2010年10月25日月曜日

詩歌梁山泊シンポジウムに出られなかった人のための偏私的報告 「宛名、機会詩、自然」を私はこう考える ・・・筑紫磐井

詩歌梁山泊シンポジウムに出られなかった人のための偏私的報告
「宛名、機会詩、自然」を私はこう考える
・・・筑紫磐井


10月16日(土)に、神楽坂の日本出版クラブ会館3階で、三詩型交流企画という名目で詩歌梁山泊シンポジウムを行った。詩人、歌人、俳人が集う珍しい会だ。第1部が若手たち、第2部が若手ではない人たちによるパネルで、今回触れようとするのは後者だ。パネラーは歌人の藤原龍一郎氏、詩人の野村喜和夫氏、そして私の3人で、高山れおな氏の司会で議論したものだが、私は前日から風邪をひいてしまい、青ざめこわばった顔、心臓が早鐘のように打っている状況で話をしたものだから、どんな話をしたかも定かでない。特に、自分の話はレジュメを用意したから多少思い出せるが、藤原氏、野村氏の話は記憶にかすんでいる。それでも、話題となった話をレジュメから再構成しておくにしくはないと思い以下にまとめた。偏私的報告という所以である。130人の聴衆が聞いた内容と重なっているかは自信がない。

私の予告でもあげたが、人類学者川田順造氏が提案した三角測量という独特の方法論を使い、短歌、俳句、自由詩という異なる視点から、「詩歌」という単一理念を測量してみようという趣旨であった。予行演習をして、この「宛名、機会詩、自然」を取り上げてみてようという提案が通った。分かる人にはわかるミステリアスな表題のような気もしなくはない。
なお、以下の記事中、[]の部分は現場での私の発言ではなく風邪で混乱した私の脳味噌の中に存在した言葉であるのでご注意願いたい。

●宛名
冒頭のテーマ、「宛名」であるがこれは相当長い説明がいる。まずはじめに、三角測量のためにはそれぞれの詩型に求められるジャンルごとの違いをはっきり見ておく必要があるだろう。ということで、非常に特殊な状況の三詩型の現れ方を具体的に示してみた。
(ここではクイズ形式で進めたいので作者名やジャンル名をわざと開けておいた。)

[参考1](ジャンル:短歌/作者名:     )
女らしさの総括を問い問い詰めて死にたくないと叫ばしめたり
クレンザーを使いすぎると注意されお茶で食器を洗いいるなり

[参考2](ジャンル:俳句/作者名:     )
人知れず連れてゆかれぬ木下闇
がちやがちやの声の途絶ゆる国家かな
侮れば狼の身を過てり
解けやすき病衣の紐や冴返る

ことさら作者名が付せられているが、どのような環境にある作者か分かるであろうか。これらは死刑囚の作った短歌と俳句である。短歌の作者は坂口弘、俳句の作者は大道寺将司(まさし)である。

【注】坂口弘
元連合赤軍中央委員会書記長、連合赤軍リンチ殺人事件とあさま山荘事件を起こし、平成5年に死刑が確定。「朝日俳壇」に投稿し、「坂口弘 歌稿」(平成5年朝日新聞社)、「常しへの道 歌集」(平成19年角川書店)を刊。
【注】大道寺将司
東アジア反日武装戦線・狼グループ、丸の内三菱重工爆破事件を起こし、昭和62年死刑確定。『友へ』(平成13年ぱる出版)『鴉の目』(平成19年海曜社)を刊、同人誌「muyou」に現在も発表中。

歌の是非は問わぬこととして、政治的思想的信条を持ち、犯罪を犯して死刑判決を受け、処刑を待つ彼らがなぜ定型詩を選んだかを考えてみる必要があるように思えたからである。いや逆に、切実な表現意欲を持っている彼らに、なぜ表現として、より自由なはずの口語詩が選ばれなかったのか。同じ死刑囚の永山則夫は小説と言う散文形式を選んでいたから、ひときわ口語詩の欠落が不思議に思われるのである。パネラーの野村さんは、打ち合わせの段階で伺ったときは、自分も同じ状況になっていたら定型詩を作るかも知れないと述べられていた。(当日のシンポジウムの際は、それを補足される説明をしていたようだが、残念ながら頭がぼうっとしていてはっきり記憶していない)
これは、定型詩と口語詩の関係だが、定型詩同士でも問題を生じる。歌集句集を読み通せばわかるように、坂口の短歌は、彼が犯した事件の詳細を細かに叙述しており、これらの歌を並べ替えると事件の事実記録となる、さながら供述書のような歌なのだ。ところが大道寺の俳句には、こうした詳細な事実は浮かび上がって来ず、彼の現在の心象風景が浮かび上がる。死刑囚が詠む定型詩ではあっても、短歌と俳句ではやはり違うようなのである。

*       *

以上は「宛名」の前振りにすぎない。本題は以下だ。ジャンルごとに作者の意識が変わってくるとしたら、では、一人の人の内部でジャンルをまたがる詩型と向き合ったとき、作者の心はどのように変化するのだろうか。例として、Aという著名な詩人を取り上げてみた。Aは学生時代に短歌を、その後、詩を書くようになる。ここでは短歌と、もうひとつ不思議な文章を取り上げて比較してみた。

[参考3](ジャンル:短歌/作者名:     )
いそがしき/春なるものを/水銀の/ああいづちまで/ひかり行くらん
さそり座よ/むかしはさこそいのりしが/ふたたびここにきらめかんとは
コバルトのなやみよどめる/その底に/加里の火/ひとつ/白み燃えたる
雲ひくき峠越ゆれば/(いもうとのつめたきなきがほ)/丘と野原と

[参考4](ジャンル:  /作者名:     )
ゆるやかな丘の起伏を
境界線の落葉松の褐色の紐がどこまでも縫ひ、
黒い腐食のしめった低地には
かたくりの花がいっぱいに咲き
その葉にはあやしい斑が明滅し
空いっぱいにすがるらの羽音
大きな蟇がつるんだままのそのそとあるく。
すこしの残雪は春信の版画のやうにかがやき、
そらはかがやき
丘はかがやき、
やどりぎのみはかがやき、
午前十時ころまでは馬はみなうまやのなかにゐます。
(大正9年4月制作と推定)

短歌はもちろん学生時代に同人誌で短歌として発表した作品だが、後者の詩のような文章は実は学生時代の友達が思想的な発言をしたために学校を退学となり、その友人にあてて熱い思いを書いた手紙を大量に書いている、[参考4]はその手紙の中の文章の一部を、筑紫が詩らしく改行して示したものだ。もちろん手紙だから、事務的な内容があったり、人生相談があったりするが、その前後でこの文章は登場する。Aの短歌は現代の歌人に言わせると、詩人としてAが上げた業績に比べ大した作品ではないということになっているらしい。では、手紙の一部はどのように評価したらよいであろうか。この文章の2年後に、Aは本格的な詩を書き始めている。私には立派な詩に見えた。
その前にここまで説明したら、会場の人たち、―――特に詩にかかわる人たちはこのAが誰か分かるだろうかと思って挙手をしてもらったが、分かると答えた人が少なかったのは意外であった。Aは宮沢賢治である。

ここで述べたかったのは、賢治の詩は若いころから熱心にやっていた短歌から生まれたものではなく、手紙を書き連ねる中でほとばしり出た文章の影響を強く受けていたということであった。
実はシンポジウムに先立つ打ち合わせの時、この話を野村さんにしたところ、それは「宛名の問題」になるのではないかと言われて至極納得し、このシンポジウムのメインテーマとして掲げてもらうこととしたものである。

パネラーの総意としてではなく、私の個人的な結論として言えば、
①賢治の詩の発生は、2人称を宛名とする言説(いってみれば手紙)
を契機に発生したものと考えるのがふさわしいと思う。では短歌はどうか。1500年の歴史を持つ短歌の場合は、その発生について考えるのに古代短歌を利用してもおかしくないだろう。例えば万葉集に出てくる額田王の歌

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

これは、斉明天皇や中大兄皇子(後の天智天皇)、多くの群臣らを前に、新羅に向けて兵を進めようと一行が熟田津を出港するのを寿ぐ歌であるから、
②短歌の発生は1人称複数(=We)を宛名とする歌謡
と考えてもよいのではないか。それに引き換え俳句はどうなのか。俳句は歴史的由来を遡りすぎると、連歌・和歌の中に消え去ってしまうので、むしろ近代俳句に一気に下った方がよい。私は、近代俳句の典型を、尾崎放哉の自由律俳句で示したいと思う。

咳をしてもひとり

賢治とも額田王違う典型がここにある。そして結論として行ってしまえば、
③俳句の発生は宛名のない文学・つぶやき(日記の片隅に書きつけるもの?)
と考えるのが最も分かりやすくはないかと思う。日記と上げたのは言いえて妙だと思う、高浜虚子には毎日の句作を記した「句日記」という不思議な文学形式があり、これが個人的な営為としてだけではなく、高浜家4代にわたる85年の集積として残ることにも納得できるものがある。

[これはいささか暴論じみているかもしれない。私の意見に対し藤原さんから、戦前の茂吉等の作品に国家主義的な歌がありそうした傾向も見られなくはないが、むしろ戦後の短歌はそれに反発する個の歌となっていると反論をされた(例のもうろう状態なので正確には思い出せない)。指摘の通りで、むしろシンポジウムを面白くするためにあえて挑発的な結論を設けたことを白状するが、挑発しつつも若干は本心が混じっていることも述べておきたい。戦後の個の歌は、戦前の1人称複数(=We)への反発・投影として生まれたとすれば、ことによるとそれは今もって1人称複数(=We)に縛られているともいえなくはないような気もする。後述する短歌における機会詠には、広い世界にたった一人でもいいから自分の思いに共感する人あれかし、という切実な心情を感じ取った次第である]

*       *

この宛名の問題が、シンポジウムの中で一番時間をとったが、たぶん聴衆にも論者にも簡単に納得できない思いが残ったからだと思う。実は、シンポジウムでこの資料を紹介するに先立ち、打ち合わせの段階で[参考4]を「詩」ないし「詩のようなもの」と言ってよいかどうか、若い詩人たちに聞いてみたのだが、やはり躊躇があったようだ。「詩のようなもの」ではあるかもしれないが、厳密な「詩」ではないかもしれない。この「詩のようなもの」を聞き、私はすぐ最近の俳句界のある事件を思い出した。

じつはこの春、俳句界の老人たちが、俳句を、純粋な「俳句」と「俳句のようなもの(正確には「俳句に似たもの」と言っていた)」に分け、教科書に載せたり小学生に教えるのは純粋な「俳句」に限るべきだと言わんばかりの主張を始めたのである。これに対して若い俳句作家たちの一部が、「俳句のようなもの」となぜ差別するのか、「俳句のようなもの」でいいではないかといった発言をしていた。もちろん、俳句界の老人たちの言うような意味での「俳句のようなもの」と、今回私が聞いた若い詩人たちが感じた「詩のようなもの」は違うと思うが、時期を同じくして似た言葉を聞いただけに興味深かった。

若い詩人たちに聞いた後で、シンポジウムの会場でもこれが詩に見えるか見えないか、聞いてみるなりアンケートを取ってみたら面白いと提案されて、私も多少その気になったのだが、しばらく考えてみて賢治についてはそれは不可能であることが分かった。[参考3]の賢治の短歌、[参考4]の賢治の「詩のようなもの」、そうすると[参考5]に賢治の「詩」を上げなければならないが、賢治にはそうした意味での厳密な「詩」が存在しないのだ。賢治の代表的な詩の例は『春と修羅』になるであろうが、著者である賢治の原稿にはどこにも「詩集」という表記はない、彼は終始一貫して「心象スケッチ」と書き続けた。すなわち「詩のようなもの」である。じつは初版本に印刷所が誤って「詩集」という字を加えてしまったのだが、賢治はこの活字を削って贈呈したと聞いている。積極的に詩集であることを拒否したのだ。いやもっと有名な詩「雨ニモ負ケズ」は、賢治全集の詩集の部のどこを見ても発見できない、手帖の部に上がっているからである。この手帳には、法華経の抄出や、賢治の思いついた書きつけが並んでいるばかりである。「雨ニモ負ケズ」を誰が「詩」と名付けたのだろうか。賢治には「詩のようなもの」しかないのである。

実際、俳句界の老人たちの例を見るまでもなく、純粋な「俳句」よりは「俳句のようなもの」にこそ新しい文芸、生産的な思想が生まれる契機があるのだ(放哉の「咳をしてもひとり」は「俳句のようなもの」である)。これについては野村さんにも賛同してもらえたようで、詩とは作品を通して生産されるものであって、テクストは残骸にすぎない、だから「詩のようなもの」にこそ生産性がある、掲げられた詩の断片[参考4]にも賢治の宇宙との交合が伺える、と述べていただいた(この野村さんの発言は、私が感じただけで正確ではないかもしれない)。

●機会詩
さて、以下の「機会詩」「自然」については私はキーノートスピーカーではないので、断片的な自分の発言しか記憶にない。司会者(高山さん)は、機会詩としてもっとも積極的に立ち向かっている短歌の現状を藤原さんに紹介してもらい、逆に最も自由な詩型で機会詠を期待されている自由詩があまり活発でない理由を野村さんに問うていた。司会者は、藤原さんが上げた機会詠の作品をあまりいい作品とも思えないがと言う、独断的コメントを下し会場を沸かせていたが、筑紫には、同じ新聞作品欄がある中で俳句はどう見るかと質問があった。

俳句については、社会的制作動機が最も顕著なのは社会性俳句ということになるであろうが、実はそれに先立ち角川書店の「俳句」が昭和29年11月に「揺れる日本」という特集を行っている。楠本憲吉・松崎鉄之介・森澄雄が当時の句集・雑誌を渉猟し実に2000句にも及ぶ作品が集められている。その意味では俳句も機会詠につながる契機がなかったわけではないと思う。

ただ、社会性俳句と機会詠は多少異なるのであり、機会詠はやはり新聞俳壇が最も適していると思う。おそらく、機会詩として今もって記憶され残っている唯一に近い作品は昭和36年10月に日本社会党の浅沼稲次郎委員長が刺殺された時の作品、

十代の愛国とは何銀杏散る 長野 松井冬彦

ではないか。刺殺犯は山口二矢(おとや)、当時17歳(高校中退)で、今もってつかわれる浅沼刺殺の衝撃的な写真では、犯人が学生服を着ていることに驚く。だからこそ「十代の愛国とは何」の言葉がよく共感を持って伝えられたのではないか。

この作品は、朝日俳壇の中村草田男選に選ばれたものであるが、この句が記録ではなく伝承によって伝えられていった証拠に、多くの本がこの句を中村草田男自身の句であると記している記述に出会う、しかしそうではなく無名俳人の句なのである。機会詩は無名俳人にこそふさわしいのではないか。当時の朝日俳壇を眺めてみると、機会詠を選んでいるのは上の句をはじめとしてすべて中村草田男選ばかりである。「十代の愛国」ほどの句はほかにあったかどうかは別にしても、機会詠の問題は作者の問題である以上に、選者の問題であるような気がする。選者が積極的にこれを取る意欲がないところに機会詩は生まれない。

草田男は新聞での選評にあたり、「テーマそのものには恒常性があるが、ケースを通しての訴えであるだけに時間的に簡明がある程度薄まって行く可能性がある」と述べたが、草田男の予想に反して、どの機会詩よりもこの句は普遍性を保ち得たように思う。また、だからこそ草田男は現在の新聞俳壇では信じられないほどの長文の評言をこの句に寄せている。伝説が出来て当然の扱いであったのである。

[これにちなんで一言。「現代詩手帖」の短詩型特集の座談会で、高柳克弘氏が最近の外部の意識化について、第二芸術コンプレックスからやっと抜け出てハイブリッド化が可能になったと述べていたが、当事者と後続世代とでずいぶん認識の差があると感じたものである。昭和50年前後、私を含めその時代の若い世代は、「第二芸術」は知識で知っていても、第二芸術コンプレックスなど感じたことがなかったと思う。あるとすれば、第二芸術から派生した「現代俳句」コンプレックスで、俳句は現代を詠まねばならないという強い思い込みであった。「現代俳句」協会ができたのも、山本健吉がその名著に『現代俳句』と名付けたのも、石田波郷が自ら編集する総合誌を「現代俳句」と名付けたのも、すべて「現代俳句」コンプレックスがしからしめたといえよう。それは昭和50年代までも続き、能村登四郎にしろ、飯田龍太にしろ、藤田湘子にしろ、伝統、前衛を問わず残り続けた意識であるような気がしてならない。その意味で高柳発言は、半分当たり、半分外れという思いで読んだ。それはそれとして、では短歌には「現代短歌」コンプレックスはあったのか。口語詩には「現代詩」に強い思い入れがあったか。これは、聞いてみたいところであった。少なくとも俳句にあっては、俳句は現代を詠まねばならないという強い思いから、社会性俳句や機会詠がつながる下地ができていた。それ抜きにして機会詠を語ることはむずかしいと思う。
話を少し強引であるが宛名の問題に戻す。「十代の愛国」の句を見ると、機会詠は俳句といえども第1人称複数を宛名としているように思える。「十代の愛国とは何」という強い言葉が、We(1人称複数)に対する共感を求めているように思えてならないからである。それは藤原さんが上げた短歌における機会詠の例を見てしみじみ感じ取るのである。むしろ、短歌にあっては機会詠の作品こそ現代における宛名(1人称複数)の典型例として挙げてもよいのではないかと思う。]

●自然
最後の自然については、野村さんが自らの作品の自然との近さを、藤原さんが機会詠と比較しての現代短歌における自然の希薄さを指摘していたようだ。これに対して、俳句における自然について司会から振られたが、今までの「宛名」「機会詠」と違って私の論難すべき相手は他ジャンルのパネラー側ではなく会場側(つまり聴衆である俳人)にたくさんいるように思えた。

要旨は、詩人・歌人のいう「自然」と、俳人のいう「自然」は違う、ということである。現象的に見てみると、詩人・歌人はその集団のごく一部(5%ぐらいか)が自然に関心を持つが、俳人は99%が自然に関心があるといっている。これは、詩人・歌人と俳人の人種の違いではなく、対象の「自然」が異なるからに違いない。詩人・歌人の「自然」はたぶん俳句をやっていないあらゆる人、―――外国人も日本人も、赤ん坊も年よりも間違いなく考える本当の「自然」であるが、俳人のいう「自然」とは季語(季題)のことでしかないだろう。自然は美しさばかりでなく、恐ろしさ、醜さ、冷酷さ、あらゆる感情を持つはずであるが、俳句の自然は季語であるから予定調和した「美しさ」しか存在しない。本当の自然から俳人は目をそむけている。

これを範囲の点で見れば、詩人・歌人の「自然」はあらゆる自然に存在するもの、自然のすべてを対象としているが、俳人のいう「自然」は季語として偶然残された自然の一部の記号にしかすぎない。だから俳人の「自然」の中には、皆の言う「自然」に比べ大事なものが時々欠落している。例えば、ある時期まで「星」はほとんど季語(=自然)に入っていなかったから、(山口誓子らの特殊な例以外)星の名句もなければ、季語もほとんどなかった。戦前の代表的歳時記である改造社版『俳諧歳時記』にあるのは笑い出したくなるような色気もない「春の星」「夏の星」「秋の星」などで、驚いたことに「冬の星」さえない。俳人は、冬の夜の煌々たる星空を観測していないようなのだ。改造社のこの歳時記はうんざりするほど膨大な例句で有名である、秋だけの月の例句を見ても数百あるのだが、これに比較し星の例句は四季合わせてもわずか8句しかないのである。ましてや宮沢賢治の、星の童話、星の詩の量に比べても如何に俳人は星に無関心だったかということだ。それは、星は俳人の言う「自然」ではなかったからだ。

次に質の点からいえば、詩人・歌人はそれぞれが個別に感じ取る主観(自己の内部)をうたっているが、俳人は季語という制度に取り込まれた伝統をうたっている。本意本情がよくマッチするのはこうした理由による。だから俳人が必須とする歳時記については、日本人の季節のインデックス(索引)と言う有名な言葉がある(寺田寅彦であったか?)が、エンサイクロペディア(百科全書)でないことに注意すべきだ。季節のエンサイクロペディアを作れるのは詩人しかいない。

とはいえ考えてみると、こんな俳人たちの「自然」を残してくれたのは実は歌人たちなのだ。近代以前の歌人たちが営々として築き、残してくれた題詠の伝統(万葉集→歌合せ→和歌集と明治直前まで続く)を明治維新で歌人たちが手放してくれたおかげで、俳人はまるまる自分の財産としてしまった。山本健吉の名著『基本季語五百選』の解説を見れば分かるが、半分近くが和歌の解説である。これを見ても、万葉・古今の伝統を引き継いでいるのは、単に五七五七七の詩型をつないだ近代短歌ではなく、相変わらず句会で兼題・席題で題詠句を作り続けている現代俳句ではないかと思っている。

[俳句の本質が季題・題詠であるとすれば、実はこれも冒頭の「宛名」にかかわってくる問題となるのである。題詠には必ず、出題・選をする選者(宗匠)が必要となってくる(題詠には本来互選はなじまないのではないか。互選になじむのは雑詠だ)。とすれば、俳句とはその始まりからして、流派の宗匠を宛名とする文芸という本質も持っていたのである。結社の中でしかわからない用語や選句基準もこのことを前提に置くと理解され易い。懇親会の席で高原耕治氏から、口語詩・短歌と俳句で「自然」が違うというののはおかしいと懇々と諭された、もちろん同一であるべきであるという高原氏の理想はじゅうぶん分かるのだが、現実は理想通りではない、その意味で、特に「高原氏のいう意味」でおかしいのが現実の俳壇や俳句なのである。もちろん、題詠に明け暮れる、あるいは歳時記の季語の使用で明け暮れる俳人たちの態度がいいことか悪いことか、とは別である。私は高原氏の言うピュアな自然に対する態度と同じくらい、虚子の不敵な題詠方法も間違っているとは思えない。]

●予告
[以上でシンポジウムは終了した。あまり、結論らしい結論を導き出せなかった気もするが、俳人には滅多に考えることのない「宛名」をキーワードに考えてみることができたのはいい機会であったと思う。日々反省なく作り続けている俳句の宛名はだれか、と問うてみると意外に新鮮であった。おそらくは、6割は選者向け、3割は読者向け、1割の傑作が宛名なしとなるのではないか。まあそれは別として、こうしたシンポジウムでは明快な結論が出ないのはやむを得ないことかも知れない、しかし、ここで提起された問題が次にどう続くかと言うことの方が大事であろう。そして実はそうしたことを最初から期待していた向きもある。短歌・俳句・詩という三詩型交流を目指したシンポジウムだが、実は俳句の周辺にはさらに多くの他ジャンルが存在している。12月刊行予定で、現在、鋭意編集を進めている『超新撰21』は、意図して『新撰21』を超えてはるかに広く、川柳や自由律俳句の作家に参加してもらっている。刊行後の12月23日(木・祝)午後には、アルカディア市ヶ谷でシンポジウムが開かれるが、ここでは三詩型交流を超えた多詩型交流の場が実現するであろう。今回のシンポジウムで提起された問題、あるいはより一層深く論ぜられるべき問題はそちらで孵化されることを期待している。]


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