2010年10月25日月曜日

彌榮浩樹の句の「つばくらめ」はいつの季節どの空間を飛んでいるか 先号の冨田論文「彌榮浩樹句集紹介」の深谷信郎氏のコメントについて ・・・堀本 吟

彌榮浩樹の句の「つばくらめ」はいつの季節どの空間を飛んでいるか
先号の冨田論文「彌榮浩樹句集紹介」の深谷信郎氏のコメントについて
・・・堀本 吟



深谷信郎さま。先号の彌榮浩樹句集についての、冨田さんの名鑑賞からあまり逸れたくはありません。冨田さんと私では、大筋が違うわけではありません。
http://haiku-tree.blogspot.com/2010/10/blog-post_9558.html
彌榮浩樹さんの句集も全体的にはわかわかしいことと、建設的な問題作もあるようで、そういうのはいい句集だとおもいます。で、貴文コメントの最後のところ、私のコメントについての疑問にだけ、簡単に説明させて下さい。(こちらの都合で申し訳ないのですが、なぜか私の方からはこのサイトにコメントがしにくい状態になっているので、管理人様にいちいちファイルを送って、貼り付けてもらっています。それで、別の欄別文の投稿にいたします)。

◎ 
先ず、私の書いていたこと。
「つばくらめ」や「彼岸花」が持つ、生き物、としての動きを大きく強調しています。これらは季語だからここに置かれているのでしょうが、これが、やはり表現がひきだす存在物の生命感だと思いました。季語という歳時記的な規範性からぬけだしているのです。これら(註・後述の引用句)はすでに「有季定型俳句」ではないのです。(前号、2010年10月11日22:21堀本のコメント)

これに対して、深谷さんのコメント。
「いつまでもいつまでも昼つばくらめ」「雨ののち自転車がゆく曼珠沙華」(註・作者は彌榮浩樹。冨田拓也の文中の引用句より)については、お書きになっていることはよく分かります。ただ、季語があって五七五なのに、「これらはすでに「有季定型俳句」ではないのです。」の部分が分かりません。(深谷信郎2010年10月12日18:24のコメント。)


以下は、この二つの応答(?)についての整理と私見です。

まず、「季語があって、五七五字」・・の句が、「有季定型俳句」と定義することは、通念となっているのであえてこれを否定してはいません。貴方のように、爽やかな季節感を感じてそれを良とする方がおられても、まあそれが俳句界がみとめている多数意見なのです。作者もたぶんそういう句の構成だと思っているはずです。強固な経験則というか、ながい歴史のなかでにそう思われてきているからです。
でも、現代俳句では、ここにとどまらず「季語」の概念がひろがっているので「つばくらめ」、「曼珠沙華」も、季節感を担うためにだけ句の世界に登場しているのではない、と言うことを第一にいいたかったのです。むしろ、いまでは季節感が主になる、というのでない場合の方が多い、という例だと思います。

で、私はこういいたくなりました。
《これらはすでに「有季定型俳句」ではないのです》(拙文引用箇所)

この言い方は、俳句の原則的な概念について、ちょっと違和感をおぼえ、見得を切った(彌榮を斬った・・?・・イヤ冗談です)ものだと、ご理解下さい。
「一句の中心点をどこに置くか、ということへの考え方や、ひいてはその句の意味づけへの私の俳句表現への価値観が強くでています。

◎ 以下は私見の具体的な展開です
彌榮浩樹さんの下記の句についても、たしかに「無季」句ではありません。
「雨ののち自転車がゆく曼珠沙華」(冨田氏の文からの引用)のほうは、「秋だなあ・・」と感じてもとくに違和感はありませんが、「曼珠沙華って雨上がりにこうしてみるとますます赤いなあ」なんて感じるのは、もう「季感感」をすこしはずれているでしょう?曼珠沙華は秋の彼岸頃咲き、また歳時記に載っているから、秋の花になっていますが、私は、この花の毒々しいちょっと歌謡曲っぽい俗な存在感が好きなので、そう言う角度から読んでしまうのです。

そして、

「いつまでもいつまでも昼つばくらめ」彌榮浩樹

「遅日」「永き日」という春の季語で作者はそのつもりでこのフレーズを使っているのかもしれません。でも、「いつまでもいつまでも昼」のところで、私は季を決めるなら、これは「夏至」のころだ、と思いました。昼の明るさが強調されすぎているのです。けれども、「昼の長さが」がくり返し強調されているので、さらに当季をこえた、明快な明るさ比喩であるとか。もっと・・例えば、

階段を濡らして昼が来てゐたり 攝津幸彦
(『鳥屋』・昭和61年富岡書房)

の方へイメージがひきずられてしまいます。摂津の句では、「昼」という時間帯自体が主役で、擬人化すらされています。彌榮さんの句は、「昼」の感じを一句全体にひろげたくなっている。のに、季語がここでなぜ必要になるのか言う、根本的なところでためらっている、だから、「つばくらめ」の登場がたいへん唐突に見えてくるのです。こういう句が現代俳句では「有季」の句と言われているのです。

それから、「有季」を重要視したときには、一年でいちばん日没が遅い「夏至」の六月二十二日頃は、歳時記ではすでに夏に深入りしており、立夏は五月六日、体感される夏日はもっと早い時期に来ます。「つばくらめ」は、早いところでは三月十日ごろ日本に来て夏中飛び回り九月になると南の方へ帰りますが、歳時記では「春の鳥」です。ここに「つばくらめ」(燕)が突然のように登場すること自体が上五中七でつくられた季節感を混乱させています。この混乱はあまり有効な詩的イメージを結びません。この句の「つばくらめ」は、いつの季節を飛んでいるのかなあと思いました。

もちろん「夏つばめ」とは言わないで「夏至」のころを感じさせる配合とみるならば、「有季定型」句ですが、わたくしはこの句の座五に「燕」が飛び出してきていることに不自然さがあると、読みます。どちらに重点を置くにしても季感が分裂するのです。

◎ 
季感汪溢の傑作句の例です
燕の句で歳時記にはつぎのようなものが見出されます。
夏至今日と思ひつつ書を閉ぢにけり・高濱虛子 『合本俳句歳時記』新版・昭和四十九年・初版—平成三年・三十一版 角川書店)260p

つばめつばめ泥が好きなる燕かな・細見綾子 (々)168p
つばくらめ斯くまでならぶことのあり・中村草田男
(句集『長子』昭和十一年・沙羅書店)

これらは「有季」の句としては、模範的なもので、「燕」という鳥の生態をキチンと捉えその描写をもって、「季節現象や風物や、生き物の命を活写しており、この鳥をみごとに俳句化(詩化)しています。花鳥諷詠句黎明句の傑作だと思います。

◎ 象徴としての扱い方
町空のつばくらめのみ新しや・中村草田男(句集『長子』) 
乙鳥はまぶしき鳥となりにけり・中村草田男(句集『長子』)

また、ここの「つばくらめ」「乙鳥」は、季節の存在物でありながら多分に象徴的に用いられているようです。でも、まだ早春や孟春春の感じをでていません。

彌榮さんの「つばくらめ」は、実感と象徴性、そのどちらの用法からも疎外されている?わたしはそのことをそしっているのではなく、彌榮浩樹作の「つばくらめ」は、すでに時間の推移というものからむしろ疎外されているのではないか?と思えます。

作者はむしろ無意識に、季語を離れようとしているのでは?
季題としての役割を離れた「鳥」として、うんと抽象化された時間意識の象徴として動き飛び回っているのです。燕が生き生きと飛んでいるのは春(あるいは夏)のことであってもなくとも差し障りはありません。あたらしい感性の捉えた「時間」というものの象徴となって飛んでいるのです。
また、この「燕」を、永遠の命のシンボルである「火の鳥」の、俳諧的転生だととらえれば、面白くなります。

以上、直観的な思いつきも多いのですが、私の俳句鑑賞の仕方をいただけたら望外の喜びです。また、ご意見をおきかせください。(この稿了)

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■関連記事

彌榮浩樹句集『鶏』を読む 鶏鳴と濁声と・・・冨田拓也   →読む

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1 件のコメント:

  1. 堀本 吟さま。
    詳細に書いていただいて、大いに啓発されました。

    そもそも冨田論文「彌榮浩樹句集紹介」にコメントを寄せたのは、次のような印象を持っていたからです。

    伝統俳句と現代俳句をそれぞれ代表するのは、ホトトギスと海程。たとえば、ホトトギスから俳句を始めた者は、ホトトギスの俳句に合うような価値観を持つはずだ。つまりホトトギス脳ができる。海程から始めれば海程脳ができる。ホトトギス脳と海程脳はどの程度重なるのだろうか。私はホトトギス脳を持っているので、海程の句が分からない。ということは、重なりは非常に少ないように思う。しかし、金子兜太の著作や、ホトトギス俳句を雑誌などで評をするなどの活動を見ると、海程脳のほうがホトトギス脳より大きい印象を受ける。これは、金子兜太に限らず、現代俳句をやっている者にあてはまるように思う。

    堀本氏が現代俳句では季語の概念が広がっている、と言っていますが、まさにそのことが海程脳を大きくしている一因だと納得しました。それから、「つばくらめはいつの季節どの空間を飛んでいるか」のくだり、大いに説得させられました。ホトトギス脳を持っている者としては、海程脳をカバーできるようにしようと、方針ができました。

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