■海程ディープ/兜太インパクト -4-
読む楽しみとして
・・・三世川浩司
海程に入会して良かったと思うことのひとつに、自分にとって魅力的な句に巡りあえることがあげられます。普段は句会や海程誌上でのことですが、先輩方との雑談や戴いた資料で知ることもあります。特におもしろいと感じた場合は、その作者の句集を手に入れるようにしています。そんな結果として、海程戦後俳句の会や海程社そして海程新社の発行した、もう40年ほど以前の句集がわりあい多く集まりました。この際個人の嗜好で恐縮ですが敬愛している作者の句のいくつかを紹介したいと思います。
未婚すこやか柵を喰いちぎり隣の豚
テラスで逢うわたし等林檎は雲にのせる
平和ながかれ朝のみみずに野の弾力
戦乱そのあと畠でふとる大根だよ
ビルの雀へ肉塊ひと振り私の体操
作者は島田(現 成田)輝子さんです。初見でその新鮮さに驚愕したことを、今も鮮明に記憶しています。日常で出会った、自分自身の「感情」に驚き楽しんでいる。そしてそれを真正直にまじりっけなしに、定型と言うより韻律にのせている。作者にとって豚やみみずや大根と人間とは等量であり、自由に交感しその生命を慈しまれているようです。その結果として文体は、文語定型的な「発想」から離れた、より会話体に近い固有の口語体です。
たしかに金塊おとした悲鳴でフライパン
黄色く続くけもの踏む道天気なんだ
概念的に観念的に捉えなければ、日常にはこんなに非日常の相があることに驚きます。
エプロンひろげいたる処に豆科の花
醜女の如きじゃが芋剥けり泣きじゃくり
団地ぶた草悪僧が来るいいぞいいぞ
ふんだんに氷きんとき豆天下取ったれば
雨傘てっぺんタンポポが止まる全国的に
てきぱき答えておさむ君は初冬の雀
作品として俳句を作ろう、などと言う意識は皆無に等しいでしょう。そのときそのときの感情にのみ関心があり、それを検証できれば充分なのです。ストレートに感情の核のみが伝わるので、読み手はそれに浸りまた共有することが出来ます。平易で意味やイメージを追う必要のない文体ですし。ただし表現の領域を拡げる、あるいは読ませるためのバリエーションに富む、とは言いがたい文体かもしれません。
兄逝けり山間部はじめて雪の報せ
柩の兄に全流見えて真夜の川
喪の吾にみごもる如き冬木あり
喪の七日鮮烈に覚め肉屋八百屋
土に還る兄かたつむりほどの冬日
こんなに韻律の緊密な句は、他でも見たことがありませんでした。己の感情にのみ執着する作者だったからこそ、その膨大な悲しみが韻律に転化したとしか思えません。コメントするのを憚られるほどです。ただしこの不幸は、特殊でありながら誰にでも受領できる状況ゆえ、表現としては普遍性に充ちていると思います。
階下に老母晩秋という日の短さ
五月鮮らし俎を葱よこぎって
春蒔球根母が愛でおりほんにほんに
野菜とあればコロコロな鶏卵じつに自分
六月わが朝玉葱こんなに沢山買い
俳句文庫『島田輝子句集』はこのような句で締めくくられています。いちばん先に紹介した句とは約20年の人生の経過があります。清潔で温暖な陽光が感じられました。
ご紹介した句は「社会性」とか「前衛」とかカテゴライズされるムーブメントからは、遠い位置にあったものでしょう。また俳句表現として、方法論や技法のテキストになるともあまり思われません。ただ40年以上前の句でも、こんなにも面白いと感じて戴ければ幸いです。
「40年以上前の句でも、こんなにも面白い」と、おっしやる通りですね。
返信削除ときどき若い作家などを、俳壇やら個人から「面白いでしょう?新しいでしょう?」
とその技巧や感性を推奨され、突きつけられても「そうですね。素晴らしいですね。」
とは素直にうなずけない場合もあります。「個人の嗜好で恐縮ですが」と言われるように面白さって理屈ではないのですが、そんなもやもやした気分をスーッと消してくれるような、健やかなエネルギーと新鮮さを感じました。
もっと島田さんの事を知りたくなって、友人から譲り受けた海程バックナンバーを紐解いて見つけた言葉や、成田輝子さんに変わられてからの作品など、次回このコーナーで紹介させてもらう事になりました。〈読む楽しみとして〉シリーズです。