2010年9月25日土曜日

堀長町の人びと(上) -堀之内長一作品鑑賞- 宮崎 斗士

堀長町の人びと(上)
-堀之内長一作品鑑賞-
・・・宮崎斗士



1・コウタくんと私

鉛筆を削る音。私はじっとコウタくんを見つめている。
夕方から夜へ向かう途中、ほとんどの子供たちがお母さん、お父さんに連れられて帰宅。今日も私とコウタくんだけが遊戯室に残っていた。午前中、ずっと寝ぼけまなこでいたコウタくん。夕べまたお母さんのご機嫌が悪かったらしい。
「さあ、コウタくん、えんぴつの時間よ」。
急に目を輝かせてはしゃぎ出すコウタくん。テーブルの上の筆立てから鉛筆を一本取り出し、その芯を折る「ぽきっ」。その鉛筆をコウタくんに渡すと、コウタくんは楽しそうに遊戯室備えつけの手動鉛筆削り器で鉛筆を削るのだ「ごりごりごりごり」。きれいに削れた鉛筆の芯を、私がまた折る「ぽきっ」。コウタくんがまた「ごりごり」。延々とそのくり返し。いつからかこの「遊び」が私たちの秘かな約束事となっていた。
子供の頃、私はよく(いろんな)誰かから鉛筆の芯を折られていた。折られ続けていた。筆箱を開けると、ぶざまに折られた鉛筆が整然と並んでいる違和感。その違和感が子供時代の私を支配した。そして二度と触れたくない、心の中に封印してある様々な忌わしい出来事‥‥。笑い方や話し方を、いつの間にかすっかり忘れてしまっていた。
あの頃から私はどうやって生きてきたのだろう。

山羊とあり私のなかの冬の地方

自分のこころ、感情、もしくは思い出。その中の暗く冷たい部分を「冬の地方」と表現したのだろう。この句をはじめて目にした時、ビクッとした。私自身の「冬の地方」がどんどん広がってゆく、溢れ出してくる‥‥。山羊の佇まいが持つ「哀しさ」が痛いぐらい強く響いてくるのだ。

川蜻蛉沼の生きものにあいさつ

本当に私は「川蜻蛉」のようだった。そして「沼」を心の底から恐れていた。あいさつどころかその場から一目散に逃げていた。
ずっと私は、他人とのちょうどいい距離とか、ゆったりとした人間関係とかを、上手くつかめないまま生きてきた。ぼんやりと、でも切実にもがいていた、と思う。

落球のラグビーボールと鴨浮けり

水面に落ちたラグビーボールの寂しさと脱落感。そんなラグビーボールに鴨が好奇心と親近感をもって近づいてくる。でもこの句、別にラグビーボールへの応援歌というわけではないだろう。ただラグビーボールと鴨が一緒に水に漂っているだけ‥‥。常にささくれだっていた私には、そのふわりとした空気が嬉しかった。

花枇杷に馬の鼻面澄んでいる

枇杷の花の清らかさと芳香に、馬の鼻もきりりとしている感じ。互いが尊重しあい高めあう、そんな関係に心惹かれた。

三月は柏の葉っぱに乗る亀虫

柏の葉っぱの鮮やかさ、潤いがぱあっと浮かんできて、その葉っぱにちょこんと乗る亀虫の姿が愛らしい。一般的には疎んぜられる存在であろう亀虫も、心安らかにしているよう。このやわらかい関係が、そのまま三月のやわらかく澄み切った空気を表わしている。

亀虫と緑泥片岩に坐るよ
山のやちまた亀虫に亀虫ぶつかる

作者の亀虫への眼差し、その温もりに私も元気づけられた。

いっぴきの一滴の虫アカザの葉

安らいで、満ち足りたあまり、ついには「水滴」になってしまった一匹の虫。この虫をつくづく羨ましいと思った。私にとっての「アカザの葉」を、ずっと私は探していたのだ。
そして私はこの職場を得て、コウタくんと出会うことになる。「康太! ご挨拶はどうしたの!」お化粧のやたらと濃いお母さんの斜め後ろで、ずっと暗い目をしていたコウタくん。はじめてコウタくんとお話しした時、あのラグビーボールと鴨みたいだ、と感じた。その直感は当たって、私たちはすぐ仲良くなれた。私もコウタくんもとても無口。でも何も話さなくても、コウタくんの様々な思いが伝わってくる。

蟾蜍よくちなわを定義しなさい

全く違うタイプの肉体を持つふたつの動物。作者は「定義しなさい」というフレーズで、まるで神様のように、このふたつの動物に交歓を求めている。優しい目線、ユーモラスでメルヘンチック、そして麗しい句だと思った。

生きてあり郭公は朝の友だち

郭公の鳴き声、また郭公の持つ空気感は、やはり何と言っても「朝」であろう。そしてそんな郭公との友情は生きる喜び、充実感にすっきりと繋がってゆくのだ。

鳥渡るよ木のテーブルも揺れおらん

鳥と木の関係の深さをダイナミックに表現した。木はたとえテーブルになっても、ずっと鳥との交信を続けている。

つくつくぼうしと一日の水わかちあう

作者の質実な生活心情が出ている。法師蝉の、あの独特の鳴き声が、私には何か一種の「行(ぎょう)」のように思えてくる。だから「水わかちあう」がぴったりとはまるのだ。つくつくぼうしとの交歓によって、とても健やかな一日。

牛蛙闇を歩みて蘭の前
草を湛えて草を讃えて夏終わる
花のかたちの流氷に乗る子どもたち
人も歩けばへくそかずらに巻かれたる
秋草や遊という宇宙船近づく
アキアカネ親近感とも違う距離
夏の山寺言魂と鶏むつみあう
トーストに蜂蜜冬は光るかな

交歓、関係性がみずみずしく描かれた作品群。そして私にとって忘れられない一句と巡り合う。

銀やんま魂寄り合えばよき気流

ふたつの魂が寄り合うことで、ひとつの気流が生まれる。あたたかさ、優しさ、力強さなど、様々な要素を孕んだ「よき気流」。その気流のシンボルとしての「銀やんま」の眩しさ。何回も何回もくり返し読んで、味わった。

鉛筆の芯を折る時、心の中で「コウタくん?」と呼びかけてみる。芯が折れる時、コウタくんはとても自然な顔になる。嬉しそうでも悲しそうでもない、自然な顔。私が(おそらくはコウタくんも)持っている、自分を取りまく現実に対してのざらざらした思い。うつむき。空ろ。でもこの二人だけの時間があって‥‥私たちはきっと、お互いがお互いの「アカザの葉」なのだろう。
--もうこれで三本目の鉛筆。受付のほうから話し声が聞こえてきた。コウタくんのお母さんが迎えに来たようだ。私はコウタくんのおでことほっぺを人差し指でなでる。コウタくんはまっすぐに私を見る。コウタくんが帰る時の、これもまた私たちの約束事だ。

銀やんま魂寄り合えばよき気流

心の中でまたつぶやく。お母さんへの目一杯の笑顔を準備する。



2・秋晴れの日に

あの目覚まし時計はとうとう駄目になった。女房の形見なんだが‥‥と思いつつ仕事場へと駆け足。私の仕事は平日は午前7時、休祭日は午前7時30分にはじまる。今日は平日‥‥。午前8時過ぎ、やっと到着したが、あんのじょう仕事場--JR堀長駅前駐輪場は見るも無惨な有り様だ。全ての自転車を「定位置」まで運び、きちんと並べ、新しく来る利用者には事細かく指示する。たまに目を剥かれる、ぶつぶつ言われる。「このクソジジイ‥‥」。でも全く気にしない。
午前10時ごろ、ようやく落ち着く。昼飯の前の一服。入り口そばのパイプ椅子に座り、駐輪場をぼんやりと眺める時間だ。いつものように自転車のハンドルとハンドルポストの群れが一面のガチャガチャの銀世界を形作っている。全く隙間のないメタリックなマスゲーム。この280坪のオブジェ作りがまさしく私の日課だ。
ずーっと眺めているうちに、この銀世界、どこか儀式のように思えてくる。何かをじっと静かに待っているような‥‥。そう、私はこの景色を目の当たりにするたびに、この景色に新しいパワーをもたらしてくれる何かを待っているような気になってくる。
何かがふっとやって来て、その場が(空気が)変質する。
あるいは何かが来る(加えられる)ことによって、その場の本質が明らかになる。定着する。
そのものと場との美しき一体化、共存、それによって滲み出る濃密な色合い、潤い、新しいものが生まれる予感‥‥。

川蜻蛉沼の生きものにあいさつ

ひょろひょろと川蜻蛉がやって来て、沼の生き物そして沼全体に向かって挨拶する。ちっぽけで、か細い人間存在が、森羅万象との交流を求めていく--そんな姿が浮かんできて、応援したいような気持ちになった。いや応援したいというより同調したいという気持ちだ。             

栃の葉に朝からの雨夏と書く

栃の木の、あの大振りの、鮮やかなラインの入った葉っぱたち。そして清らかに光る朝の雨粒たち。その一体感を作者自身の「夏」のシンボルとして、書く--提示している。

深酒に来るうりずんというひびき

へべれけに酔っ払った体に、気温や気象よりもまず「うりずん」という「言葉の響き」が強くストレートに伝わってくる。こんな「季節感」の表現もあったとは。

こめかみや骨の音してががんぼ来
髪に挿さったががんぼの足もちあげる

こめかみの敏感さが捉えた、ががんぼの骨の音。いつのまにか髪の毛にささっていた、ががんぼの足の質感。あの線のようなががんぼの肉体から、生命力の溢れをいかに汲み取るか。多くの俳人たちが挑戦してきたことだろうが、この句群は「音」「髪に挿さった」の生々しさで、それに成功している。

晩夏とは蠅の王来る空地かな

夏中わんわんと飛び交い、うっとうしかった蠅たち。晩夏となり、がらんとした空地に一匹寂しくやってくる蠅の王の佇まいは、何ともユーモラスにして滋味深し。
作者自身のあっけらかんとした人生観もほの見えてくる。

秋草や遊という宇宙船近づく

瑞々しく、姿のきりっとした秋の草花。それらを眺め、戯れようとする心持ちを、「遊という宇宙船」と表わした。「宇宙船」に天然の美と自分との距離感--それによって生じる畏敬の念をたたえ、また「遊という」に限りなき慈しみの情をたたえて、この一句、何とも快く嬉しくさせてくれる。

庭に落下メンタルヘルス的にわとり

いきなりわが庭に舞い降りてきた。心の健康、精神衛生をつかさどる鶏、という置き方。確かに鶏という生き物、健やかに時を告げ、その所作はクリアな輝きに満ちている。その輝きは、庭から家の中へ、そして家族へ‥‥。

気体なりラグビー場に雪のエロス

日々荒々しく肉体がぶつかりあうラグビー場に、雪が降り積もっていく。「雪」という感触も音も色も異質なるものが、みるみるラグビー場を征服してゆく。いや、征服というよりも慰め、包み込んでいるような‥‥作者はそこに「エロス」を垣間見た。この「気体なり」、景色の持つ濃密な空気感に圧倒されての思わずの措辞と見るが、果たして。

人事異動という狐火が通過する

人事異動--当事者たちにとっては一生を動かすことになりかねない大事。「狐火」に対する微妙な恐怖感がみごと活かされた一句であろう。「通過する」がまた無気味。作者にとっての人事異動という制度、そのポジショニングの妙。

春の蠅空気の缶詰売りにくる

「空気の缶詰」から、春ならではの駘蕩感を受け取る。近くに寄ってきた蠅によって、冬を越えすっかり柔らかくなった身の回りの空気に、あらためて気づくのだ。

垂直にプリンにフォーク飢える南

フォークをプリンに垂直に刺す--食物を表現するにあたって、いわゆる「食べること」「食欲」とはかけ離れた絵画的な映像を描くことにより、飢餓に苦しむ地域とのギャップの重さを浮き彫りにした。一句独特の切迫感あり、胸をしめつけられた。

小啄木来て自己の中心穿つかな

日本にいる啄木鳥の仲間で最も小さな(スズメとほぼ同じ大きさの)小啄木。作者はそんなちっぽけな小啄木に、自らの中心を穿たれて、どこか満足げである。小啄木とのそうした邂逅をたいそう喜んでいるようだ。というか、私はそう読みたいのだ。この作品に触れた者全てが自分にとっての小啄木を夢想し、心のどこかで待ちわびる。今の自分を変えてほしいと願う。もちろん私にとっても、そうだ‥‥。

--もうこんな時間か。目の前には、いつもと同じ無機質な銀世界。そしていつもと同じ無機質な私の一日‥‥。さて、そろそろ一旦家に戻って昼飯にしようか。立ち上がって、パイプ椅子を畳もうとしたその時、私はふっと集団の気を感じた。
「!!」。
焦茶色のベレー帽と、深い黄色のワンピースを纏った少女たちが目の前にいる‥‥1人、2人、5人、10人、100人、300人近くいるだろうか。彼女らは鮮やかに軽やかに駐輪場全体に散らばってゆく。
カステラ少女団! この秋晴れの下、私の銀世界の中で‥‥。このコントラストは、はたまた調和は何ということだ。私はただ呆然と色と空気の流れを見つめているだけだ。
九月の、とある一日の午前11時30分。ホイッスルが鳴ったように、少女たちがいっせいに私を見て、微笑む。まさにこれは必然、あらかじめ用意されていた景色なのだ。この駐輪場に、そして私に。


*文中の俳句作品は、全て堀之内長一さん(「海程」所属)によるものです。

4 件のコメント:

  1. あ、僕これ好きです。

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  2. 島田さん、どうもありがとうございます。
    次回(下)のほうも、ご一読いただけましたら幸甚です。

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  3. 堀長町、もっともっと散策してみたくなりました!

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  4. 小松様、ありがとうございます。
    ブログ「俳句樹」、堀長町、またのご訪問をお待ちしております。

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