2010年10月25日月曜日

三詩型・覚え書き(または雑感) 10/16「詩歌梁山泊~三詩型交流企画」第1回シンポジウム 1部「ゼロ年代から10年代に~三詩型の最前線」 ・・・宮崎斗士

三詩型・覚え書き(または雑感)
10/16「詩歌梁山泊~三詩型交流企画」第1回シンポジウム 1部「ゼロ年代から10年代に~三詩型の最前線」
・・・宮崎斗士

現在の日本には、短歌、俳句、自由詩(狭義の詩)という三つの詩型があり、共存しているといって良いでしょう。三つの詩型はお互いに影響しあっていますが、住み分けがされているのが現状です。そのことが日本の詩にとって幸せなのかは、はなはだ疑問です。当企画ではシンポジウム、ホームページ、印刷媒体などを媒介とし、三つの型の交友の促進を目的とします。それぞれの詩型の特徴や相違点を考え、時には融合するなどし、これからの表現の可能性を探ります。戦後の詩歌の時間を問いなおす試みでもあります。(「詩歌梁山泊」代表:森川雅美)


10月16日土曜日、東京はなかなかの好天。特に暑くもなく寒くもなかった。
こういう日はかえって何を着ていくか迷ってしまう。
「詩歌梁山泊~三詩型交流企画」第1回シンポジウムが東京・神楽坂近くの日本出版クラブ会館にて開催された。午後2時10分開場、午後2時30分開演。
開演時間直前、会場には約120人の聴衆、ほぼ満席だ。
梁山泊、どのような水滸伝が展開されるのか? 宋江は、呉用は、魯智深は誰だ‥‥場内の期待感、緊迫感がいや増す。

第1部は、三詩型の最前線で活躍する10~40代の作家たち(歌人/佐藤弓生・今橋愛 俳人/田中亜美・山口優夢 詩人/杉本徹・文月悠光)によるパネルディスカッション。具体的な作品に沿って三詩型の表現の「いま」を語ります、と案内レジュメにある。まさしく、三詩型それぞれの「自己紹介」であり、三詩型の最前線たる作品群の「プレゼンテーション」でもあるだろう。
グループ「俳句」のパネラー、田中亜美氏と山口優夢氏。現在、作句者、論者としてのスキルがぐんぐん上昇中の二人ということもあり、この大舞台において、とても頼もしい存在だ。テキスト(推薦作品)の作者も、高柳克弘氏、御中虫氏と、現在の若手俳人の中にあって的確な人選と思われる。バランスの良さが感じられた。
というわけで、グループ「俳句」の布陣、十分に「練られている」印象を持った。

歌人、俳人、詩人、各2名ずつの推薦作品のレジュメに目を通す。
司会、森川代表のアナウンスのもと、シンポジウム第1部が始まった。

まずは、グループ「短歌」から。


★光森裕樹『鈴を産むひばり』(港の人)より

鈴を産むひばりが逃げたとねえさんが云ふでもこれでいいよねと云ふ
風邪。君の声が遠いな。でもずつとかうだつた気もしてゐるな。風邪。
高木【かうぼく】の淡きこもれび自転車のタイヤに夏の風をつめをり
友人のひとりを一人の母親に変へて二月の雪降りやまず
それはレジストリに“Melissa?”といふ痕跡を残す
行方不明の少女を捜すこゑに似てVirus.MSWord.Melissa
ひたむきさが常にまとへる可笑しさのまざまざたるにわれは黙せり
或る友が世界に選ばれ或る友が世界を選びなほしたり、今日
だから おまへも 戦争を詠め と云ふ声に吾はあやふく頷きかけて
恥づかしくなき豊かさも貧しさも持ちえず歩く大空の底
致死量に達する予感みちてなほ吸ひこむほどにあまきはるかぜ


鈴を産むひばりが逃げたとねえさんが云ふでもこれでいいよねと云ふ

優しい語り口の中に「現実」の重さがある。「鈴を産むひばり」というフレーズの持つ膨らみが、まず凄い。幻想的であり寓話的でもある。そして産み出される鈴の音が一つ一つリアルに響いてくる。一首の流れ、決着‥‥「これでいいよね」の余韻が柔らかくも悲しい。一読して、「鈴を産むひばり」の部分、ストレートに「幸福」を代入して読んでしまったが、読み込んでいくうち、きっともっと複雑な世界観なのだろうと思った。

風邪。君の声が遠いな。でもずつとかうだつた気もしてゐるな。風邪。

風邪をひいた時の感覚の特異性が、やがて関係性のあらためての危うさに展開してゆく。最初と最後に置かれた「風邪。」の措辞が何とも効果的なスパイスで、一首の中にしっかりと読者を閉じ込めるようだ。


佐藤弓生氏の推薦の弁。
「光森裕樹さんは1979年生まれ。京大短歌会で活躍され、2008年角川短歌賞を受賞されました。比較的若手で現代性があるものということで選ばせていただきました。逆説的になりますが、なぜこれを現代的と考えたかと言いますと、非常に歴史的な表現、文語的な表現と密接なつながりがあって、古典的なつくりになっているところこそが現代的なのではないかと思いました」
「十首、前半は叙情的 後半は内省的。全体的に見ると、自分自身のことは何も書いていないにもかかわらず、何かこの人の考え方の変化の軌跡みたいなものがあって、そこがひとつの青春の静かな物語というふうなものを見せています。これは高柳克弘さんの句集にも、けっこう方向性として似ている、今の若い人のひとつのあり方なのかな、と思いました」
そして、「短歌は現代詩としても優れているのではなくて、短歌として優れているのです。そして詩人にも俳人にも、短歌としてきちんと光森作品を読んでいただきたい」
と強くアッピールした。

光森作品に対し、山口優夢氏は、
「光森さんの体現している現代性というのは、非常に深い戸惑いみたいなものに支えられていると思います。いろいろな素材をフラットに扱ってはいるんだけれど、感情とか激情みたいなものは一つも見られない。〈うたいあげる〉というよりは、ある意味俳句に似ているような、ちょっと冷静なところがある。現代に対する、自分がここにいるということに対する戸惑いを体現する作品があるということは、とても興味深い」
と語った。


★野口あや子『くびすじの欠片』(短歌研究社)より

互いしか知らぬジョークで笑い合うふたりに部屋を貸して下さい
さみしさというばけものはひのおわりきみの番号(ナンバー)ひきつれてくる 
ただひとり引きとめてくれてありがとう靴底につく灰色のガム
痛々しいまでに真白い喉仏震わせながら愛なんて言う
せんせいのおくさんなんてあこがれない/紺ソックスで包むふくらはぎ
待ち受けを空から海に変えている会いたくてしかたない夜である
言葉とかお前ほんとは嫌いだろきらいだろって闇を掻くひと
くびすじをすきといわれたその日からくびすじはそらしかたをおぼえる
雨降れば皆いっせいに傘ひらくはなやぎに似て去年(こぞ)の片恋
肘にある湿疹ふいに見せるとき目をそらさない君がいたこと
くびすじをなぞるいっぽんの指があり私はかたん、と傾いていく


ただひとり引きとめてくれてありがとう靴底につく灰色のガム

「ただひとり=灰色のガム」なのか、それとも「ありがとう」で一旦切れるのかで、色合いがかなり違ってくる。僕は前者で読んだ(後者だと「ありがとう」という思いと「灰色のガム」との配合の捩じれがあまり好ましくないように感じるからだ)。
哀しみとユーモアが抜群のバランスを見せる。

くびすじをすきといわれたその日からくびすじはそらしかたをおぼえる

このあたりの女性的な感覚に、だからあらためて背中をどつかれたような気分になる。僕も(今となっては、さすがにもうおぼろげだが)かつて誰かにこういった部分を初めて思い知らされたのだ。これは手強い。とてもかなわない。そして、

くびすじをなぞるいっぽんの指があり私はかたん、と傾いていく

との並列が、とても美しく、心地よくもあり、少し明解過ぎるような気もしている。
でも、これはこれでいいのかな。


今橋愛氏の推薦の弁。
「この歌集『くびすじの欠片』には、野口さんが15才から20才までに作られた歌311首が入っています。この歌集で現代歌人協会賞をおとりになられました。
この歌集の特徴として恋の歌がとても多いということがあると思います。性愛の歌も数多くあります。主体が性的対象物である少女という役をちょっと過剰なまでに演じ過ぎているように感じました。そしてそういう演じかたをしなければ、その時期を超えられなかった主体のぎりぎりでいっぱいいっぱいの心を感じるようにも思えました」
〈痛々しいまでに真白い喉仏震わせながら愛なんて言う〉〈言葉とかお前ほんとは嫌いだろきらいだろって闇を掻くひと〉〈肘にある湿疹ふいに見せるとき目をそらさない君がいたこと〉、この三首は外からの目線ではなくて、恋の相手を主体が見つめています。見つめているので主体がポーズをとることはできなくて、だから演じ過ぎは見えないです。特に十首目〈肘にある-〉は好きな歌です。恋の相手との関係性の中からつかみとってきた真実味のある歌だなあと思います。また〈ただひとり引きとめてくれてありがとう靴底につく灰色のガム〉、性愛の歌やいら立ちの中にぽっとこういう歌が出てくると、〈ありがとう〉という言葉が沁みて、本当に嬉しかったんやなあという気がして、息のつける好きな歌です」
「他の人と間違えない、正直な主人公〈野口あや子〉というひとりの人が、はっきり五七五七七になっている、どちらかというと光森さんの歌集とは対照的な歌集だと思いました」


肘にある湿疹ふいに見せるとき目をそらさない君がいたこと

関係というものは(言うまでもないことだが)一瞬一瞬の積み重ねなのだ。その煌めく一瞬を一首で全て持っていく。確かに、まさに短歌ならではの力。


グループ「短歌」のトーク、総まとめ的に佐藤氏の発言。
「今回全体を通して気になったのは、女性がちょっと受難的な文脈でも、自分の身体性を非常に押し出して〈男性からみられる私〉というのを、詩も短歌も女性の作品はそういうもので、男性の作品はどちらかというと普遍的な私性みたいな、〈個人の私〉ではなくて〈普遍的な私〉を目指す作品が選ばれた傾向にあって‥‥。よく女性が自分の身体を売り物にして何かものを言うと非難されるけど、そうじゃなくて、男性もそれをやればいいじゃん!と思います」


グループ「短歌」、なかなかに攻めの姿勢を見せている。
続いて、グループ「俳句」。


★高柳克弘『未踏』(ふらんす堂)より

ことごとく未踏なりけり冬の星
桜貝たくさん落ちてゐて要らず
つまみたる夏蝶トランプの厚さ
うみどりのみなましろなる帰省かな
何もみてをらぬ眼や手毬つく
くろあげは時計は時の意のまゝに
刈田ゆく列車の中の赤子かな
亡びゆくあかるさを蟹走りけり
洋梨とタイプライター日が昇る
ダウンジャケット金網の跡すぐ消ゆる


何もみてをらぬ眼や手毬つく
亡びゆくあかるさを蟹走りけり

おぼろげな世界の中の、くっきりとした「動き」を捉えて成功していると思う。
「手毬つく」「蟹」の実在感を活かした句としては、

焼跡に遺る三和土や手毬つく 中村草田男
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ 金子兜太

が挙げられるが、これらの句が「手毬つく」「蟹」以外のモチーフ、状況をはっきりと限定しているのに対し、高柳作品は、おぼろげな世界観のまま提示している。
そこのところが、まさに現代性なのかなと思ったりした。
とにかく高柳作品全般、「リアル」の出し方、描き方に、思わず唸らされる。


山口優夢氏の推薦の弁。
「ここに挙がっている十句をご覧になっていただければわかる通り、文語調で流麗な文体をもって書いていらっしゃる方です。現代に生きている我々と感覚を共有してるなと思うのは、演出された青春性ではなく、たとえば〈刈田ゆく列車の中の赤子かな〉の寄る辺ない感じ、というのが一つ挙げられるのではないかと考えます。〈刈田〉という大きなものから、〈列車〉を介して、〈赤子〉という小さなものへとピントが合わされてゆく。こういうふうに省略して書かれると、なぜかこう赤子がぽつんと列車の中で刈田をゆくような、そういう感じがあるんですね。この列車がどこにあるのかというのは全然わからない、何かそういう寄る辺なさ、我々はどこに向かっていくんだろうという不安感、あるいは人間というものの存在の小ささが感じられるのではないか、と僕は思います」
「高柳さん自身が、というか作中主体が何か行為をしてる、行為者としてあるということがほとんどないのではないか、というふうに思います。行為者たらんとしているよりは観察者たらんとしている感じがこの句集全体にありまして、観察者として、普遍的な寄る辺ない人間存在というものを描いている。それを現代という時代のなかでやっていく、素材的にも感覚的にも。御中虫さんの、むしろ観察者としてよりも行為者として作中主体があるという部分と、非常によく対照されるのではないかと考えます」

山口氏が解説した「刈田ゆく列車の中の赤子かな」に関して、佐藤氏から質問があった。
「単純にこれ、まず刈田って広いものがあって、列車があって、その中をっていう、あのズームインって考えられないんですよね。なぜかって言うと、もし外にいてこれを詠んでいたら赤子なんか見えるわけないわけで、じゃ列車の中にいる人が詠んでいるのかっていうと、そうすると刈田ゆく列車が見えるわけがない。見ている人が、何かこう、違う場所に同時にいるような不思議なところを読めばいいのかなと思ったんですが、山口さんいかがでしょう?」

山口「僕はこれ、ある意味〈神の視点〉に立っているやつなんじゃないかな、と思います。別にそれを見てる誰かを仮定しているわけじゃなくて、刈田→列車→赤子というふうにどんどん収束してゆく視点というふうに僕は考えていて、これを見てる誰かというのを仮定しないと気持ち悪いというのは、非常に短歌的なんじゃないかなと思います」

佐藤「有名な啄木の〈東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる〉って、なぜか〈われ〉にズームインしてしまうという、神視点だったはずが〈われ〉に来ちゃう、というのとはちょっと違うということですよね。それは面白いですね」

刈田ゆく列車の中の赤子かな

まさしく「大と小」そして「静と動」。「列車の中」という設定が鮮やかだと僕も思った。


★御中虫『第3回芝不器男俳句新人賞受賞作品』より

じきに死ぬくらげをどりながら上陸
虹映る刃物振り振り飯の支度
結果より過程と滝に言へるのか
混沌混。沌混沌。その先で待つ。
季語が無い夜空を埋める雲だった
机を蹴る机を叩く私は蚊ぢやない
歳時記は要らない目も手も無しで書け
乳房ややさわられながら豆餅食う
この恋は成就しません色変へぬ松
夏の終わりに終わりはないあなたが好きだ


田中亜美氏の推薦の弁。
「御中虫さんは〈第3回芝不器男俳句新人賞〉に百句を応募し、賞を獲得されました。俳句を一句で読むのか、百句で読むのか、実はけっこう違いがありまして、例えば高柳さんの作品は一句で完結する、鑑賞できるわけですが、御中虫さんの場合は一句として読んでも面白いわけなんですけど、これ百句として読んだ時にわりあい一つの物語性というものが立ち上がってくる。連続性がある。そういった点で今の若手俳人の中では境涯的なところが面白いのかな、と思いました」
「百句を並べて読んでみると、面白いのは季語がバラバラだということです。夏の次に冬が出て来て秋が来て春が出て来て冬が来て、という感じで流れています。乱反射させるような感じで、季語がプリズムみたいな感じで、そこでちょっとインパクトあるのかなと思いました。で、口語も文語も現代仮名遣いも旧仮名遣いも全部バラバラに書かれています。あえてそこのところを全部バラバラにしている。つまりある意味、俳句の一つの法則性を逆手にとってカオスを演出しているようなところがあると思います」

佐藤氏からの質問。
〈乳房ややさわられながら豆餅食う〉についてですが、一緒にいたくもない義理がある男性とたまたま個室にいたら何か触られたというセクハラバージョンと、これからこの人といい仲になりたいなと思っていたら触られて喜んでいるバージョンと、もうこいつとはそろそろ別れたいと思ってるバージョンと(笑)、何かいろいろ考えてしまって、そういう読みのブレっていうのは、田中さん、どうお考えですか?」

佐藤氏は、けっこう作品の真意というか作中主体の真意を追及するタイプなんだな、と思った。これも山口氏言うところの「短歌的」ということなのだろうか。

田中氏が答える。
「あの、結論から申しますと、まさしくその読みのブレがあるところが俳句の面白さなんだと思います。私がこの句を面白いなと思ったのは、古今東西、女性はあちこちで乳房を触られているとは思うんですよね。で、〈乳房ややさわられながら豆餅食う〉ということで、私もやっぱりこれ、やや触られながら、まあでも豆餅食ってるわけですよね。だからまあ合意の関係なのかな、と。でも合意だったら〈なでられながら〉でもいいんじゃないかな、とかちょっと思います。〈さわる〉というのが触診みたいな感じで、タッチはタッチだけど、〈もの〉として掴まれているような感じがします。そうするとこれセクハラ気味でちょっと嫌な感じで食べてるのかな、とか、いろいろと考えられますね」

おお、確かに田中氏もブレている感じだ。

田中「ただまあものすごく深刻じゃないのは、〈豆餅食う〉というのが最後にあるわけですから、この豆餅でちょっと諧謔味が出てきた感じです。これを面白いと思うか、思わないかですけれども‥‥」

山口氏が引き継ぐ。
「〈乳房ややさわられながら〉という部分、田中さんはいろいろな読みのブレが面白いんだという話をされていて、僕もそれはそうだなと思うんですけど、そのブレがあまりにも突飛な方向にとばないのは、田中さんもおっしゃっているように〈豆餅食う〉というそっちに結局意識が落ちるのねってところで終わってるからじゃないかな、と思います」

文月悠光氏からの質問。
「御中虫さんの作品は、作中主体と題材とが同化している印象。それは何か形式によるものなのか、とも思ったんですけど、高柳さんの場合はそうではない。そういう違いはどういったところから出てるのでしょう。御中虫さんのそういう部分はどこから来ているのか、お聞きしたいのですが」

田中氏が答える。
「俳句は、主語・動詞・目的語というのを基本とするとしたら、その主語がカットされる場合が多いというか、まあ了解されているものとしてカットされていくことが多いような気がします。客観写生という言葉がありますけど、まさに目的語をドンと出すわけですね」
「で、高柳さんの作品を、ちょっと翻訳してみようかなと思ったんですね。もし英語とかドイツ語に翻訳したらどうなるかと。そうしたら例えば〈ことごとく未踏なりけり冬の星〉という句の、この〈未踏なりけり〉の主語、別に〈I〉じゃなくてもいいんじゃないか、〈Man〉でもいいんじゃないか、何かあんまり〈I〉感がないというか、〈私〉感がないというか。強いて言うなら〈私〉というものの痕跡を残した〈彼〉という三人称の立場なのかな、と思いました」
「ところが御中虫さんの作品を翻訳するとしたら、これは逆に、〈じきに死ぬくらげをどりながら上陸〉、この〈くらげ〉というのも、くらげはくらげでたぶん三人称で訳せるんですが、ほとんど一人称、さきほど擬人化と言いましたけれど、〈くらげ=私〉になっている印象があります。〈机を蹴る机を叩く私は蚊ぢやない〉私という言葉を俳句でわざわざ入れるっていうのは、けっこう文字取るんで、わりあいしないんですね。わざわざ〈私〉という部分、ちょっと独特な感じがしますね」
「だから強いて言うならば、高柳さんは三人称的な文学で、御中虫さんは一人称的なところで書かれているから、同じ俳句だけれどけっこう印象っていうのは全く違うんじゃないかな、という気がします」


虹映る刃物振り振り飯の支度
混沌混。沌混沌。その先で待つ。

一句目の微妙などこか歪んだような爽やかさや、二句目の「混沌」度をさらに増すような表現法に注目。

夏の終わりに終わりはないあなたが好きだ

「夏に終わりはない」と「夏の終わりに終わりはない」の違いに潜む、好きになることの微妙な「悲しさ」が印象的だった。そして、

乳房ややさわられながら豆餅食う

この触られている側と触る側の関係が話題になったわけだが、僕的には、お互い許し合っていながら、だんだんそれに慣れてしまっている関係というのが、やはり一番ぴったり来る。この句の眼目は、何といっても「やや」。つまり双方とも胸を触る(触られる)ということ自体にそんなに特殊な感情がなくなっていると解釈。そして豆餅の味がその空気をみごとに解析している。
ある意味「胸を触られることを俳句の措辞として使用することなど、あっけなく簡単なんだよ。どうってことないんだよ」と提示されているような気がして、それは作句者として強い姿勢だと思えた。


そして、最後にグループ「詩」。


★中尾太一『御世の戦示の木の下で』(思潮社)より

 「アトモスフィア」

東京、洞爺丸が消えたころ、屋堂羅の神社で首をつって死んだ男がいる、と聞いた
東京、類縁の男が事業にとめどなく失敗していた、首をつって死んだと聞いた
東京、山村開発センターで戦艦大和の元乗組員の講演を聞いていた、夏休みでプー
ルの帰りだ、グラマンが呼吸のために浮かび上がる油のなかの彼らを狙った、スクロール
東京、畳の上に蟻の行列の幻を見る祖父の手のことを最初の詩で書いた
東京、それ自身が失語を伴って現前する父の笑顔のおくゆきを探している
東京、ルビコン、アンフォルメル、雛罌粟、テクニクラート、知悉、跨線橋、パチルス、ノマド、劫初
東京、幾つの未決を越えているか、首都高速道路、東名自動車道路、名神自動車道路、中国自動車道路、国道二九号線、たいてい朝方に着くから夜は町の光は見えない
東京、深夜、白いTシャツを着て青看板だけを頼りに歩いている子供の集団を、ぼくは眺めていて、向うに野球場のボールと見まがうばかりの巨大な焼却炉が見えた
東京、傷は若さを止める、そして止揚されない、幾千にも枝分かれしていった局地へは赴かないが、幻影がそこにいる、それを壊しに行こうか、という飢餓、ノマド、ルビコン、、跨線橋、パチルス、エトセトラ
東京、光なしで写真が撮れるか、と聞いた
東京、光なしで写真が撮ったと聞いた
東京、隣の酒屋の店主が見えないと思ったら癌で死んでいた。その前に家を改築したという。その必要があったらしい、と聞いた
東京、教会の帰り道に聖者のファシズムを空想した、あと「透明な人類」へ架ける橋を想像した
東京、最終的に死を投企した第一層の時間軸のさいはてで経験されたさいはての死を苦悶する自己が人間存在であり、その自己をわれわれが救い得た確証を求めて走る球体の外縁の、聖痕、そこから生える立木の、一葉一葉がかつてあり得ぬことと
措定された現象の継続の光で濡れていること、その直覚が何年間もある

*もう一編の推薦作品「この世の罪を被る」は、
http://siikaryouzannpaku.blogspot.com/2010/10/blog-post_14.html
をご参照下さい。


杉本徹氏の推薦の弁。
「中尾さんの詩集、中尾さんが持っている現在性、まず特筆すべきなのは、質と量の圧倒的な過剰さなんですね。これだけの量を切実に要求してくる彼の詩語の質の面の奔流が凄い。異様なぐらいです。詩集としてちょっと見たことのない風景が表われている。奔流の密度の中に非常に捉えがたい、非常に個人的な存在の根っこにかかわるような物語が見える。何らかの非常に切実で重要なその一種の引き裂かれる物語ですね。引き裂かれたことのその宿命、それを受容する、抵抗する、そして‥‥。叙情詩が今こういう形で赤裸々な命を呼吸しているという、そういう現在性ということを伝えたいと思います」

中尾作品に対する今橋氏の意見。
「今の私の体感としては、〈東京〉と呼びかけたくなる時の東京というのは、何回呼びかけても成就しない恋の相手のような印象があります。この隔てられ感。〈東京〉ではなくて、中尾さんは男性なので、例えば好きな女性の名前を入れればとか、そういうことも考えたりしました」

中尾太一作品「アトモスフィア」。
東京という場所が本来含むところの深遠あるいは魑魅魍魎。おそらくは永遠に終わらないジグソーパズル。そのピースを一つ一つ埋めていく作者の姿勢というか、苦み、悲しみ、希望などが混ぜこぜになった張りつめた感情、その力強さに、とても惹かれた。
特に、「東京、光なしで写真が撮れるか、と聞いた/東京、光なしで写真を撮ったと聞いた」の二行は極めて示唆的だ。


★大江麻衣『昭和以降に恋愛はない』(「新潮」7月号)より

「夜の水」

花に感動できません。乳首舐められても感動できません。どちらも自分は困らないけど、他人が困る。わたしは、おんなのひととして、色んなものが欠けているのだと、おもわれるのだけが困る。

最近の女子高生はふとい脚にも痣みたいな唇のあとをつける、それが短い制服のスカートの裾から見えると吐きそうになる。男子の唇の痕は汚い。男はなぜこの女子の、今まで他の男が触れていないところを探さなかったのだろう、こんな太い脚の、ほんのちょっとに、汚い痕を、蚊のように、他の男が吸っただろう場所の上に、情けない、他のものが触れていない場所に興味がないなんて、全てに唇を触れようとすればこの女子の体はもう全部赤褐色になって本当に醜いのだけれども、そんな姿だったらわたしは感動して話しかけたい。
いやあもう本当醜いけどなんて素晴らしいこと!だけどまあ男子女子はそんなんで満足するのだった。そんなものでそんなもので、だから恋愛はだめだ、昭和以降に恋愛はない、街はいつでもばかみたいにセックスにしかみえない男子女子が連れ立って歩く、みんな死なないといけない。
そんな今の世の中でも海鼠はすてきだ、ただ、砂の上でじっとしていて、手で持つだけなら、それでもじってしている。感動はしない。神様、アダムは土からうまれた、土とは砂のことで、まずは性器から作ったのでしょう。粘土で作りやすいかたちをしているものね、てきとうに丸めたり伸ばしたり、そこから発生したのでしょうね、人間は。なので、海鼠はほんとうのほんとうに、最初の生きものなのかもしれませんね。「そうだね、海鼠は手で握ってみて、振るとだんだん硬くなってくるよ、中から白いのがびゅっと出てくるから、ね、海鼠。形質と質量がね。あんたさ、海鼠ばっかり触ってないで、自分が乳首で感じられないことについて、もっと真剣に悩んだほうがいいんじゃないかな。ただでさえ汚いんだから」
君の考えからすれば、海鼠なんか人間の出来損ないだ(といって私の胸をさわる)、わたしはおんなだから、海鼠を料理せずにそのまま口に入れたり、さわったりしたいと思うのは、当たり前だということ。おんなも、たどっていけば海鼠から生まれた。人間が粘土に戻る時、人間は砂に還れても海鼠にはもどれない。海鼠はただ海鼠としてじっとしていて、振られることもないから硬くなることもない、ただ何にもならずにずっと、海鼠だけがみたいな、そんなことをしていても、置いていかれないような、生きていられるような、感動はせず、ただじっと、海鼠を、みつめる。
(胸と)腰以外を好きになってくれる男でもいたらいいな、だいたいがみんなそれを必死でこねる、発達しない。女子はひとりの夜いつも自分で自分をおしまいにする、自分でこねているとこの奇妙な形の性器一帯は粘土みたいに思えてくる必死でこねている、いやになる、作業。セックスはひとつとひとつの作業、だいたいが一人で持つ。みんながこうやって、こねているのだから…やさしいひとの顔さえも変な顔にみえてくる、怯える。そのひとが自分からいなくなってしまう!男はいいように触るので、その形は自分で直すしかないのだから、女子が性器をいじるのはそういうこと。粘土をやわらかくするには水がいる。女子の水は体内から外へそっと出る、 
夜に。

*もう一編の推薦作品「金魚すくい」は、
http://siikaryouzannpaku.blogspot.com/2010/10/blog-post_14.html
をご参照下さい。


文月悠光氏の推薦の弁。
「特に若い詩人の間で詩の散文化が進んできていまして、大江さんの場合も話し言葉が挿入されたり、エッセイのような内容があったりして、非常にくだけた文体です。多くの人に読まれて話題になった『夜の水』ですが、全体を通して読んだ時に、男性から定められた女性性に対する女性からの弁明、あるいは抵抗を強く感じます。
回りからはこういうふうに見られているかもしれないけど、本当は女子ってこういうものなのよという、そういう独り芝居を見ているような感じがありました。何か倫理のようなものが見えて来て、そこから〈私〉というものが浮かび上がってくるのではないかと思いました」

大江作品に対する今橋氏の意見、
「私の印象では、『新潮』でまず読ませていただいた時は〈これは悲鳴だ〉といって〈読めないな〉と思ったということがあります。読めないので、とばしとばし目に入れていったんですけど、どんどん音が意味を巻き込んでいき、悲鳴感が加速をつけていく感じで痛々しさが募りました」

かつて島田雅彦は「詩人は何をどう書くことも許されているのです」と言った。
大江麻衣作品「夜の水」、このとめどなさが、そのまま女性性であるかのような印象を持った。これはもう「挑発」どころの騒ぎじゃないわけで、読者としては、何かじわじわと「絞められて」または「雑巾のように絞られて」いくような、そんな感じがある。「みんな死なないといけない」「ただでさえ汚いんだから」「自分で自分をおしまいにする」といったような鋭い切っ先も随所に用意されている。
文月氏が言うように「独り芝居」的な、どんどん深い部分に沈み込んでいくような緊迫感。そしてその「独り芝居」は瑞々しい「解放」でもある。
この一編、さらに読み込んでみたい。


御中虫氏は、『俳壇』(本阿弥書店)10月号に「嘘のない表現をするためなら私は手段を選びませんし、あるいは俳句でさえなくなるのかもしれません」と記している。
シンポジウムの最中、僕は何度かこの一文を思い返していた。
「詩型」にとことんまでこだわる、「詩型」を冷静に見つめてみる‥‥シンポジウムの参加者全員、きっと様々な思いが交錯したことだろう。
ともあれ、代表の森川氏が示すところの「それぞれの詩型の特徴や相違点を考え、時には融合するなどし、これからの表現の可能性を探ります」という意義の第一歩がしっかりと踏み出された。とても刺激的な時間だった。

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