頭できるから‥‥。変なものだ。「さちこ」なんて名前の人には生まれてから一度も出会ったことがないのに。
足裏マッサージ。足の裏には全身を投影したスクリーンのような状態で反射区が分布していて、各反射区を刺激することで全身の細胞の活性化を促進、新陳代謝を上げることができる。この仕事に就いてから、もう八年。この店の施術マニュアルに、独自のノウハウを加えて熟成させてきた。
仰向けにベッドに横たわるさちこさん。心臓のある側、左足から施術。足底の中心のやや上部から足底左下部へと続く湧泉ラインに始まり、消化器系ライン、心臓脾臓ライン、様々な反射区へと、念入りにしこりの有無を確かめながら進めていく。
痛くしないように、痛くしないように‥‥八年間、心の中でずっと唱えてきた。
そのうち、さちこさんが目を閉じてゆく。施術しながら、僕はさちこさんの全身を徐々につかまえてゆく。肉体というものの真実に向かって、どんどん思いは深化する--。

肉体のぬかるみがある夏の果て

肉体の不安定さ、あやふやさにあらためて気づかせてくれた一句。厳しい暑さを乗り越えて来た、よれよれの肉体だからこその「ぬかるみ」感であろうか。「がある」という、やや持て余し気味のフレーズに何か共鳴できた。そしてまた、

肉体がありありと見ゆ淑気かな

逆にこの句は、正月の改まった空気の中で肉体感覚がクリアになってゆく、その喜びに満ちている。これからの一年への意気込みも含まれていそうだ。
この対照的といえる二つの句‥‥その振幅の中で僕たちは生きているのだろう。

体内に草生え少し踏みしだく

騙し絵のような不思議な世界。意識と肉体の微妙な距離感が描かれている。「少し踏みしだく」の軽快さが、「いい関係」を示しているようだ。

まぶたというあいまいな域夕ひぐらし    

生きるとはまさに目を開く、閉じるのくり返しなのだろう。そのくり返しを司るまぶたの「あいまいさ」を提示。言わば「あいまい」ということに生きている証があるのだ。「夕ひぐらし」という「音」にまつわる下五が、そのあいまいさに、ある彩りを添える。

空気や水や蛍をつかむ男かな

空気も水も、体を維持するためには不可欠なもの。しかしもう一つ、空気や水が必要なように「蛍」を必要とする男。蛍を選んだところにこの「男」のロマンチシズム、作者の人生観が読み取れて興味深い。

健康やつるうめもどきに朝が来る

この爽やかな映像、まさに「健康」のシンボルとしてふさわしい。そう、やはり肉体形成に肝要なのは「朝」なのだ。

さらに肉体は自由自在に遊ぶ。飛んでゆく。

ヘソのように月を抱きて遊ぶかな
流星に大きな顔は切られけり

体に臍があることの安定感、安心感を、「月を抱きて」という大らかな措辞につなげた。おそらく見事な月だったのだろう。その月をじいっと見ているうちに、だんだん自らの肉体と一体化してゆく流れ、理解できた。「流星に」の句も、星空を眺めているうちに、だんだん広大なる宇宙と自分とが一体化してゆく。だからこそ流星に「顔を切られた」感じがするのだ。まさしく宇宙に溶け込んでいるような不思議な時間。

青桐に馬つなぐ馬の表情も

「一体感」という意味ではこの句もそうだ。滑らかな緑色の幹と大きな葉っぱ、そんな青桐の木につながれて馬も心地よさそう。そんな朗らかな空気ゆえの「馬の表情も」なのだ。

いっぴきの一滴の虫アカザの葉

アカザの葉に遊ぶ一匹の虫。その均衡によって、虫の肉体も水のようなまろやかさ清々しさに変化してゆくのだ。何という美しい構図だろう。僕はこの「アカザの葉」になりたいのかもしれない‥‥。

漱ぐとき落葉樹林を羊行く
山ぼうし雨季の始めはこめかみに
葱食べて神経さらに混み合えり
白鳥の影のびて髭のびている
ぼうふらや心臓にある青い影
ちはやぶるからだ虎尾草虎耳草
頭冴えて泰山木の花の疲労
平熱にもどる夕暮れ韮刈って
白梅や人体という開閉器
まんじゅしゃげ舌荒れる日の光量よ
わが鼻梁蚊蜻蛉かすめるとき高し
冬の蝶まれに頭蓋にしのびこむ
眼の弱りごんずいの実に呼ばれている

肉体の機微、身体と万物との関連性を豊かな感覚で捉えた作品群。その裏づけのように、

蔦の家ロボット犬の哀しい反り身

命を持たない、精神を伴わない身体の味気なさを、蔦の茂っている家の侘びに託して表わしている。そして、     

犬に喰われる自由が人にあり霜夜

霜夜の張りつめた空気。この「自由」という措辞から、肉体を持つことへの、ある複雑な畏怖を受け取るのだ。

湧泉ラインは最も重要な部位なので、施術の間、何度となく繰り返し刺激する。さちこさんは眼を閉じたままだ。

枇杷咲いて肉体かるくする運動
草の実やくるぶしに光線とどいた

この仕事に就いたばかりの頃、枇杷の花のやわらかさ、草の実の瑞々しさを肝に銘じたものだった。僕の仕事は、肉体に運動、そして光線を与えることだと。

青水無月海蛇に生まれ変わらん

青水無月の空気を捉えている。あの海蛇のしなやかな肢体。海蛇に生まれ変わったさちこさんたちが、堀長町を美しく凛々しく闊歩する‥‥。

ホットタオルで両足底のオイルをていねいに拭き取り、そのあと乾いたタオルで軽く、流すように摩擦する。
--はい、これでセット終了です。
さちこさんがゆっくりと目を開く。
さちこさんの全身に朝が来る。            



4・石と鳥と

夕方5時、電話があった。夫は今日も会社泊まり。昨日は夫と一緒に、駅ビルへイタリアンを食べに出かけた。赤ワインを二人でボトル一本空けて、久し振りに夫は私を「ちーちゃん」と呼んだ。帰りがけ、家電センターで新型のデジタルカメラを衝動買いして、夜の公園で夫婦で写しっこした。
でも今日はまたいつも通りだ。
息子のマサルが私たち夫婦に口をきいてくれなくなってから、もう一年半になる。
学校(公立中学)に行かなくなり、自分の部屋から出てこなくなってから、もう七ヶ月。「あれじゃ石ですよ、石。石になったようなもんですよ!」と口走った担任の先生を、夫が怒鳴りつけたのが先月--。
私は日記をつけている。日記というか雑記帳。もう四冊目になった。息子のこと、夫のこと、学校の先生やメンタルクリニックの先生のこと‥‥全て書き記してある。沈んでいきたくないから、できるだけ明るく書く。新聞・雑誌の記事や小説の一文なども、「親子・家族」に関することで気になったものなら何でも書き記す。そんな雑記帳に最近、俳句が記されるようになった。毎晩床につく前、私は雑記帳を開く。

さるすべり記憶の端に蒙古斑

わが子の蒙古斑をはじめて目にした時の喜びと感慨。どんなに歳月を経ても、心のどこかに残っていて、ある時ふっと過ってゆく。それは例えば、百日紅の花の清々しさに触れたような、とても豊かなひととき。そして「百日」といわれるだけの花期の長さ--親子、家族という長く遠い道のり。

砂丘のごとく本積みし子に夏近し
夏葱と照り合う厚き本読む子

子どもの精神的な成長、心の成長を促す読書。本に夢中になっている子を、作者は嬉しそうに眺めている。「砂丘のごとく」「夏葱と照り合う」という措辞のみずみずしさ、親としての思いが伝わる。
--そんなわが子に変調が訪れる。

この子不思議な波に憑かれて青葉木菟

不思議な波--わが子の今までにはない複雑な変化に気づく。何がわが子に起きたのだろう‥‥不安を抱きつつも、子の新しい局面に注目する作者。青葉木菟と対峙するように。

吾子いつしか一人遊びの白鳥かな
父なき子等白鳥のごとき毬を抱く

一人遊び、親でも入って行けない領域、その投影としての「白鳥」。そしてまた父のいない子らの心情を「白鳥のごとき毬」に投影している。白鳥のあの眩しさは、単なる「孤独」を超え、子らの自意識、自立心の萌芽を表わしているようだ。

玄関先に涙ぐむ子は梟です

玄関先は家庭と外界との境目。その場所で涙ぐんでいるわが子。その涙のわけ、いろいろに想像させられて、いたたまれなくなる。マサルもこんなふうに涙ぐんでいたのだろうか‥‥。「梟」の寂しげな佇まい、鳴き声。まさに子が今置かれているのは、暗くて寒い「夜」なのだろう。

ぼくはもうジュゴンになりたい子の冷えや

ジュゴン--あの圧倒的な簡潔な存在感。悩みやコンプレックス、御し切れない自分自身を抱えているからこその独白であろう。無邪気にもとれる言葉の裏の切迫。
親にとってはまさに「冷え」なのだ。

夏つばめこの子の十字路の真上

十字路。進路、方向に迷う子。作者はそんなわが子に対して、具体的に何もしてあげられない。せめて子の頭上の「夏つばめ」に祈る。この子をどうか正しい方向、真の幸福へと導いてくれますように、と。

子育ての勢いは銀夏つばめ

「子育ての勢いは銀」というフレーズに心打たれた。銀という色の持つ清らかなパワーをあらためて実感。とても励まされた。この句にも「夏つばめ」が置かれている。作者がわが子をじっと見守る、その象徴としての「夏つばめ」。

春かもめ無限にやわらかい球技   

親子というのは、ひとつの球を投げあうようなものかもしれない。球は、親と子それぞれの思い、願い、慈しみを託されつつ往復する。そしてそれは無限に続くのだろう。願わくばそう、「春かもめ」のやわらかさで--。

夫が先生を怒鳴りつけた時、私は、別に石でもいいじゃない‥‥と思っていた。マサルが石になってしまったのなら私は鳥になろう、と。鳥になって、石になったマサルを空高くまで運ぶ、運ぶ。何度地面に落ちてもまた運ぶ。いつか私と一緒に鳥になって羽搏いてくれる日まで。          
午前6時30分、目覚まし時計が鳴る。そろそろ夫が帰ってくる。たっぷりとお湯を沸かしておこう。 
「マーくん、おはよう! 元気?」
ドア越しの、マサルの宇宙に向かって今朝も呼びかける。春かもめ。夏つばめ。買ったばかりのデジタルカメラが、家族三人揃うのを、きっと待ちかねている。  


*文中の俳句作品は、全て堀之内長一さん(海程所属)によるものです。

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