それは、「俳句史」にとって幸せなのか?
・・・小野裕三
ずっと以前のことになるのだが、「金子兜太」という存在は、僕にとっては文学史上のものであった。
それもそのはず、なにしろ僕の生まれる以前から既に俳句史上に「前衛俳句」の闘士として名を残していたわけで、僕にとっては室生犀星とか萩原朔太郎とかとほぼ同じようなレベルで、「金子兜太」という名前は存在していた。
それが、氏の主催する「海程」に参加するようになって親しく言葉を交わす機会を得ることができたのだが、最初のうちはどうもぎこちないというか、違和感が拭えなかった。というのも、例えば自分が萩原朔太郎と親しく会話しているという光景を想像してほしい。要するに僕の頭の中ではそんな感じだったわけである。
なぜこんなことが起きているかというと単純な話で、氏が早くから俳壇革新の中心人物として名を成しながらも、九十歳の今に至るまで現役の俳人として活躍しているという、この「息の長さ」が背景にある。こんなことを考えてみよう。仮に、中原中也が九十歳まで現役の詩人として生きていたとする。一九〇七年生まれの中原は、一九九七年で九十歳。既にインターネットが登場している時代に、中原が詩を書いている姿が想像できるだろうか。あるいは仮に、芥川龍之介。一八九二年生まれの芥川は、一九八二年に九十歳。「インベーダーゲーム」ブームの少し後である。そんな時代に、芥川が小説を書く姿を想像できるだろうか。それぞれ、どうにも妙な違和感を感じるはずだ。そして僕にとっては、「文学史上」の人物であるはずの金子兜太との出会いも、最初はそんなようなものだった。
しかし、この金子兜太という人物は、意外に気さくであるということがそのうちに分かってくる。偉ぶったところもなくて、いろいろと 年下の人にも気を使ってくれるし、気持ちもいつもまっすぐだ。なので、妙に人間くさいところもある。そんな「文学史上の金子兜太」と「裸の金子兜太」のギャップが、そのうちにどうにも面白く感じられるようにもなった。
「裸」と言えば、氏とは本当に裸の付き合いをしたことがある。というのは他でもないのだが、ある時「海程」の合宿でホテルに泊まった時、誰もいない男湯に僕が一人でいたら、なんとそこに氏が一人で現れたのである。まさに、「文学史上の金子兜太」から「裸の金子兜太」が抜け出してきたような話である。「裸の金子兜太」は文字通り裸のまま浴槽の中に並んで浸かり、いろんな話をしてくれた。思えば、なんとも幸せな時間であった。
ともあれそれが「文学史上の金子兜太」であろうと、「裸の金子兜太」であろうと、氏は僕の師匠である。受けとってきたものは大きい。
しかし、その師匠が「前衛俳句」の闘士であることを勿論知りながら、僕はあえて「前衛俳句」という言い方はもう止めよう、と近年は提言し続けている。誤解されると困るのだが、「前衛俳句」運動を否定しようという意図ではなく、現在においてもまだ便宜的(と僕には思える)に使われている「前衛」と「伝統」の二分法を止めようというのがその趣旨であり、つまり過去において存在した「前衛」と「伝統」のそれぞれの遺伝子を受け継ぎながら、俳句を新しいステージに進めよう、ということがその目的だ。俳句史上の出来事としての「前衛俳句」運動を否定するものでもないし、そこから今に至るまで受け継がれてきた精神や遺伝子を否定するものでもない。
それでも、と考える。そろそろ、俳句の時間を前に進めようではないか。自分の師匠ではあるが、いやむしろそうであるからこそ、逆にそのことを強く思う。「裸の金子兜太」には、いつまでも健在でいてほしいし、いい俳句を作り続けてほしい。しかし、「前衛俳句」の闘士であった「文学史上の金子兜太」がいつまでも「現役」であり続けることは、果たしてどうなのだろう。そのことによって奇妙な既視感が、いつまでも俳句に纏わりつくことになりはしないか。もっと言ってしまえば、今に繋がる近代俳句史のあらゆるものを、今の時点ではこの人物が一人で抱え込んでしまっている(決して本人の本意ではないと思うのだが)ようなところがある。それはある意味で、俳句史にとっての不幸だ。いや、ひょっとすると「裸の金子兜太」にとっても、それは不幸なことなのかも知れない。
そろそろ、俳句の時間を前に進めてもいい頃だ。師弟関係であるからこそ、あえてそのことに拘りたい。簡単なことではないだろうが、誰かがそれをやらなくてはいけない。
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