2010年10月25日月曜日

続「季語というルール」について ・・・中村安伸

続「季語というルール」について
・・・中村安伸


前号に掲載した拙稿「「季語というルール」について」に積み残したものもあり、頂いたコメント等をもとに、新たに取り上げたいテーマ等も若干生じたので、続編を掲載することにした。
まずは前号の内容をふりかえり、論点を整理してみようと思う。前号の時点より考えをすすめた部分等、若干追加した内容もある。

(1)「ルール」という語を「俳句とは何か」についての、作者、読者間での共通理解という意味で使用している。その中に季語の運用に関する内容が含まれているという認識である。

(2)俳句という「ゲーム」の「ルール」は明文化されておらず、また明文化できるものではない。したがって、作者および読者は個別に少しずつ異なるルールを採用している。前号ではこの個別のルールのことを「自分ルール」と名づけてみた。「自分ルール」は変化してゆくものであろうし、所属する団体や結社ごとの傾向も存在するであろう。またすべての「自分ルール」に共通する核のようなものも存在しているはずである。

(3)俳句の基本は「有季定型」であり、無季俳句はルール違反であると考えるのが多数派である。ただし、このルールに違反する俳句を失格とする、つまり俳句ではないとするかどうか等の運用についても「自分ルール」ごとに異なる。

(4)私個人としては無季俳句を失格とは考えない。その理由のひとつに、無季俳句を俳句作品として発表した作者の意図を無視することができない、というものがある。

さて、拙稿は「週刊俳句」の「週俳9月の俳句を読みつつ、季語という「ルール」について又」(上田信治)における「季語は俳句のルールだというのが、自分の基本的な考えです。」という言葉に触発されたものであり「ゲーム」「ルール」という比喩を用いて俳句と季語の関係を捉えなおしてみたいと思ったことが出発点となっている。
たとえば季語を「ツール」や「詩嚢」と捉えるならば、それは作者の側で完結してしまう。作者と読者の両面から俳句と季語を考えたい私としては「ルール」という捉え方のほうが、よりしっくりくるのである。

作者が作品を作り、読者がそれを読むのが俳句という「ゲーム」であれば、それは、どちらかが勝ち、どちらかが負けるというものではなく、作者と読者が作品を通じて共感しあうという、いわゆるWIN-WINの結果を求めてゆくものと考えるのが妥当であろう。

作者が作品を作るときに、読者が自分とは異なる「ルール」を採用しているかもしれないという問題を気にすることはあまりないだろう。しかし、俳句を前述のような「ゲーム」として楽しむために「ルール」の違いを意識することも重要かもしれない。

作者としては、読者が自分のものに近いルールを採用していると想定できるなら、そのルール=共通理解を基盤にした作品を提出することが可能となる。一方で読者とルールを共有していない場合、その前提は無効となる。前者を俳人や俳句愛好家を読者と考えた場合、後者を俳句の知識の無い人を読者と考えた場合、後者をターゲットにした作品なら、前者にも通用すると考えることもできる。しかし、ルール(=共通理解)という基盤がある場合とそれがない場合では、スタートラインに大きな差があり、当然その到達点も違ってくるだろう。

後者、つまり俳句のルール=共通理解をもたない読者を、トランプゲームをはじめてプレイするプレイヤーに例えると、先達が初心者に対してどのように接するかが問題となる。
まずはルールの概要を説明し、詳細は実際にプレイしつつ確認していくという手順になるだろうが、俳句の場合、最初にルールの概要を説明する機会が無い場合が多いと思われる。そういう点で、学校教育という場が「ルールの概要説明」の貴重な機会であることは確かなのである。

読者と作者との「自分ルール」の違いは、何を俳句として読み、何を俳句ではないものとして読む(あるいは読まない)か、という問題ともなる。
作者の側から俳句として提出された作品を、ルール違反として失格にする権利を読者は有している。ただしそれは読者個人の「自分ルール」の適用でしかない。
作品に向き合ったとき、作者と読者は対等だと考えている。つまり、作者が作品として提出した情報を尊重すると同時に、作者が作品外の情報として提供するものは参考にするとしても、最終的にそれに左右されることは無いということである。作者が作品を俳句として発表したということを、私は作品に含まれる情報としてとらえているので、それを無視することはできないのである。
極言すれば、作者が俳句として発表した作品はすべて俳句であるということになる。

しかし、すべての作者を無条件に信頼するのかと問われると、必ずしも肯定できないのもまた事実である。たとえば「俳句は有季定型」という知識のみをもって、既存の俳句作品にまったく触れたことのない作者が存在するとしたら、その作者を信頼することを私は躊躇するだろう。もちろん作品そのものから類推して、作者に対する信頼度が上下することもあるだろう。俳句という「ゲーム」の、すべての「自分ルール」に共通する核とは、既存の俳句作品そのものであり、それ以外には無いと私は考えている。

さて、前号の記事にコメントを頂いた匿名氏、獅子鮟鱇氏のお二人が、ともに「外国語俳句」を例に挙げ、季語を俳句のルールとすることに対する反証にされているのが興味深かった。以前にも、どこかでそのような論調を見たことがあり、海外では季語が有効でないことを挙げて、無季俳句を正当化する論拠として使うことは、ポピュラーな論法であるように見受けられる。

ただし、私自身はこの論法に対して慎重な態度をとっている。
世界のさまざまな国で、さまざまな言語による「haiku」が作られ、読まれていることは承知している。また、それらにおいては、日本の風土や伝統的美意識に根ざした季語が必ずしも有効でなく、ルールとして実質的に機能しないであろうことは、その分野に関心が薄い私にとっても、たやすく想像できることである。
しかし、グローバルな「haiku」のルールとして有効ではないということを以て、日本語による俳句の範囲内に適用される、いわばローカルルールとしての季語を否定する論拠とはなりえないだろう。

私が日本語以外の「haiku」に対してあまり関心を持つことができないのは、過去の俳句作品という最も重要な基盤を必ずしも共有できていないからだ。外国語の俳句作家のなかにも、『ハイク・ガイ』の作者デイヴィッド・G.ラヌー氏のように、日本語で日本の俳句を読む人がいることは承知しているが、決して多数派とはいえないだろう。

獅子鮟鱇氏はコメントで「俳句は短いので翻訳がしやすい」と述べておられるが、これに私は賛成できない。
省略という技法が多用されるために生じる多義性、重層性こそが、俳句の最も特徴的な効果であり、細部のニュアンスがより重要な役割をもつ俳句は、長大な散文よりもむしろ「正確に」翻訳することの困難な形式であると思っている。俳句とは何かという問いに対する答えは、俳句作品そのもの以外に無いと考えている私にとって、必ずしもそれを共有していない外国語のhaikuは、それが俳句であるということを否定しないまでも、どこかで枝分かれした別のものであると思う。。

また、匿名氏の挙げておられる海外詠については、虚子の時代からさまざまに議論されてきた。
ただしこれについても、海外において季語は有効でないということ自体を私は疑問視する。四季の無い国もあるし、多くの国で日本と全く異なる美意識の伝統をもっていることも確かである。そこで季語を使わずに俳句を作るという選択肢はもちろんある。だからとって(日本の)俳人が季語を含む俳句のルールから自由になれるわけではない。
加えて、私個人は、俳句は実景、実体験に基づくもの以外容認しないという立場ではないので、海外でその場に存在しない季語を使い句作することにも特段不都合を感じないのである。

前号の結論を繰り返すことになるが、俳句のルールとは、統一されたものではなく、また統一されるべきものでもない。作者も読者も各自に異なる「自分ルール」を持っていることこそが、俳句の多様性につながり、俳句を豊かにすると思っている。
最低限の俳句に対する敬意、あるいは関心を備えていることが条件かもしれないが、どのような作者も読者も対等であり(自ら志願して弟子入りした師に対しては別かもしれないが)すべての「自分ルール」は同じく尊重されるべきものである。したがって、特定のルールを共通のものと考え、それを振りかざして他者の「自分ルール」を脅かそうとする行為には、反対を表明しておきたい。

「有季定型」という、作品の外観にはっきりとあらわれる、わかりやすい尺度を唯一の共通のルールと考えることは、とても楽だし、それさえ守っていれば一応俳句ではあるという安心感を得ることもできる。したがって「有季定型」を信仰し、信仰を脅かすものに対して排他的、権威的に振舞う人々がいなくなることはないだろう。また、そうした人々がいなくなってしまったら、それはそれで困るかもしれない。無季であることによって反骨精神のようなニュアンスを獲得しようとした作品などは無効となるだろう。

付け加えるなら、一部の俳人が学校教育という場において権威的に振舞おうとしたことは、非常にナーバスな問題である。
桑原武夫の所謂「第二芸術論」が今に至るまで多くの俳人から憎悪されているのは、それが「国民学校、中等学校の教育からは、江戸音曲と同じように、俳諧的なものをしめ出してもらいたい」と結論づけられているからだと、私は思っている。

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■関連記事

「季語というルール」について・・・中村安伸   →読む

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5 件のコメント:

  1. ほうじちゃ(元・匿名)2010年10月26日 4:40

    中村様、お疲れ様です。
    続編玉稿も拝読。

    概ね、ご意見に賛成です。私は獅子鮟鱇氏の事は存じ上げておりませんので、あくまでも私見のみを追記させていただきます。

    私自身は日本語で俳句を書きます。そして、基本的に有季定型(ただし、厳格な五七五定型だけでなく、字余りや正木ゆう子さんの「サイネリア」程度の破調を含む)で作っております。

    それは、俳句の本質を挨拶ないし存問と考えれば(短さは挨拶の必ず行きつく結果であり、季語のような力のある言葉の使用や省略、切れは短さの結果)、日本語俳句においては、有季定型が最上格の挨拶手法だからです。

    いかなる文化であれ、短い挨拶を行う場合、最大の意味を込める為には、発信者と受信者共有の作法や信号、マナーがあった方が良いのは当然だと思っています。お辞儀の意味を理解しない相手にお辞儀しても仕方がないですが、お辞儀やその角度に関するニュアンスを理解する相手には立派な挨拶になります。

    日本語俳句の場合は、歴史的に(きちんとした本意と力のある)季語と定型になり、だからこそ挨拶の作法としての「正格」・「最上格」だと思っております。挨拶に絶対の作法がないごとく、俳句に絶対の作法はないです。絶対はなく、あくまでも多くの人に好まれる作法や多くの人に共有される深いニュアンス伝わる作法が「マナー」や「ルール」として使用されてゆくのです。つまり、それが有季定型です。

    無季や自由律(律がない場合と定型以外の律を使う場合の二種類)は、あくまでも有季定型からの逸脱として派生したものであり、「逸脱として派生した」意外性や自由性があります。「反骨精神のようなニュアンスを獲得」します。むろん、作法の形式とは時間とともに変遷し、緩くなるものですし、新しい作法や形式も生まれるものですから、無季や自由律の俳句は今後更に増えてくるでしょう。無季や自由律と言っても幅広く、人によって用途や作風も千差万別ですが、多くの場合、有季定型とは別の効果を季語や定型を使わない事により狙った挨拶作法、有季定型の代わりとなるか実験してみた結果の挨拶作法、ないし有季定型よりは気楽な挨拶の形として無季や自由律があるように思えます。「有季定型よりは気楽な挨拶の形」として無季や自由律を使う作家の場合、口語や片言が多いのも当然です。

    無季や自由律が増えてくると言っても、同時に、有季定型をはぐくんできた歴史は否定できませんし、日本人が作法好きである事(カルチャー俳句とかでは、有季定型を茶道や華道の型と同じように理解している模様)、日本人の大半が有季定型から俳句を始める事、いまだに俳句人口の9割以上が有季定型派である事を考えれば、有季定型の俳句はあと五十年以上は続くでしょう。無論、一部の季語は力を失い、新たなる力ある季語が生まれたりするでしょう。

    海外俳句やローカル俳句(いずれも日本語の場合)は、中村様のおっしゃる通り、実景でも実景でなくても、有季定型は有効でしょう。日本語で書く以上、上記の理由により、定型は有効でしょう。問題は季語ですが、そのまま歳時記にある季語を使う事は可能です。季語の力は弱まりますが(篠原鳳作は沖縄・鹿児島の季節感で悩んだ結果、ローカル季語を使ったり、無季の句を作った)、日本語で書く以上、発信者も受信者も季語の本意を理解し、季語には実景以上の意味(=本意)を期待していますから、有季でも問題ありません。ただし、俳句を場の文学、座の文学と信じる人の場合、季語の本意と現実のギャップがあまりにもかけ離れた句を作る事は、場や座に失礼ですから注意を要します。日本が秋の頃、熱帯で草をみて、「秋の草」を使って日本語の俳句を作った場合、読者には日本語における「秋の草」の本意が連想されるますから、その本意を読者に伝えたい場合は問題ないですし、熱帯の草を見ながら日本の秋の草を思っているニュアンスをこめている場合は有効です。ただし、そういうニュアンスをこめる意味でなく、あくまでも現地の実物を写生するのに、俳句には季語をどうしても使わなくてはならないと思い、「秋」を加えないと「俳句として認められない」と錯覚し、「秋の草」を使う場合は、場に失礼であり(つまり、俳句の精神に反する)、問題だと思います。

    では、日本語ではなく、外国語俳句の場合はどうでしょうか。この場合の有季定型の問題は、海外詠のそれとは別の問題です。日本の風景や事物を対象に英語などで書く事ができる以上(つまり、海外詠でない)、外国語俳句と海外俳句ん問題は分けるべきです。外国語俳句の問題は、季語の場合、中村様のおっしゃる通り、「日本の風土や伝統的美意識に根ざした季語が必ずしも有効でなく、ルールとして実質的に機能しないであろう」ことです。ただ、私は外国語俳句における季語の不能を「(日本語俳句の有季定型派の人が使う)ローカルルールとしての季語を否定する論拠」だとは思いませんし、その理由は前述の通りです。季語は、あくまでも外国語俳句で機能不全を起こしやすいだけであり(同じ語彙と使っても、日本語文化ではぐくまれてきた本意が違う)、日本語俳句における重要性は否定できません。挨拶の作法として、季語が日本語のそれと同じ本意でその言語に歴史的にないからです。定型も同じで、外国語俳句では機能不全どころか害になりやすいのですが(575では長すぎて、季語相当語彙や切れや省略の意味がなくなる場合も)、日本語では(唯一無二ではないですが)最重要の韻律です。

    私が外国語俳句の例を出して主張したかったのは、もし日本語以外の俳句も俳句として認めるならば、言語によっては季語や定型も機能不全になるのに、有季定型だけを俳句とする連中の主張はおかしいという事です。俳人協会は設立以来、外国語俳句も俳句として認めていますから、今回の「教育という場において権威的に振舞おうとした」事件は恥知らずです。

    そして、日本語俳句だけに限定しても、季語や定型が最重要であるものの、絶対ではなく、無季や自由律(無律や厖大な種類の非定型律)の句も俳句だと云う事です。私自身は日本語で有季定型俳句を書く人間ですが、有季定型ファシズムには嫌悪感を覚えます。

    有季定型でもそれ以外でも、各自自由に書けばよいのです。有季定型の場合でも、花鳥諷詠でも、写生でも、社会性俳句でも戦争俳句でも、生活俳句でも、観念句でも、非具象俳句でも、口語俳句でも、多行形式でも、一字空けでも、良いのです。まず、目指すべきなのは、第一芸術の詩であり、質です。そして、俳句の挨拶性や存問性を重んじる場合は、自分が想定している読者(結社の仲間だけでもいいし、日本人全体でも、世界中の人々でも)、共有している言語文化的コンテクストを最大限に生かすべきだと云う事です。更に、場や座を重んじる作者の場合は、その場や座に合った形式で詠むべきだと云う事です。いくら自分が自由律が好きでも、伝統俳句の座では伝統俳句を詠むべきであり、自由律を容認する場で自由律を読めば良いのです。郷に入っては郷に従え、ローカルルールは重んじろのパターンです。

    ……またまた長くなってしまいました。反省。中村様の論を読み、自分でコメントを書いているうちに、自分なりに考えが整理されてきました。中村様とも大体意見が同じである気がします。素敵な論2篇、ありがとうございました。

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  2. ほうじちゃ様

    コメントいただき、誠にありがとうございます。外国語俳句に関連してのご意見よくわかりました。

    ただ、ご指摘の、俳人協会のダブルスタンダードという問題については、事実関係等充分に把握していないため、発言は控えさせていただきます。

    基本的には私自身の考えを整理するために書いたものですが、結果的に拙文を、俳句や季語について考える上での足がかりにしていただけたとしたら、望外の喜びです。

    次回以降はまた別のテーマに取り組むつもりですので、どうぞよろしくお願い致します。

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  3.  獅子鮟鱇です。貴稿、拝読いたしました。
     拙言「俳句は短いので翻訳がしやすい」につき、俳句は「正確に」翻訳することの困難な形式だとお書きになったたことは、いちおうは理解できます。詩は翻訳不可能、ということは、広く説かれていることでもあります。
     しかし、俳句の「省略という技法が多用されるために生じる多義性、重層性」であることに着目するのなら、それは翻訳だけの問題ではなく、読みの問題にも関わってくると思います。日本語の話者が日本語で俳句を読んで、その省略、多義性、重層性を深く読み解くことができるとは限りません。
     一方、俳句が「翻訳」を通じ、世界に広まっているということを、どう考えればよいのでしょうか。
     日本語は十分に世界に広まってはいない一方、俳句は、詩の世界に限ったことですが、芭蕉の俳句が翻訳を通じ、世界で広く親しまれている、ということがすでに起きています。詩の世界のできごととしては、それこそ世界に例を見ないことなのではないでしょうか。
     そして、日本語の話者は、日本語を理解できない外国のhaijinよりも、優れて蕉句を理解できるのでしょうか。いずれにしろ、世界でもっとも有名な日本人は、北斎であるのか芭蕉であるのか、俳句に限れば芭蕉が6割、次に蕪村、子規が少々、現代俳句は如何、という状況があります。
     日本の現代俳句は、俳句は翻訳できない、ということを過剰に信じるあまり、世界へむけて発信する能力を欠いていると思います。世界が求めているのは、日本の俳句の「正確な」翻訳であるのかどうか、それを十分に吟味せずに、俳句の翻訳不可能性を説けば、日本の俳句は世界から孤立するだけではないか、と愚考します。
     俳句のルール、日本の俳人のみなさんはそれにあまりにかかずらうあまり、畢竟、世界のHaikuから取り残されるのではないでしょうか。
     かつてソネットが、イタリアから発祥したにもかかわらずその成果がイギリスやフランスでも大きく花開いてしまったように。
     世界の詩人・Haijinにとって重要なのは、自作を作るうえでのインスピレーションであり、自分が読んだ作品の正確な理解ではありません。
     舶来の文化を「正確に」理解しようという努力は、世界のはて位置するわが国ならではのことで、必ずしも文学のグローバルスタンダードではないと愚考します。
     日本は俳句の母国でありながら、世界の俳句に対応する能力に欠けている、ということに、小生、違和感があります。

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  4. 獅子鮟鱇です
     上記拙文、
    >俳句に限れば芭蕉が6割、次に蕪村、子規が少々、
     一茶が欠けてしまいました。
    「俳句に限れば芭蕉が6割、次に一茶、蕪村、子規が少々、
     と訂正させていただきます。

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  5. 獅子鮟鱇さま
    コメントいただきまことにありがとうございます。

    >>日本語の話者が日本語で俳句を読んで、その省略、多義性、重層性を深く読み解くことができるとは限りません。

    これは仰るとおりで、俳句作品の多義性がどこまで発揮されるかは、読者の読解力や背景次第で変化するでしょう。それは読者個別の問題ですが、外国語に翻訳された俳句作品の場合は、参照されるテキストの違いであって、同一の次元で論じることは適切でないように思います。

    ただ、読みと翻訳は密接に関係しているとは思います。翻訳者は作品を読み、解釈した上で、他の言語に移し換えるという作業をするので。
    たとえば、私自身の俳句作品のいくつかが英訳されたことがありましたが、翻訳者が作品をどのように解釈しているかが明確にわかり、非常に興味深かったです。

    さて、拙文中、俳句は「「正確に」翻訳することの困難な形式」と書きましたが、「正確」という語は価値判断を含むため、必ずしも適切ではなかったかもしれません。言いたかったことは、もとの作品と翻訳された作品はイコールではないということです。

    英訳された俳句を読むと、元の作品から導くことのできる複数の可能な解釈のうち、ひとつを取り出しているという印象をもつことが多いように思います。念のため申し添えますと、そうした翻訳が無価値であるなどと言いたいわけではありません。
    また、翻訳を通じて日本語の俳句を海外へ紹介してゆくことの意義を、否定しようとも思いません。

    しかし、翻訳された一部の俳句作品と、独自の作品を基盤とする外国語の「haiku」は、私の携わっている、日本語の俳句作品すべてを基盤としている「俳句」とは別のものであると考えます。

    もちろんどちらが優れているとか、価値が高いという問題ではありませんし、相互の交流も可能でしょう。それを活性化すべきというご意見もよく理解できます。ただ、言語の違いを過小評価した楽観論には必ずしも同調できません。

    実際に英語の俳句作品を読んだとき、魅力を感じることはあるものの、やはり日本語の俳句とは違うものだなと感じます。どの点が違うのか、さまざまな角度からの分析も可能でしょうが、それについて考えるのはまた別の機会にしようと思います。

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