2010年9月25日土曜日

太く掴めり 片山タケ子『薔薇の昼』 ・・・関悦史

太く掴めり
片山タケ子『薔薇の昼』
・・・関悦史

読んだから書く、何か優れた作品に打たれてその衝撃によって自分も書き始めるというのは文学的営為に手を染めはじめるにあたり、最も真っ当なルートと思われるが、こと俳句に関しては必ずしもそうではなく、知人に句会に誘われてといった始め方をする人が多いらしい(詩や小説においても自己表現の意欲が先に立って、読まずに書くという人が少なくないのかもしれないが今はおく)。
そうした中ではこのほど第一句集『薔薇の昼』を上梓した片山タケ子は至極真っ当なルートから俳句に入ったと言えるのかもしれないのだが、最初に魅了された対象がやや変わっている。

 《いまから20年くらい前、山口誓子の俳句を英訳したThe Essence of Modern HAIKKUに夢中になりました。そして俳句を英語の三行詩に変換できる驚きに魅了されてしまい、私も英語俳句に挑戦してみたいという願望を抱きました》(「あとがき」157頁。「HAIKKU」は原文ママ)

英訳俳句以前に俳句に接した機会があったのかどうかは判然としないが創作に手を染めたのはこれ以降のことらしく、基礎から勉強するために平成12年、NHK俳句講座の講師であった伊藤白潮に師事、一昨年白潮に訃に接して「鴫」を退会、「らん」に入会という軌跡をたどっている。
『薔薇の昼』は日英対訳横組みの句集で「らん」発行人鳴戸奈菜の序文が付く。残念ながら三行の英語に訳された句を味読する語学力は当方にはないので、以下基本的に原文のみを見ることになる。


吊革を太く掴めり冬来る
逢引きに煉獄の色かぎろへる
稲の花卑弥呼のそばへまゐりませう


一句目の「太く掴めり」の巧みさ、勇ましさについては鳴戸奈菜の序文に指摘があるが、この大ぶりな把握力がこの作者の強い特色のひとつ。この場合の把握力とは、対象を捉える際の感覚の冴えと、それを言語によって細分化し、的確に枝葉を払って再構成する力を差す。
女性の身体に根ざした句や恋愛の句は《乾きたる子宮ふきぬく秋の風》《秋水の映すもう一人のわたし》《失ひしものは帰らず花筏》等々集中幾つもあるのだが中では二句目に引いた「逢引きに」の、「煉獄」のの概念的な虚辞に「色かぎろへる」で受肉させてしまった力技が目を引く。恋愛関係の句では他に《鮟鱇の如きくちびる君の嘘》の、嘘をつく相手の唇が妙な異化効果を持って迫ってくる諧謔も面白い。

三句目は「稲の花」→「稲作文化」→「古代」といった無理のない連想から「卑弥呼」を呼び出すが、重要なのは「まゐりませう」で、これが「行かんとす」であれば忽ち凡句となるところ。「まゐりませう」の口語で卑弥呼が急に時空を超え、妙に近しいすぐにも会えそうな存在となった。この越境の要素が分かりやすく出た句としては《糸遊を越ゆこれよりは鬼房郷》《鳥葬の国へ続けり鰯雲》もある。こうした別世界への憧憬は、以下のような句にもそれぞれ潜んでいるのではないか。五感の研ぎ澄ましによる写生が、いつの間にか幻想の域に踏み込んでいく。


まつくらな海へ続けり踊笠
蟷螂の色変へながら生れ落つ
卓上にギヤマン並ぶ青き海
銀杏散る速さになりぬフルート音
雪渓の森の匂ひに迷ひ込む
月夜茸けものの気配してきたる
天も地も濡らさず消ゆる冬の虹
紙ふうせん舟のかたちに休みをり
春の水びんのかたちに壜の中


幻想の域の土台にあるのはこれら「色」「速さ」「匂ひ」「気配」といった五感ばかりではない。


約束のやうに置かるる鵙の贄
あかつきの狼ならば従はむ
蛤になるか雀の羽づくろひ
サーカスもてんたう虫も去りにけり


一句目は「約束のやうに」の奇妙な直喩、「鵙の贄」が何ものとのどういう約束を示しているのかといった不思議さをまといつつ、そのことによって物件としての鵙の贄が読み手に迫ってくる。
二句目はただの「狼」ではなく「あかつきの狼」というただの動物の位格を超えた存在との感応と決意を詠み、三句目はまた打って変わって季語の「雀蛤となる」の約束事としての変身空想を「羽づくろひ」の具体性で現実に引き込むという技を見せる。
四句目は日常にあり得る事態を淡々と叙しながら「サーカス」と「てんたう虫」の並列でこの両者から抽出される鮮やかなもの、可憐で懐かしいものが、打ち揃って手の届かぬ別世界へ去ってしまった非日常的寂寥を呼んでいる。
幻想性があるとは言っても此岸をホームグラウンドとする立ち位置は揺るぎはしないので、その良識性が判りやすさにも穏当さにも繋がる。


2001.9.11 アメリカ同時多発テロ、世界貿易センタービル崩壊
九月十一日うさぎ抱きしめる
モナリザ笑み続ける九月十一日


同時多発テロを詠んだ二句では、前者はうさぎを抱きしめる肉体に拠ることで恐れを隠喩化し、後者ではモナリザの笑みが永遠のアポリアのコード(符号)のように働いており、いずれも語り手の位置がある一つの次元の中にそつなく収まっている。後者はその破綻のない技巧の中ででもモナリザの笑みの持続がじわじわと迫ってくる点、表象しきれないような素材を前にして技の限界を見極めつつ一定の成果を上げた佳句といっていいのではないか。


ざりがにの身動きとれぬ缶に飼ふ
厚き胸出でてTシャツ抜け殻に
摩天楼をがぶ呑み釣瓶落しの日


これらの句の無愛想なような正確な把握が持つ力感を、この作者が持つ幻想への志向と綯い交ぜにし、性と自己の領域へ差し向けたのが以下の佳句である。


夏嵐ふと身を投げむ噴火口
火星欄々と蛇穴に入る気なし
女教師が蛇下げて入るアトリエに


一句目は戦後派作家梅崎春生の名品中の名品「幻化」を本歌取りしたような作。二句目は語り手自身が蛇となって宇宙、火星の赤らみと交感しつつ衰滅を悠々と拒む幻怪さがユーモアを持って描かれ、三句目では女教師と蛇というこれも性的符号のような組み合わせが「アトリエ」へずらされることによって却って「女教師」が野太さを増し、しかも句としては性的隠喩への直行を逸らされて典雅にまとまっている。いずれも安全圏からの構成であるがゆえに確かな把握が利くといった作りだが、そこを物足りないと見てもなお充分に興味深い句集である。

蛇足ながら英語との対訳について気になったことを一つ。


蟇間一髪をタイヤ過ぐ


この句の英訳は下記のようなものだった。


Ah,a toad!
my tire passed by him
a narrow escape


「my tire」となっているので、この句は運転者の視点から語られていることになっているようだ。
日本語の原句では語り手が車の中から見ているのか外から見ているのかは特定されないため、この場面に関わるあらゆる視点――車の中、外、轢かれそうになった蟇、さらにいわゆる神の視点――を包括し、多次元から一度に見ているように私は読んでいたことを改めて意識させられた。英訳によって所有格が明示された際のズレから窺知される領域は、俳句にとって意外に些細な問題ではないのかもしれない。


※片山タケ子句集『薔薇の昼』(永田書房・2010年7月30日発行)は著者から寄贈を受けました。記して感謝します。

8 件のコメント:

  1. 関氏の鑑賞はまるでフロイトの精神分析を受けている患者のような陶酔感を覚える異色の評論で説得力抜群!!

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  2. 「鴫」で同じ釜の飯を食ってきた一人です。タケ子さんは人事句の「鴫」の中では異色の句を作り続けてきた人です。関さんが指摘された大づかみの把握力や幻想性もそうですが、彼女の最もよいところは、情に流されない極めて健康的な明るさであり、言い換えれば華やかさを持つ底抜けのドライ性にあります。また女性でありながら、家庭を詠むことを意識的に排除し、俳人であるより詩人として生きていきたい、と念願しているところです。
     『薔薇の昼』は「鴫」の作家としての集大成あり、「鴫」を卒業して、これから独立した詩人として生きてゆく中での通過点の句集だと思っています。これから新しい環境と仲間の中でどのように成長してゆくのか、期待をこめて見守って行きたいと思っています。

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  3. むろさき れいこ2010年10月4日 1:20

    至極真っ当なルートから入ったとあるがそう言う意味では彼女はすべて至極真っ当なルートから入る人かもしれない。趣味多彩な人であるがそれぞれいい加減に終わっていない。関氏の解説で一句一句の深みを知った思いです。日本語の曖昧さ、俳句も無駄な言葉は削除され多様に取れるその中身、もしかしたらタケ子さんはハッキリした見方に出来る英語俳句が好きなのかなと思った一瞬でした。
    意味不明な事を書き込んでるかも知れない私は他人の俳句を読むのは好きでも文学的センスのないウン十年前のクラスメートで彼女の俳句の大ファンでもあります。

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  4. 片山タケ子は古風すぎる名前の響きと字面に反して実に現代風美女である。詩と詩人を評するに外見は無用とおっしゃいますか?いいえ大いに関係あり。わたくしはかつて句会の席で、かなりの嫉妬と羨望をこめて彼女の美しい横顔を盗み見たことを告白します。
    『薔薇の昼』この詩集名、この美意識、この詩集の形態を作者が美女ゆえに許せます!(醜女ならば許せない!)手垢のついていない
    斬新な言葉と表現は衰えを知らず、彼女の紅唇としなやかな指先から(傍目にはいとも簡単に)紡ぎ出されるのです。

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  5. 皆様コメントありがとうございます。レスが遅くなって大変失礼しました。

    匿名さん>
    フロイトは過褒ではありますが、句集にはそうした領域の構造がつかめればと思って接しております。

    山本無蓋さん>
    健康的な明るさというのは仰るとおりですね。実は最初『薔薇の昼』という審美性の強そうな書名から、これはかなり自己陶酔的な作風なのではないかと思ってしまったのですが、良い意味で予想が裏切られました。

    むろさきれいこさん>
    そういう感じがしますね。作品も明確で直截なものが多く、思わせぶりなものがありません。もともと俳句という詩形に向いた方だったのかもしれません。

    匿名さん>
    片山さんも、序文をお書きになった鳴戸さんも、私もJRの同じ路線沿いの30~40分圏内に住んでいるということになるようです。
    そんなに遠いというほどでもないので、いずれ何かの折に直接お目にかかる機会もあるかもしれません。そのときを楽しみに待つこととさせていただきます。

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  6. 御縁を得て「薔薇の昼」拝読させて頂きました。
    胸に深く沁み、また ドキリと忘れ難い句に 沢山お逢いしました。ほそく切った料紙を 一杯挿みました。
    国語力の低下を嘆き、「若者は もっと俳句や短歌を詠むべきだ」--が持論の、外国に暮らす自分だって十分若者(息子)にも、貸して上げようと思います。
    変わらぬご活躍を祈り上げます。
    .
      

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  7. 「薔薇の昼」をご恵贈いただき、ありがとうございました。
     「鴫」の一人として、大変うれしく拝読しました。そして、タケ子さんの実力を再認識させていただきました。句会では、ありきたりな句柄の多い中で、その個性的な着眼と感性にいつも刮目させられました。
     関氏の掲句と観賞は的確で、タケ子さんのためにも心から「ありがとう」と申し上げます。その中の「九月十一日うさぎ抱きしめる」は、白潮師も高く評価し、「鴫」でもその年一番の話題句になりました。
     タケ子さんが優れた感性を抱きしめて、さらに大きく飛躍されますよう祈っています。
     そして、タケ子さんの原点がHAIKUですので、この句集がHAIKU界にこそ波紋を広げてくれることを期待しています。

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  8. 「薔薇の昼」を拝読させて頂きました。先ずはじめに、この句集は最高の出来だと感じました。それに翻訳されている英文も的を捉えられた素敵な表現だと思います。実は僕も平成14年に公務員を退職して現在に至るまで「清泉」と称する俳号で俳句をやっておりますが、この「薔薇の昼」を拝読して形式に捉われないでのびのびとした表現での俳句にはいささか俳句を作る勇気を与えてくれました。現在この句集の一句一句をかみしめながら拝読しております。僕も英語には興味を持っておりますので、素敵な句集を見つける事が出来て嬉しい限りです。           清泉

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