■彌榮浩樹句集『鶏』を読む
鶏鳴と濁声と
・・・冨田拓也
甲 最近、なかなか異色の句集が刊行されましたので読んでみることにしましょう。
乙 彌榮浩樹さんの第1句集『鶏』(ふらんす堂 2010年9月17日刊)ですね。
甲 まずお名前についてなのですが若干読むのが難しくて、ひらがなで表記すると「みえ・こうき」さんとなります。
乙 彌榮さんは昭和40年(1965年)生れで、平成10年に中原道夫の「銀化」に入会、現在同誌の同人でいらっしゃいます。
甲 この句集『鶏』の構成についてですが、「Ⅰ」、「Ⅱ」、「Ⅲ」と3つの章から成っていて、「Ⅰ」が平成17年までの作、「Ⅱ」が平成20年までの作、「Ⅲ」はそれ以降の作で、それぞれが100句づつで構成されており、全部で300句がこの句集には収録されているということになります。あと、序文が中原道夫、栞文を竹中宏がそれぞれに執筆しています。
乙 一読してみて、まずこの句集の全体における大きな特徴として挙げられるのは「身体性」ということになるでしょうね。
甲 そうですね。「身体性」や「肉体性」による実感を伴った表現をなんらかのかたちで詠み込んである句が、この句集における作品の大半を占めています。
乙 では、そういった特徴を持つ作品というものを以下に少し挙げてみましょう。
青梅にそれをマッサージとは云はぬ
スポンジとたはしと冬の二条城
妻がみてゐる雲雀野で殴り合ふ
読むときに動く筋肉蝶の昼
うつぶせの顔のつぶれて冬牡丹
公園を力士の走る桜かな
弟を風呂に誘へば兜蟲
甲 確かにどの句にも「身体性」や「肉体性」といった要素が詠み込まれていますが、それが少々単純ではないなにかしら妙な皮膚感覚とでもいったものを呼び起こされるようなところのある作品ですね。
乙 1句目の「マッサージ」の句における筋肉の凝り固まっている感触を季語である「青梅」の手触りによって象徴させた面白さ。2句目の「スポンジと」の句における「スポンジ」の柔らかさと「たはし」の剛さ、そして「冬の二条城」という言葉の関係性から想起される皮膚感覚を通しての痛覚が伴うような硬質な手触りが表現されています。
甲 2句目のそういった皮膚感覚というものは、8句目の「兜蟲」の句にも共通するものがありそうです。
乙 そうですね。まるで裸の皮膚に「兜蟲」の6本の足の先端部が食い込んでくるような軽い恐怖感を伴った皮膚感覚が喚起されてくるところがあります。
甲 兜虫の足というのは木を攀じ登るために随分とぎざぎざとした作りをしていますから、あれが皮膚に触れると引っ掛かってなかなか離れないので結構厄介なところがあります。そういったなんともいやな感じというものがこの句にはよく出ていますね。
乙 3句目の「妻が見てゐる」の句についてですが、句の中における「雲雀」と「殴り合ふ」人との関係性からは、なんともユニークな作品世界が広がっているように感じられます。
甲 「ぐわーん」と伸びる感じですね。雲雀も、人の腕の筋肉も。
乙 筋肉の躍動する様子によって生命の実在感とでもいったものが、そのままリアルに感じられるところがあります。
甲 この句は、佐藤鬼房の〈ひばり野に父なる額うち割られ〉のパロディとして読んでも面白いかもしれませんね。
甲 ほかの5句目の「うつぶせ」や、6句目の「力士」の作品についても、随分と異様な感覚を喚起させられるところがあります。
乙 確かに5句目の冬の季節における「うつぶせ」になってつぶれた顔の筋肉の形状のおそろしさ、7句目の春の桜の時期に走ることによってだぶだぶと揺れる「力士」のなんとも暑苦しい姿形というものからは、人体そのものが持つ異様な質感というものがそのまま浮き彫りになって表現されているように感じられます。
甲 また、これらの句に配された「冬牡丹」や「桜」といった花びらの質感と肉体の質感との対比についても見逃せないところがありますね。
乙 こういった作品を少し見てみただけでも、この作者が「言葉の働き」というものに対して非常に自覚的であるということがわかります。
甲 そうですね。「季語の象徴性」や「アナロジーによる取り合わせの面白さ」の効果といったものを充分に知悉した上で句作をしているということが、その作品の表現内容からは明瞭に見て取れます。
乙 「季語の象徴性」とのことですが、そのような性質を効果的に活用した句というのは、先程取りあげた作品の中では「青梅」、「雲雀野」、「兜蟲」などの句がそれに該当する作品ということになりそうですね。また、句集の中には他にもこの「季語の象徴性」を活用した以下のような句の存在を見出すことができます。
河骨や錻力をたたく雨の音
駅弁の小梅ねむたし雲の峰
速度計振り切れてゐる鷹の爪
大阪に来て水鳥の貌ならぶ
捕蟲網平家落人村通過
甲 では、順に見てゆくことにしましょうか。まず、1句目である、
河骨や錻力をたたく雨の音
について読んでみましょう。
乙 言うまでもなく「河骨」は夏の季語で、水の上に黄色い鈴のような花を咲かせる植物ということになります。
甲 この「河骨」の花が、「錻力をたたく雨の音」という金属的な響きを持つ音の存在を、ある具体性を以て1句の内に表象させるために、意識的に上五に配されているということになるのでしょうね。
乙 視覚と聴覚が融合して「錻力」を叩いて弾ける雨の一粒一粒が、まるで「河骨」の花と同じような「黄色い光」を発していくつも眼前に浮かんでくるように感じられるところがあります。
甲 このような所謂「共感覚」とでもいうべき作用によって成り立っている作品というものは、もしかしたら、
今年竹指につめたし雲流る 田中裕明
菜の花や河原に足のやはらかき 〃
手をつけて海のつめたき桜かな 岸本尚毅
あたりの作品から範を取ったものであるといえるのかもしれません。
乙 続いて、2句目の、
駅弁の小梅ねむたし雲の峰
について見てみましょう。
甲 普通に読めばこの句の場合、明らかに「ねむたし」が1句における表現としては不適切ということになりそうですね。
乙 確かに「駅弁」の中の「小梅」が「ねむた」いというのは、単純に読めば少々表現に無理がありそうです。電車の揺れによって人がねむたくなるというのならよくわかりますが。
甲 しかし、よく見てみるとこの句に配されている季語が「雲の峰」なんですよね。
乙 「雲の峰」……。単純に考えると「小梅」については「駅弁」の「白いご飯」の上に存在しているということになるはずです。
甲 もしかしたら「駅弁」の「白いご飯」の存在と「雲の峰」との間には、ある種の類縁性が見出せるのかもしれませんね。
乙 そのように考えてこの句を読んでみた場合、「白いご飯」の真ん中にうずもれている「小梅」が、「雲の峰」という言葉の作用によって、「白いご飯」の上ではなく、まるでふわふわのベッドの上にうずもれてねむりそうになっているかのように思われてくるところがあります。
甲 なるほど。それでこの句には「ねむたし」という言葉が使用されているということになるわけですね。
乙 あと、「駅弁」の「白いご飯」の硬めで冷たくやや粘り気のある感触から、「雲の峰」のふわふわとした柔らかな感触へと移行してゆくときに喚起される不可思議な感覚というものもここには内在しているように思われます。
甲 続いて3句目の、
速度計振り切れてゐる鷹の爪
について見てみましょう。
乙 「鷹の爪」は、俳句では秋の季語である「唐辛子」のことを指すということになります。
甲 「速度計」を振り切るほどのスピードで疾駆している車体と季語の「鷹の爪」との組み合わせということで、この句の背後からはやはりまさしく猛禽類である「鷹」の勇壮さというものが感じられるところがありますね。
乙 また「鷹の爪」の赤さが、そのまま血気の盛んさとそれゆえの危険と隣り合わせにある生命の危さというものをそのまま表象しているようにも思えます。
甲 続いて、
大阪に来て水鳥の貌ならぶ
について見てみましょう。
乙 「水鳥」という季語は、基本的に、鴨、鳰、百合鷗、鴛鴦など、冬に水上にいる鳥を総称していうものであるとのことです。
甲 そういえば、「鴨、鳰、百合鷗、鴛鴦」などの水鳥は、よく見てみると結構珍妙というか、それこそ割合間の抜けた顔をしているものが多いといってもいいようなところがありますね。
乙 確かに「鴨」や「鳰」などはなかなかユニークな顔をしています。そういった理由からこの句には「大阪」という地名が配されているということになるのかもしれません。
甲 そう考えて読んだ場合、「水鳥」という言葉からは、なんだか「吉本興業」のお笑い芸人さんたちの存在が連想されるようなところがありますね。
乙 続いて、
捕蟲網平家落人村通過
について見てみましょう。
甲 この句は、現在における「落人」となった「平家」ゆかりの「村」を舞台にして詠んだ句ということになるはずですが、そこでのかつての「平家」の「落人」とその追手の存在というものを、現在の「補蟲網」という季語の存在によって象徴させた句ということになるようです。
乙 なるほど。そういえば「平家」の家紋というのは確か「揚羽蝶」でしたね。
甲 さて、これまでこの句集における「季語の象徴性」を活かした句について焦点を当てて見てきましたが、先程も指摘したようにこの句集におけるもう一つの特徴である「アナロジーによる取り合わせの面白さ」について見てゆくことにしましょう。
乙 そういった「アナロジーによる取り合わせの面白さ」を感じさせる作品としては、以下のものが挙げられます。
恋猫の通るミックスナッツかな
電車より速き自転車昼の蟲
もぞもぞとポケットうごく浮巣かな
秋麗や雑巾なのか犬なのか
鉄棒に巻きつくからだ昼紅葉
「仁丹」のひげの軍曹蟻地獄
甲 確かにこれらの句のおおよそは、2つの事物によるアナロジー(類縁)によって1句が成り立っているということになるようですね。
乙 一応それぞれの句について簡単に解説しておくと、1句目は「恋猫」の斑(ぶち)の模様と「ミックスナッツ」の色合との類縁、2句目は「電車より速き自転車」と「昼の蟲」で、そこから感じられる硬質感、3句目は「もぞもぞとうごくポケット」と「浮巣」の中の雛鳥との類縁性、4句目は「秋麗」の中における「雑巾」か「犬」かわからない正体不明の汚れた物体の異質さ、5句目は「鉄棒に巻きつくからだ」と「昼紅葉」の葉の形状との類縁、6句目は「ひげの軍曹」と「蟻地獄」の形状の類縁性とそこから感じられる怖さ、ということになります。
甲 そういえば、こういった手法は、
蟾蜍長子家去る由もなし 中村草田男
縄の玉ごろと地にある柚子の家 波多野爽波
白孔雀尾をしぼり宵ひくき瀧 竹中宏
穴惑ばらの刺繍を身につけて 田中裕明
あたりの作者のものでもありました。
乙 ともあれ、このようにいくつかこの句集における作品とその内容について見てみると、やはり相当に高い技量というものが見て取れるところがありますね。
甲 そうですね。言葉の選択が実に的確というか妥協がないというか、相当に錬磨された表現によって1句1句が立ち上げられているように思われます。
乙 他に、この句集には
いつまでもいつまでも昼つばくらめ
鳥の巣や瞬きほどの雨のなか
屋上に鳥籠ゆれて春の旅
雪の日の薤(らつきよう)ひかるカレーかな
雨ののち自転車がゆく曼珠沙華
などといった作品があるのですが、これらの割合平易に書かれているように見える作品にしても、なにかしらの思慮とでもいったものが沈潜しているように感じられるところがあります。
甲 では、最後に、この作者の代表句ともいうべき
鶴帰る滋賀銀行の灯りけり
について見てみましょう。
乙 帰る「鶴」と「滋賀銀行」の「滋賀」という言葉の関係性によって、句の背後からはまさしく春の「琵琶湖」の存在が浮かび上がってくるところがあります。
甲 春の夕刻における「鶴」と「琵琶湖」による抒情的な内容がこの句には描かれているということになるわけですが、「銀行」という一語の働きによって単なる「ベタな抒情句」に陥ってしまいかねない弊をうまく免れているということになるのでしょうね。
乙 この句からは、まさしく「現在の抒情」というべきものが感じられます。森澄雄以後の「近江」はこうでないといけませんね。
甲 さて、彌榮浩樹さんの句集『鶏』の作品についていくつか見てきました。
乙 一応のところ、この句集の中心となっているのは、現実の世界における実感や手触りに根差した奇妙で不可思議な感覚の発見とそれに伴う驚きや面白さということになりそうです。
甲 しかしながら、今回この句集を読んでいてなんとも嫉妬をおぼえるところが少なくなかったですね。
乙 そうですね。ただ、これまでに見てきたような作品の中に施された数々の「仕掛け」や「奥行」などについて読者の方がはたしてどこまで感取することができるかどうか。
甲 私にしてもそうなのですが、「受け手」の側が「俳句の読み」に割合習熟していないと理解し難いような性質の作品がいくつも含まれていますね。一度ざっと読んだくらいでは、この句集の実質について容易には理解できないところがあるといえそうです。
乙 ともあれ、今回解説した作品以外にもこの句集における見どころは少なくないので(家族詠など)、是非ともこの句集については実際に手にとって読んでいただきたいところですね。
-------------------------------------------------
復帰、おめでとうございます!
返信削除同じ会話形式ですが、豈weeklyの最初の頃より文章が大衆(私のような素人)向けにも読みやすくて感動しました!
どれも句意がつかめず、鑑賞ができません。いわゆるホトトギス系の俳句なら句意がつかめるのですが、ここに挙げてある句は降参です。冨田さんは、言葉と言葉の関係を見出しています。それがどうすれば出来るか、訓練なのかもしれませんが、秘密を知りたい気がします。
返信削除野村麻実様
返信削除コメントありがとうございます。
読みやすい内容だったとのことで、ほっとしました。
深谷信郎様
コメントありがとうございます。
やはり俳句の読み方というのはなかなか難しいところがありますね。
今回取り上げた作品については、
端的にいうと、「そっくりさん」の面白さといったものに近いかもしれません。
所謂有名人のそっくりさんというのが、随分といますよね。
あと「ものまね」をする人も。
そういった「似ていることの面白さ」というものに近いのではないかと。
パスカルに次の言葉があります。
「似た二つの顔は、そのいずれの一つも別に人を笑わせはしないが、並ぶと、似ているというので人を笑わせる。」
あと、以前に書いていた私の日記に、俳句の読みについて触れたものがありますのでご参照下さい。11月9日と11月12日の記事です。
俳句九十九折(57)七曜俳句クロニクル Ⅹ
http://haiku-spaceani.blogspot.com/2009/11/blog-post_139.html
私も俳句を始めてから何年もの間、ちっとも作品についてあまりまとも読めていませんでしたし(本人は読めていると思い込んでいたわけですが)、やはり時間の経過と共に理解できるようになるということになるのかもしれません。
あと、俳句作品の内容を理解するためには様々な作品を自分自身で「文章化」してみるといいかもしれませんね。
その際のポイントは「正確さ」で、書かれている内容を字義通りにそのまま正確に読み取ることが重要ではないか、と。
あと、せいぜい私にいえることは、様々な作者の作品について「広く読む」と視野が広がるのではないか、ということくらいでしょうか。
ご丁寧に書いていただいてありがとうございます。
返信削除アナロジーという考え方、心にストンと落ちました。取り合わせの根本原理はこれだと。俳句の読みで漠然と感じていたことでしたが、アナロジーという概念を明示されたことで、読みの見通しがよくなった感がします。それと、「そっくりさん」の面白さの話、なるほどと感心しました。
自由人の冨田さんが、「俳句樹」に書いてくださったのでうれしいです。私は、彌榮さんの句集、ここで初めて知りましたが、野太さと繊細さがないまぜになって、いいですね。行動半径が狭いのでここで若手をひとり発見。
返信削除この人の句柄について、深谷さんという方が意見を述べておられましたが、私の考え方では、難解度というのは、差し出す人の組みたてている言葉のコード、うけとめる人のコードのちがい、それから言葉自身のテキストとしてのコードがあり、この三者が屈んで仕舞うと、その度合いで難解度がきまるようです。
どんなに単純な意味合いのものでも、永田耕衣や、河原枇杷男、岡井省二、などには、なかなか判らない句があります。
俳句作品自体の相互の語彙の関係づけのさいのなんというか、意味の攪乱みたいな機密、これら一体となって、判る俳句判らない俳句がでてくるものだとおもいます。その意味で、彌榮さんの難解さは、あまり深くない。安井さんや河原さんやそれから竹中宏さんのほうが深い場所で絡んだり離れたりしているイメージを感じ取るので難解です。
句集をもっていないので、ここに冨田さんが挙げておられる例で鑑賞しますと。
恋猫の通るミックスナッツかな
電車より速き自転車昼の蟲
もぞもぞとポケットうごく浮巣かな
秋麗や雑巾なのか犬なのか
鉄棒に巻きつくからだ昼紅葉
「仁丹」のひげの軍曹蟻地獄
鶴帰る滋賀銀行の灯りけり
雪の日の薤(らつきよう)ひかるカレーかな
などは、金子兜太さんのいう二物衝撃ですが、機知はありますがあまり巧みなではないように思います。それもかなりソフトな「衝撃」です。だから余人のものにも似たものがいくつもあり。取り合わせの何を見せ所にするかが判るので私にはあまり面白くありません。もちろん若々しくて面白いですが、飽きが来ます。
むしろ、
いつまでもいつまでも昼つばくらめ 浩樹
雨ののち自転車がゆく曼珠沙華 浩樹
二句一章による伝統俳句の景の作り方を活かしながら、夏至のころの夕方の田んぼをとぶ「つばくらめ」変哲もない時間の推移を敏感にキャッチしたところ、あたりまえながら、「つばくらめ」がすごく活きています。
また、雨があがって一層鮮やかに燃える「曼珠沙華」。そのあぜ道を自転車で通り過ぎて行く爽やかさ、言葉からある清涼感がたちのぼり。「つばくらめ」や「彼岸花」が持つ、生き物、としての動きを大きく強調しています。これらは季語だからここに置かれているのでしょうが、これが、やはり表現がひきだす存在物の生命感だと思いました。季語といういう歳時記的な規範性からぬけだしているのです。これらはすでに「有季定型俳句」ではないのです。
伝統俳句の若手がどういう新し味を見せてくださるか、これは読むものの楽しみですね。
創るヒトにも技量が求められますが、読む人にも読む技量がもとめられます。冨田さん、ドンドンこのような有為の句集を紹介してください。堀本 吟
堀本さんのコメントを読んでいろいろ考えさせれました。
返信削除句意が分からず、その先に進めないでいる自分がいる。一方、「彌榮さんの難解さは、あまり深くない。安井さんや河原さんやそれから竹中宏さんのほうが深い場所で絡んだり離れたりしているイメージを感じ取るので難解です」と言える人がいることに驚ろきました。いつそこまでの境地に行けるのか、考えてしまいました。
私は技術屋なので、つい理屈やら理由を考えてしまうのが邪魔しているのか、と反省はするのですが、思考がそちらに行くのは止められません。そうはいっても、「いつまでもいつまでも昼つばくらめ」「雨ののち自転車がゆく曼珠沙華」については、お書きになっていることはよく分かります。ただ、季語があって五七五なのに、「これらはすでに「有季定型俳句」ではないのです」の部分が分かりません。