■アニミズムの眼(下)
・・・野﨑憲子
3 曼荼羅
アニミズムを考える上でもう一人忘れてはならない人がいます。それは空海です。岩田慶治著『アニミズム時代』には道元と親鸞が登場しますが、空海も、アニミズムの体現者であり、その第一の思想家だと考えます。空海の曼荼羅はアニミズムの本質であるいのちの世界を凝縮した図画であり空間であります。空海はこの世界を、真っ向から肯定する極彩色の芸術として表現しました。曼荼羅の歴史は古く、紀元前千年ないし千五百年頃成立したインド最古のバラモン聖典『リグ・ヴェーダ』のなかで〈巻〉を意味する語として用いられていました。曼荼羅図には、異宗教の神々も圧縮し内在されています。そしてその真ん中では大日如来が曼荼羅宇宙の、すべてを包み込んでいるのであります。空海の著書である『秘密曼荼羅十住心論』に、彼は意図的に「真言」の梵語を「マントラ」から「マンダラ」に変更したと書かれています。つまり、映像と音楽の合体ということであり、真言も含めて森羅万象の一切が、曼荼羅なのであります。人と宇宙が三密を通じて感応するとき、大日如来と一体になると言われています。三密とは、身密・口密・意密を言います。因みに、この三密のうち、道元は「只管打坐」で身密を極めました。法然は「南無阿弥陀仏」の念仏を、日蓮は「南無妙法蓮華経」の題目で口密の宗旨を興しました。親鸞は意密に専心しました。彼らの心の源にあるのも曼荼羅なのであります。三密は身体と言葉と心、つまり肉体そのものなのです。真裸のいのちとなり大日如来と感応することを説いているのです。
空海は『声字実相義』を著し、口密のはたらきを特に、大切に考えていました。
五大に皆響き有り
十界に言語を具す
六塵悉く文字なり
法身は是れ実相なり 『声字実相義』
空海の説く宇宙言語論であります。彼の詩による考察である偈に拠りますと
五種の存在要素(五大)には、みな響きがある。十種の世界(十界)は、言葉をもっている。六種の認識対象(六塵)は、ことごとく文字である。さとりの当体(法身)とは、実相のことである
とあります。(五大)とは、地・水・火・風・空。全宇宙を構成している五つの物質をいいます。(十界)とは、仏の世界・菩薩の世界・縁覚の世界・声聞の世界・天界・人間界・阿修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界。地獄から仏性を開顕する最高の悟りの世界までが混在している心の縮図を表します。(六塵)とは、色塵・声塵・香塵・味塵・触塵・法塵。認識作用の対象となるものを示しています。つまり大宇宙の一切が真理を語っており、その一つ一つが、五大に響きありの曼荼羅の世界なのです。空海とは、空の海。空とは、空の教えであります。すべての存在を空と見ることによって、物や心への執着から生ずる人間の煩悩を解消しようとする教えです。「救いがたき人の世である生死の海の、その猥雑な豊かさをそのまま保ちつつ、さとりの世界へ離脱することはできないのか、空海の法号は、こうした問いかけの表現であるに違いない」と空海の名の由来を上山春平は著書『空海』のなかで書いています。
混沌とした、いのちみなぎる大宇宙の美しい秩序を空海は生涯問い続けたのではないでしょうか。空海の言葉にマグマのような血潮とエロスを感じます。
初期密教の尊格である十一面観世音菩薩の十一番目の顔は真後ろにあり、正面からは見えませんが大笑面という、大笑いをした顔であります。底抜けに楽しくて笑い、悲しみの深淵に居ても笑い、怒り心頭となっても笑い、いつでも笑っている顔であります。大日如来の顔でもあり、私たちの顔でもあります。この底抜けの笑いは、芭蕉の軽みにも通底していると考えます。「よく迷い、よく悟れ」と、空海は後世の私たちに語りかけているのではないでしょうか。三千大千世界から空海の大らかな笑い声が響いてくるようです。
明治時代、神社合祀反対運動をして和歌山県の鎮守の森を命がけで守った南方熊楠の描いた南方曼荼羅という曼荼羅図があります。この南方曼荼羅は、核の周りを動く電子の軌跡のような線と、そこにクロスする直線から出来ています。鶴見和子著『南方熊楠・萃点の思想』に拠りますと、「熊楠は、すべての現象が一ヵ所に集まることはないが、いくつかの自然原理が必然性と偶然性の両面からクロスしあって、多くの物事を一度に知ることの出来る萃点が存在する」と考えました。非常に異なるものが、時空を超えて、グローバルな交流する。そういう影響を与え合う場としての萃点の存在は重要であると強く感じます。熊楠は、森羅万象のあらゆるいのちの裸の交流を望んでいたのだと思います。
科学の進歩は、めざましく、遺伝子情報を読み解き、宇宙の謎にせまりつつ日々に進化しています。しかし、遺伝子の情報には、それを記したものの存在があります。そういう謎が無限にあり、その一つ一つがゆっくりと読み解かれるのを待っているのではないでしょうか。そして解き明かされた謎たちも、必然のカミであり萃点なのです。
この萃点の思想は俳句の世界にも、あてはまるのではないかと考えます。
4 真実相
地球の自然環境の悪化が加速度的に進んでいるといわれて久しくなります。私たちが生かされている、この美しい星を守るために、どのようにしたら自然と人間が共生できるのかとか、環境にやさしい工夫をしようと話し合う時は、もう過ぎてしまっているのではないかと危惧を抱くことがあります。もちろんそういった取り組みも大切なのですが、何よりも私たち人類そのものを変えなければならないのではないのでしょうか。加藤楸邨が俳誌「寒雷」昭和十六年七月号に、
万象そのものが無くてはならぬ姿は、日常の目には、覆いかくされている、この覆いをつきぬけて万象の真のあらはれの微を感じ、ここから真実相に滲透しなければならぬ。・・・真の写生・真の抒情は、この中にのみある。自然の人間滲透であり、人間の自然滲透である。これこそ東洋的把握の中核であり、俳句的把握の正しき伝統である。
と書いています。この文章の中にある真実相も、曼荼羅であり、いのちの空間であると考えます。空海、芭蕉、楸邨、兜太とつづく大いなるアニミズム俳句の潮流があると強く感じます。この世界を、私たちが真に把握し、敷衍してゆくことが、これからの人類が地球上に生き残れる鍵であると考えます。
「主客滲透」とは、自然(主)と人間(客)がしみとおるように交わること。少し飛躍がありますが、華厳的な発想では、体中の毛穴という毛穴を全開させるようなイメージで自然と人間がお互いの中に入り込んでゆくことなのです。
まず創る自分を風景の後ろに置いて、自然を見つめることに集中します。渚や草葉の陰や水平線や地平線あたりに、自然と人間との接点があるように思います。精神を集中することにより、少しずつ、風景に破れが生じ、小さな穴が蜂の巣のようになり、やがては底が抜けるのではないでしょうか。いのちの空間への風穴を開けるのです。
俳句の道は、もちろん十人十色、案内人なしのけもの道という言葉がぴったりなのかもしれません。それぞれの人にそれぞれの方法があると思います。ただ、この不思議な空間に入ってゆくには、この方法以外には無いのではないかと考えます。そうしていつか現在の時間意識を超えることができれば、調和のとれた限りなく自由な世界の扉が開かれるのではないでしょうか。
いのちの空間から出てくる季節の言葉たちは、皆それぞれがカミなのです。そして、塵を核として成長する真珠のように様々な言葉を纏い、音楽のような美しい造型が形つくられてゆくのです。アニミズムの俳句を多産することにより、それぞれの作者の深層から作者自身を自由な存在に変えてゆくのです。花火玉のような力をもつ世界最短の定型詩だからこそ出来ることなのであります。この自分を後に、自然を前に出すという俳句的な態度は、人類の進むべき道を示しているように思えてなりません。
私たち人類の先祖は、鬱蒼たる縄文の森の中であらゆるいのちと共に生活していました。それは、つい先頃のことなのです。到達点は出発点ともいいますが、アニミズムの森の奥には、怒濤のように燃えさかる炎の樹があるという予感がします。その樹の中心には音も無く烈しく渦巻くアニミズムの眼が存在するのではないでしょうか。熊楠も熊野の森の中で、この眼を発見して、萃点の思想を思いついたのかも知れません。
前衛とは、常に新しく、貪婪なまでに始原に向かって見返す眼を持ち、枯渇した俳句を吹き飛ばす融通無碍のこころの状態を指しているのではないでしょうか。兜太も然り、芭蕉も然り。両者とも強烈な磁場を持ち、そこには澄みきった鏡のようなアニミズムの眼が存在するのであると思います。
この国で成熟されつつあるアニミズムの俳句を、世界へ向かって発信してゆくことが、東洋の果てにあり、宗教をはじめ、さまざまな文化の終着地点でもある日本に生かされている私たちの使命なのではないかと考えます。
ところで、冒頭に書きました私のなかの木も、ぐんぐん成長をつづけてゆくと信じています。いつも木の葉が降っているのですから、慌てることはないのです。いつか天空とぶつかった時に、何かがはじまるかも知れません。
主要参考文献
金子兜太集第一巻~第四巻 金子兜太著 筑摩書房
俳句専念 金子兜太著 ちくま新書
芭蕉全句(上・中・下) 加藤楸邨著 ちくま学芸文庫
空海コレクション(1・2)宮坂宥勝監修 ちくま学芸文庫
空海の思想について 梅原猛著 講談社学術文庫
空 海 上山春平著 朝日選書
南方熊楠・萃点の思想 鶴見和子著 藤原書店
アニミズム時代 岩田慶治著 法蔵館
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