2010年9月25日土曜日

海程ディープ/兜太インパクト -1- 人間・金子兜太 ・・・中内亮玄

海程ディープ/兜太インパクト -1-
人間・金子兜太
・・・中内亮玄

私にとって、「海程」とは金子兜太である。
そしてその金子兜太とは、ただ一言、尊敬できる「人間」である。
私は類型を恐れるため、批評や感想等の必要のない限り、他の方の句は極力読まない事にしている。また、俳句をはじめたばかりの頃には、兜太師をはじめ先輩方の作品を読んでもあまりよくわからなかったというのが正直なところだ。それなのに金子兜太を師と仰ぐようになったのはなぜか。それは、ひとえに師の人柄を尊敬しているからである。

兜太師と、10年ほど前にはじめてお会いしたときには、先輩方から「とにかく偉い先生が東京の方から飛行機で見えなさるから失礼のないように」(福井県民にとっては、東京近辺の方々はみんな東京の方だ。なおかつ飛行機に乗れる人はVIPのみである)ということだけを聞いており、緊張しきりで色紙にサインを頂いたくらいの思い出しかない。肝心の俳句の話は覚えていないので、つまり俳句をはじめたばかりの私にとっては内容が難しかったのだと思う。
その後NHKの番組で、絵画の批評をする先生を見た。「あ、この前の先生がテレビに出てる」と思って観ていると、その絵画を表現する言葉の的確さ、美しさに驚いた。
それが、私のぼんやりとした、兜太師に対しての最初の思い出である。

それからも、なんとなく海程に投句し続けていると、この冊子には頻繁に誤字があることに気がついた。最初は気のせいかとも思ったが、どうもおかしい。むしろ誤植された方が、いい句のように思えるのだ。でも、訂正するほどの気合いも入ってない私は、いい加減に読み流していた。
「東京の大先生(だから、東京じゃないって)が、僕の句なんて真面目に読んでいるはずがないよなあ」くらいにも思っていて、それでもなんとなく投句して、なんとなく月日が流れていった。
20代後半頃の私は、趣味の音楽活動だけでも年間100本以上のライブをこなしていた。仕事の他に仏道にも目覚めて、空手も始めて、結婚もして、なんせ全てに熱が入っていたし、俳句への情熱は相対的には低い方であった。だから、作句よりも、俳句をやっている先輩が気さくで親切な方ばかりだったから、続けていけたと言ったほうが正しいかもしれない。(これを読んでいる俳人諸氏には気分の悪い話ですみません)

ところが、平成十九年そんな私に衝撃の事件が起こる。
その年の5月号の掲載句が、上語5文字がまるきり誤植なのである。

原句  群青のビル群抜けない棘ばかり  亮玄

誤植  冬青きビル群抜けない棘ばかり  (???)

となっている。
しかし、事件はそこではない。なんと、これが兜太選の好作三十句に入っていたのだ。
これは、気のせいではないだろう。兜太師は、この「僕」の作品を見ていてくださったのだ。「ここをこう直せば好作に入るんだ」ということを示してくださったということである。こんなにうれしいことはない。(誤解のないように後日知ったことを明かせば、師は全員の投句用紙に赤ペンでぎっしり何やら書きながら選をしていて、決して私のだけを特別扱いして見ていてくださったわけではありません)
しかし、私が金子兜太を師と仰ぐのは、このように自分の作品を見てくださったからではない。
本題はここからである。
翌月、「海程45周年記念・全国大会」が東京で開催された。私は、懇親会の席で先生にウーロン茶を注ぎに行って切り出した。
「先生、あの、先月の海程なんですが・・・。もしかしてとは思うんですが、先生が僕の句を手直ししてくださったということは・・・」
もし、何かの間違いで、ただの誤植などだったら、とんだ赤っ恥である。おずおずと申し出た。
反対に、運がよければ、俳句づくりに関してのアドバイスなども頂けるかもしれない。
すると師は、こうおっしゃったのだ。

「いや、悪いことをしたな。勝手なことをして、スマン、スマン」

この姿勢である。
私はびっくりした。
驚いた。ひっくり返りそうになった。

「ワルイコトヲシタナ。スマン、スマン」

有名でも無名でも、歳がいっていても若くても、俳句に対しては同じ立場で接したい、ということなのだ。だから、私のような若輩の者にも、こんなに真摯な態度をとってくださる。
「どっか東京の遠くのほう(だから、秩父は東京じゃない)にいる偉い俳人」金子兜太先生は、「僕の 尊敬する人間」金子兜太先生になった。
そして翌日、千葉での夕食の際、
「先生、僕は先生の弟子って名乗ってもいいですか」
と、思い切って直訴に出た。先生は、面食らったような顔をしていたが
「それは自由にしていいんだよ。いいんだ、いいんだ」
と、つまりわざわざ言わなくても、私たちが先生と思えば先生なのだから、許可なんて必要ないんだよ、とおっしゃられたのである。この時より、金子兜太は「僕の先生」である。
もちろんみんなの先生なのだ。でも、それは私には関係なくて、私にとっては「僕の先生」なのである。それまで迷っていた「師系」の欄にも、晴れて堂々と「金子兜太」と書けるようになった。

私の目標は、師に「こいつは俺の弟子なんだよ」と自慢してもらえるような俳人に成長することである。それを掲げて、この3年は俳句に力を注いできたつもりだし、これからもそれが原動力となる。
ただ、勘違いしてほしくないのは、私は誇りを持って金子兜太の弟子と名乗りはするが、それによっていわゆる「虎の威を借る狐」になりたいわけではない。
何事も一匹狼で通してきた私にとって、それは最も忌むべきことで、だから私は「海程所属」と名乗ったことは、ただの一度もない。公募の作品への記載も、所属結社はあくまで同人である「狼」のみである。同人でもないのに、海程先輩方の名を騙ることはできないと心に決めているからだ。
今回の、平成22年度の現代俳句協会新人賞の応募用紙にも、師の名前も、海程の名前も一切挙げてはいない。

私はあくまで、ただ「人間」金子兜太の弟子である。

3 件のコメント:

  1. 中内君、お久しぶりですと言うべきでしょうか(笑)

    以前いただいた冊子で金子兜太氏への熱い思いは伺っておりましたが、今回の記事を通じてはそれだけにとどまらない「俳人中内亮玄」の立ち姿を見せていただきました。

    いよいよ動き出したな、との思いをひしひしと感じています。
    私も負けていられません。
    今度金沢でお会いしたときには、思う存分語り合いたいですね、
    師弟のあり方とか、俳人のあり方とか。
    楽しみにしていますよ。

    感想らしからぬ一文、なにとぞご容赦。

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  2.  岡本さん(狼の先輩です)、つたない文章にコメントありがとうございます。お久しぶりです。
     なかなか狼句会に参加できず、ちょっとあせっています。

     今は俳句の読ませ方、エンターテイメント性ということを求めて様々な試みをしています。
     昨年の句集もそうですが、この度は海程の巻頭作品におもしろい10句を提出しました。題によって、作品そのものを総括する、という遊び(トリック)です。
     「たこやき」を詠った句は1句もありません。
     「子どもとの様子」を詠った10句なのですが、想像力をつかってくれないと「なんだ、これで巻頭とはあつかましい腕前だ」と笑われるような、馬鹿馬鹿しい俳句たちです。

    「わっかるかなぁ。わっかんねえだろうなぁー」
    とほくそえんでいる、そういうことを俳句の新しい楽しみとしてはじめて行きたいと考えています。(性格悪いですかね)笑
     機会があったら、読んでみて下さい。
     
     あ、遊んででいるというのは、決して「ふざけている」という意味ではありませんから。
     まじめに、一生懸命遊んでいます!

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    1. 亮玄さん、元気にお過ごしでしょうか?

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