兜太の目力(めぢから)
・・・田中雅秀
海程では春と秋に「秩父道場」なるものがある。兜太先生の産土の地で2泊3日、俳句に取り組む。いや、耽る…格闘する…燃え尽きる…。道場に仁平氏、池田氏、筑紫氏をゲストに迎えたのが豈とのご縁につながる。しかし、私には鬼門でもある。句会で金子先生から1句しか選ばれない『問題句(通称P)』にたびたび当たるのだ。3日間俳句のことばかり考えると、何か自分の句でないような、不思議な感覚に陥ることがある。それが成功すると佳句ができるのだろうが、私の場合、回路が壊れるらしい。そこを兜太先生は見逃さず、(柳生氏の言うところの)滅多切りにする。
見事、袈裟(けさ)懸(が)けにされた、ある日の雅秀をお届けしよう。
2008年4月、春の秩父道場。最終日。あとは帰るだけの最後の句会。拙句は
暗室は父と蛹のためにかな
である。互選では高得点だった。しかも叙情的な句を作る方が選んでくれている。高鳴る胸を押さえつつ兜太先生の選を待つ。結果はなんと最後に発表される『問題句(P)』だった。先生は点が入ったのもさらに気に入らない御様子。
以下ライブ形式で( )内の我が心情と併せて、お楽しみ下さい。
編集長:けっこう個性的な人が選んでいるんですよ。(それは、余計なことでは…)
兜:みなさん、意味をわかって採ってるんですかねぇ。なんだかちっともわからない! 大体「父とカイコのため」って、何ですかねぇ、わかりませんねぇ。気持ち悪いし。(いや先生、サナギです)父親がカイコを飼っているんですかね。(だから、サナギですってば)それなら暗室はなんだろう。誰か、わかりますか?
●さん:○○○(一生懸命、説明して下さってる。サナギと訂正もして下さってる。感謝)
兜:(サナギだって)分かってますよ。でも違うでしょう。そんな簡単なことじゃない。なんだかいやな句だね。寺山修司の出来損ないみたいだ。(…辛いので後略…)
◎さん:もしこの句に作者の名前がつけば、先生の評価は変わりますか?(いやそんな、傷に塩を塗るようなことをっ!)
兜:いや、変わらない。名前がついたからってどうってことにもならない。そういう句ではない。どうにもならん。
いよいよ名乗りだ。ばつの悪いことに、私は兜太先生の目の前に座っていた。
兜:あれはキミの句かぁ。どういう意味だ。
雅:暗室にサナギと父がいるのです。サナギは父でもあります。
兜:作者に説明されても判らないなぁ。
雅:すみません。勉強します。お世話になりました。
兜太先生顎を撫でながら、黙っている。雅秀そっと辞す。
しばらくしてから、
兜:おい、田中くん!(と呼ばう)
雅:はい!(と近くに侍る)
兜:あれはダメだ。あんな句を作っていたら君がダメになる。もう、やめなさい。
雅:はい?
兜:いろいろとぐだぐだと考えて句を作るな。もっとシンプルに。
雅:はぁ…。
兜:あんたは会津の風景を詠んでいればいいんだ。会津の山や自然や、それだけでいい。
兜太先生の強い視線を受けて、稲妻が走った。たかが地方の一俳人のわずか17文字の表現を、見逃さず真剣に考え怒る態度。「この人は俳句にマジだ」。
日本人特有の曖昧な笑いでは済ませられない。
今までの私はこんなに一生懸命考えて下さるに値する句作態度だったか。
羞恥の感情で溢れそうだった。
その2年前の2006年4月。私は東京から福島県会津に移住した。祖父の興した事業であるホテル業を継ぐためだ。母が継いでいたのだが、手伝って欲しいという。夫がその話に乗った形で引っ越して来た。いくら祖父や母が会津出身でも、自慢じゃないが私自身は東京都新宿区出身の「都会っ子」である。断腸の思いで兜太先生や俳句の友人、そして町のネオンとお別れをした。
そんな会津初心者に会津の自然を詠めという。たしかにここには今まで歳時記でしか目にしたことのない鳥、虫、花との出遭いがある。まさに季語の中に住んでいる感がある。
ケーンケンと鳴く雉のツガイ。雨上がりの蛍。狭庭には木蓮、紫蘭、菫が次々と咲く。秋明菊、みせばや、ホトトギスの花も実際に見るのは初めてだ。一面の黄金色の稲が次々と刈り取られ、落穂拾いは渡ってきた白鳥の役である。秋の終わりからは日暮れも早く、街灯もないのでとっぷりと暗い。しかしその分、夜空には星が瞬く。「冬銀河」とはまさにこのこと。雪が降る前に白菜と大根がご近所から届けられた。
新参者だからこそ気づく、四季の移り変わり。偉大な自然の営み。それをよく見て詠むことが大切だ、とおっしゃりたかったのだろう。
今までは月に何回か兜太先生のお声を聞き、お姿を拝見していた。ところが移住してからはなかなかお目に掛かれない。句会にも参加できない。他の人に自分の句を評価してもらう機会は激減し、行くべき方向を見失っていた。兜太先生の「田中くん!」はそんな不肖な弟子への叱咤であったのだろう。
もちろん、そんなことに気づいたのはずっと後になってからだ。
1年半後の2009年11月俳句道場。相変わらず鬼門だ。2日目の句会でやはり『問題句』になった。道場の間中、私はノートと鉛筆を離さなかった。寝ていても持っていたらしい。(高松葡萄門の証言)兜太先生のひと睨みのおかげで私は『道』に入った。しかし行き先は見つからない。これからもきっと見つからないと思う。当の先生だって見つけてはいないだろう。それなのに兜太先生も、海程のみんなもさまよい歩いている。何時までもどこまでも。
この『俳句樹』が、そんなさまよう私たちに大きな木陰を提供してくれる大樹なりますように。
私は修羅を歩いているのだから (宮沢賢治『無声慟哭』) (了)
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